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ジェーン・エア――女神の息吹


1 女神の息吹

 あばら屋の建ち並ぶ丘の上に、少女は独り立っていた。
 少女――ナギは、絶え間なく吹き過ぎる風を全身に受け、遠い空の端にある灰色の塊を見つめる。
 〈風の丘〉と呼ばれるこの場所は、航空士の憧れの地であり、聖地である。
 丘の上に点在するあばら屋は、全て半地下のドックであり、その一つ一つに空に焦がれた航空士とその自作の航空機が待機している。
 ジェーン・エア――女神の息吹と呼ばれるそれは、大嵐の直前、一瞬だけ吹く微かな風だ。その風が、その風だけが、航空機を空へと導いてくれる。
 各地の航空士が〈風の丘〉に集まるのは、この風を求めてのことだ。
 絶え間なく風が流れ、嵐の季節になれば月に数回のジェーン・エアに恵まれるこの丘は、国における唯一にして最高の天然飛行場だった。
「ナギ、風はどうだ?」
 背後から、声が響いた。
「北北東五メートルパーセコンド。気温二十一度、気圧千三ヘクトパスカル。予定より、少し早いかもしれないわ。」
 ナギは正面を向いたまま静かに答えた。それから小さく息を吐いて、風になびく亜麻色の髪を押さえながら振り返る。
「そうか。なら、少し急いだ方が良さそうだな。左のプロペラの回転が悪くて、調整し直そうと思ってるんだ。」
 声の主たる青年、カイルは、クランチを握った右手で額の汗を拭いながら、背後のあばら屋に向き直る。ナギはカイルに並び、半地下のあばら屋を覗き込んだ。
 中には、航空機が一機――機首と左右の翼に、合計三つのプロペラが付いている。
 しかし、形こそ確かに航空機なのだが、廃材を繋ぎ合わせて作られたらしいそれは、木目や色味に統一感がなく、手作り感たっぷり。お世辞にもかっこいいと呼べる代物ではなかった。
「ねえ、カイル。本当にこんなのが飛ぶの?」
 ナギは過去に何度も問うた質問を繰り返した。
「こんなのとは何だ、こんなのとは。これはオレが八年掛けて完成させた自信作だぞ! まあ、確かに塗装は予算不足で諦めたし、見た目がいまいちなのは認めるけど、設計は完璧。ちゃんと飛ぶさ。」
 カイルは腰に手を当てて、過去に何度も聞いた答えを返してきた。オイルで汚れた顔に汗を滲ませ、漆黒の瞳をきらきらと輝かせながら、カイルの表情は自信と高揚感に溢れていた。
「……じゃあ、私も乗せて。」
 そう言って、ナギは半地下のドックに飛び降りた。
「え?」
「後ろの貨物入れでいいよ。私、小さいから入れると思う。」
 ナギは機体の下に潜り込み、軽く握った拳でその機体を叩いた。反響音から探るに、十分な空間がありそうだ。
「無茶言うな。乗せられるわけないだろ。危な過ぎる。」
 ナギに続いてカイルもドックに飛び降りたようで、腰にぶら下げられた工具類の音がドックに響く。
「何で? ちゃんと飛ぶんでしょ、これ。」
「……そりゃ、飛ぶけどさ。万が一ってこともあるだろ。オレは初飛行だし、着陸に失敗して怪我でもさせたら、オレはお前の親父に殺される! だから、ダメ。前途有望な気象観測士さんは丘の上でオレの初飛行を見守っててくれよ。これで成功したら、次は乗せてやるからさ。」
 カイルは機体の下を覗き込むと、機体の下に座り込んでいたナギに手を伸ばし、幼子をあやすようにぽんぽんとその頭を叩いた。
 ――いつも、そうだ。
 ナギは僅かに頬を膨らませ、黙って機体から這い出した。
「風、見てくる。整備、急いだ方が良いよ。」
 ナギはカイルの脇をすり抜け、機体の前方に伸びた細いスロープに飛び乗って丘の上に戻る。ナギの背後で、カイルはきっと笑っているだろう。子供っぽいわがままを言い、機嫌を損ねた幼馴染みに、呆れているに違いない。

 カイルは、ナギより五つ年上の二十一歳。共に〈風の丘〉の麓の村で育った幼馴染みだ。
 聖地のすぐそばで暮らし、毎日のように大空を夢見る愚か者の姿を見上げ続けてきたのだから、カイルが彼らと同じように空を目指したことはあまりにも自然なことだった。事実、村の少年のほとんどは、一度は必ず航空士になることを夢に見る。そして、そのほとんどが、道半ばにして目を覚ます。
 なぜなら、大空を夢見る航空士は皆、愚か者だからだ。
 航空機一機を作り上げるのに必要な知識を修得し、資金を集め、さらに実際に機体を作るまでに費やす時間は年単位。加えて、その渾身の機体が必ずしも空を飛ぶとは限らない。
 現状、航空機の離陸が可能となる風は大嵐の直前に一瞬吹くだけの微風――ジェーン・エアのみであると言われている。離陸のタイミングを誤って飛び上がれずに風の丘を滑り落ちていくだけの機体もあれば、離陸後に大嵐に巻き込まれて墜落するものも少なくない。
 そんな致命的な危険を伴うがゆえに、機体の設計士はその飛行について全責任を負い、機体の操縦士を兼ねるのが通例だ。操縦士以外の人間が同乗することもほとんどない。まれにベテランの操縦士が航空士人生の記念にとその家族や友人を同乗させることはあるが、普通は誰も乗りたがらない。
 航空士になって自ら設計した機体で空を飛ぶ――それは愚か者のみが見る夢だった。
 誰よりも勉強熱心で、誰よりも優しくて、そして誰よりも純粋だったナギの幼馴染みは、〈風の丘〉に棲む魔女に魅入られて、国一番の愚か者の仲間入りをしてしまった。そして、そんな愚か者に恋をしたナギ自身は、きっと世界一の愚か者なのだ。

 空の端の灰色の塊が、いつの間にかその色を濃くしている。大嵐が、近付いている。
『……ポイント一二四、北東八メートルパーセコンド、気温十九度、気圧千一ヘクトパスカル。……ポイント一〇五、東北東十メートルパーセコンド、気温二十度、気圧九百九十八ヘクトパスカル。……』
 気象観測無線で飛び交う各地の観測速報値を聞きながら、ナギは計算する。正午に聞いた国立気象観測所の発表では、〈風の丘〉に大嵐が到着するのは夜のはじめ頃とのことだったが、実際にはもう少し早くなるだろう。
 少なくとも、ジェーン・エアは日没より先に〈風の丘〉を過ぎる。
 これは今日ここに集まった航空士たちには朗報だろうが、ナギにとっては嬉しくない事態だった。
 いや、ナギにとってはどちらでも同じことなのかもしれない。愚か者のカイルが、日没を理由に離陸を諦めるとは限らないのだから。

 ――風の色が変わった。
 大嵐が近い。ジェーン・エアが近い。

 ナギが気象観測士になったのは、カイルの役に立つためだった。〈風の丘〉から飛び立つ愚か者たちに憧れて大空を目指したカイルと同じように、ナギも夢見ていた。
 年上の幼なじみに褒めてもらいたくて、必要とされたくて、必死で勉強して、気象観測士の試験に史上最年少で合格した。
 気象観測士は国家資格であり、風がその命運を担う航空士の間では〈風読み〉と呼ばれて重宝される。文字通り風を読み、離陸のタイミングを測る〈風読み〉は、航空士にとって重要なアドバイザーであり、パートナーだ。気象観測士の資格を持たない〈風読み〉もいるが、それは、国家資格が創設される前からその仕事をしている一部の重鎮を除けば、いわば〈風読み〉見習いのようなものであり、信頼度は格段に下がる。
 史上最年少で気象観測士になったナギは、間違いなく優秀な〈風読み〉であり、有名な航空士から高額の報酬を示して仕事を頼まれたこともあった。
 もっとも、ナギはカイル以外の航空士から仕事を引き受けたことはない。気象学に関するナギの知識は、全てカイルのために身に付けたものであり、ナギはそれ以外の使い道に価値を見出すことができなかった。
「引き受ければよかったのに。三日で二千クォーツ、年収並みじゃないか。」
 ナギが気象観測士の資格を取った直後、初めて来た依頼を断った場にはカイルもいた。
「嫌よ。もし私が間違えて離陸に失敗したら……他人の命まで背負えないわ。」
「オレの命は背負えるのに?」
 その時既に、ナギはカイルの初飛行の際には自らが〈風読み〉を務めることを約束していた。
「カイルは……いいのよ。」
「それはオレが墜落して死んでも別に構わないという意味か?」
「そうね、そうかもしれないわ。」
 我ながら可愛くない答え方をしたものだとナギは思う。
 カイルが死んでもいいだなんて、そんなこと、あるはずがない。他の誰が死んだとしても、カイルだけは死なせたくない。もし万が一にもカイルが墜落するようなことがあれば、その時は自分も――それだけの覚悟を持って、ナギはカイルの〈風読み〉になろうと決意した。
 カイルはそんなナギの思いに気付いているだろうか。きっと気付いていないだろうし、もはや気付いてほしいとも思わない。
 ナギは、今日のカイルの初飛行における最初で最後の〈風読み〉に一分の狂いもないことを、女神に導かれてカイルが無事に大空へと旅立ち、そして再び地上へ戻ってくることを、ただ、願うだけだ。
 そう、今日が最初にして最後の〈風読み〉だ。
 明日、ナギは王都へ旅立つ。史上最年少で気象観測士の資格を得たことが関係者の関心を引き、国立気象観測所に特別研究員として招かれたのだ。
 年頃の娘が独り故郷を離れた都会で暮らすことに当初両親は反対したが、カイルが二人を説得してくれた。勉強熱心なナギにとってまたとないチャンスになるはずだから、と。
 確かに貴重な機会ではあった。気象学を独学で学ぶことには限界がある。田舎の村では高価な観測器具も手に入らない。国立気象観測所には、最新鋭の設備と最高の人材《スタッフ》が揃っている。
 ナギにとっての気象学は、カイルのそばにいるためのもの、カイルの役に立つためだけのものだが、今日、カイルの初飛行が終われば、それが成功であれ失敗であれ、次の飛行までは時間が掛かる。航空機の繊細な機体は、着陸時の衝撃で大なり小なり損傷することが常であり、再び使うことはできない。高価な機体は使い捨てが原則なのだ。
 カイルが本格的に航空士を目指してから八年。二機目の製作には少なくとも五年は掛かるだろう。その時、ナギとカイルがそれぞれどうなっているかは分からない。
 ただ、カイルの次の飛行まで、ぼんやりと待っているわけにはいかなかった。よりいっそうカイルの役に立とうと思えば、より高度な気象学の知識とより正確な観測技術を手に入れることが必要になる。気象学も航空技術もまだ発展途上の分野であり、日々進歩し続けている。カイルの役に立つために、ナギはもっともっと学ばなければならない。
『……ポイント一六八、西南西十五メートルパーセコンド、気温二十二度、気圧九百九十三ヘクトパスカル。……ポイント一七四、南南西十二メートルパーセコンド、気温二十度、気圧九百九十五ヘクトパスカル。……』
 大嵐は、ナギの予測通り、国立気象観測所の予報よりも速い速度で〈風の丘〉に向かっている。
 プロペラの調整は済んだだろうか。そろそろ機体をドックから引きずり出さなくてはならない。
「ナーギー! 風はどうだー!?」
 ドックの奥からカイルの声が響いた。

 風は、絶えることなく吹き続いている。
 女神は、静かに呼吸を整える。

※ カイルとナギの「その後」のお話は、同人誌版『ジェーン・エア――女神の息吹』でお読みいただけます。
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