ここち

HOME >> 長編・シリーズ小説 >> 突撃! Glasses >>

突撃! Glasses

前頁 - 次頁

第一話 情熱の赤で立ち向かえ! ―― (1)

 ボロアパートの畳の上で、ささくれ立ったイグサに突かれながら、柳瀬孝志はごろごろと転がっていた。近所のスーパーでのアルバイトは休みで、日曜だから大学の講義もない。孝志は決して不真面目ではなかったものの、休日に図書館にこもって勉強に精を出すほど生真面目な学生でもなかった。
「暇だなあ。」
 誰に聞かせるともなく呟いて身体を起こす。立て付けの悪い窓の向こうにはまだ新しい高級マンションの壁面が広がっていた。南側に建つこの高い建物のせいで、孝志が住む朽ちかけたボロアパートは一日中日当たりが悪い。一階の奥に住んでいるらしい大家を除けば、住民は孝志だけだ。どんなに家賃が格安でも、昼でも暗い上に今にも崩れ落ちそうなボロアパートに住む物好きはそういないのだろう。
 それにもかかわらず孝志がこのボロアパートに住み続けているのは、単に家賃が安いからだけではなく、隣に建つあの高級マンションに孝志が密かに想いを寄せる彼女が住んでいるからだ。
 ――松原優里。
 孝志と同じ大学の文学部に通う学生で、学内一の美人だと孝志は思っている。大学の入学式で一方的に一目惚れして以来、特段の関係にはない。週に一度、同じ講義を受けているが、大教室の片隅から優里の姿を眺めるのが精一杯。ノートを見せてくれなんて頼みごとができるわけもなく――ノートも取っていない不真面目な学生と思われるのは癪だ――優里が所属している和楽器サークルに入る勇気もない。お琴だとか三味線だとか尺八だとか、音楽自体と縁遠い孝志に、伝統和楽器が扱えるはずもなく、彼女の前で恥をかくどころか足を引っ張るのが落ちだ。
 演奏会には欠かさず足を運んでいるけれど、大勢の客の内の一人に過ぎない。つまり、孝志は一年以上優里に片想いしたままなのだ。
 片想いから半年して、格安の家賃に惹かれて怪しい不動産屋とこのボロアパートへ下見に来た時に優里の住むマンションが隣だと言うことを知り、即刻契約してここに引っ越してきたのだが、未だにご近所付き合いさえない。高級マンションとその隣のボロアパートでは全くの別世界だ。できることなら孝志も優里と同じマンションに住みたかったのだが、冴えない貧乏学生の孝志にはマンションの家賃を支払うだけの収入がなかった。
 隣の高級マンションに対して、このボロアパートの家賃は格安。毎朝、部屋の窓から玄関を出る優里の姿を確認できる点はありがたかったが、決して住み心地は良くはない。少しの風でも揺れを感じるのだから、地震が来たら潰されることも覚悟しなくてはならない。地震大国日本ではいつ命が尽きるか分からない危険なアパートなのだ。
 孝志がぼんやりと窓の外――正面のマンションの優里の部屋がある付近――を眺めながら、出掛ける優里の姿が見えないだろうかとささやかな期待を抱いていたその時だった。
 ――ズッドーン!
 突然、大きな地響き――いや、爆音と言うべきかもしれない――が聞こえ、孝志は突然の危機に反射的に飛び上がった。天井や壁がミシミシと音を立てながら揺れて、立ち上がりかけた孝志はバランスを崩してふらりと膝を突く。ここの危険性は十分承知していたが、こんなところで二十歳になったばかりの人生を終えたくはない。孝志は慌てて玄関へ飛び出した。普通、地震が起きた時は、慌てて外へ飛び出すのではなく、机の下などに隠れて揺れが治まるのを待つべきなのだが、その原則もこのアパートは例外になる。揺れが治まる前に建物ごと崩壊して完全に潰されてしまう可能性があるからだ。
 玄関の扉を思い切り開けると、揺れは既に治まっていた。外の景色は至って普通だ。敷地のブロック塀も元々崩れていた部分を除けば損傷はない。地震であれだけの大きな音が出たと言うのなら、もう少し被害が出ているはずで、どうやら地震ではないらしい。
 こんな閑静な住宅街でまさかテロ事件とは思えないけれど、このボロアパートなら、ガス漏れによる爆発の可能性は大いにある。ガスの臭いも煙の臭いもしないし、二階に並んだ部屋に異変は見られない。異変の可能性が高いのは一階だ。大家の住んでいる奥の部屋以外に考えられない。
 孝志は憂鬱な気持ちになりつつも、安全確保のために恐る恐る錆だらけの階段を降りていった。憂鬱の原因はこのボロアパートの大家の性質による。契約は怪しい不動産屋の仲介で、孝志は大家の顔を直接見たことはなかった。同じアパートに暮らし始めて一年以上経つのに、未だに玄関先で顔を合わせたことすらないのだ。家賃は銀行口座から引き落としになっているし、引越しの挨拶に行った時も人の気配はあるのに呼び鈴に応じず、用意した菓子折りにメモを添えてドアノブに掛けた。菓子折りは翌朝にはなくなっていたけれど、どうもあの部屋は怪しい。部屋の窓は真っ黒のカーテンに覆われて中の様子は見えず、時々妙な金属音や変な色の光も漏れる。
 このボロアパートを建て替えもせず住んでいる人だから、多少まともでないのは覚悟していた。格安で借りている身で特別損害を被ったわけでもない。文句は言えないと思っていたけれど、できれば深くは付き合いたくない相手だ。
 だからと言って、ガス爆発で死んでいるかもしれない人間を放置はできない。本当にガス爆発なら延焼の危険もあるわけで……。
 一階奥の部屋の前に立ってみるが、異変はない。先ほど聴いた大きな音はテレビの音声か何かだったのだろうか。大音響でハリウッド映画を観ていたと言うにはリアルな音だったような気もする。そもそも、今現在、部屋の中からは物音一つしない。奇妙なくらいに静かだ。
「あのー、二階の柳瀬ですけど、さっき何か変な音しませんでした?」
 扉の脇の呼び鈴に「故障中」の貼り紙があったので、孝志は扉をノックしながら中にいるはずの住人へ問い掛けた。
「何でもないならいいんですけど……。」
 できればその場を早く立ち去りたいと思いつつ、遠慮がちにそう言った時だった。ガチャリと扉が開いて、後ずさりを始めていた孝志は暗い部屋の中から出てきた何かに思い切り手首を引っ張られ、部屋の中に引きずり込まれた。
「わわわ、な、何だ!?」
 慌てて声を上げると、今度は背中を押され、孝志は床へ転がった。顔を上げるも、部屋の中は薄暗いどころか真っ暗で、何が何だかさっぱり分からない。
「よく来たな、柳瀬孝志。」
 暗闇の中から声が聞こえた。若い女性の声だが、トーンはやや低い。
「えっと……あなたは? というか、何で僕をいきなり……。」
 孝志が声のした方へ顔を向けながら話していると、次第に目が暗闇に慣れて、ぼんやりと白いシルエットが見えた。どうやら白衣を着ているらしい。
「ついに出来たのだ。」
 声は孝志の質問に答えず、嬉しそうに言う。
「出来たって、何が?」
「お前が今まさに必要としているスペシャルアイテムだ。」
「は?」
 自分が必要としているアイテムと言われても、孝志には心当たりがない。発明の依頼をした記憶は全くなかった。
「ふふふ、今見せてやる。さあ、来い!」
 彼女――だと孝志は思った――は再び孝志の手首を掴み、暗闇の中にパタパタとスリッパの音を響かせながら歩き出した。まだ暗闇に慣れきらない孝志は、彼女に引っ張られ、引きずられるようにして暗闇を進む。二度ほどどこかに小指をぶつけた。この部屋の間取りは孝志の部屋を左右反転した形になっているはずなのだが、家具を色々置いているのか、それとも改装したのか、どうも予想だにしない障害物がある。
 おまけに、気が付くと階段を下りている。壁も、転んで手を付いた床もひんやりとした感触。室内を土足で歩き回って良いのか不安になったが、少なくとも床は古いささくれ立った畳ではない。壁もぼろぼろに剥がれ掛けた土壁ではない。
 階段を下り切ると、頑丈そうな扉があった。目もだいぶ闇に慣れ、階段にはオレンジ色の誘導灯が埋め込まれていたから、地下室までの道のりははっきりと見えたが、とてもボロアパートの地下とは思えない近代的な造りをしている。
「さあ、入れ!」
 彼女が扉を開け、闇に慣れた目に光が飛び込んで来た。孝志が眩しさに目を閉じると、彼女が背中を押して、孝志は再び床に崩れる。顔を上げると、あまりにも異質な光景に声が出なかった。目の前には上部にガラスのドームが付いた謎の円柱とその背後には巨大なモニタがあり、円形の部屋を囲うように高そうな機械がひしめき合っている。交通管制センターか、特撮ヒーロー物によく出てくる地球防衛基地と言ったところだ。
「どうだ、すごいだろう。」
 背後で彼女が自慢げに言う。確かにすごい。確かにすごいが……これは一体何なんだ? 孝志は問い掛けのために振り向き、息を呑んだ。彼女がいた。白衣に身を包み、両手を腰にあて、得意げに口端を上げている一人の女性の姿がはっきりと見える。綺麗な黒髪のロングヘアに白い肌。整った顔立ちは明らかに美人に属していた。優里とどちらが美人かと聞かれたらちょっと答えに迷うくらいだと孝志は思った。
「あ、あなたは一体……ここは何なんです?」
 孝志はのろのろと立ち上がりながら彼女に問う。
「私は神宮寺アヤ。今世紀最大の天才科学者だ!」
 彼女――アヤは仰け反りながら笑った。美人だが、やはり関わりたくないタイプだ。
「ああ、そうですか。」
 孝志は自信過剰気味のアヤに無駄な突っ込みを入れることを諦めて、素直に彼女の主張を受け入れることにした。とにかく早く話を進めたい。早く元の世界へ戻りたい。
「それで、ここは?」
「秘密基地だ。」
「何の?」
「まあ、それは追々説明する。先にこれを見るのだ。」
 アヤはにやりと笑みを浮かべて、部屋の中央にあった円柱へ向かった。アヤがその円柱の脇に取り付けられたパネルのボタンを操作すると、円柱は光り、静かに動いて筒の上部に何かを出現させた。
「これぞ世紀の大発明。スペシャルヒーロー眼鏡だー!」
 ガラスのドームがパカリと開き、そこに出現した物を手に取ったアヤはくるりと振り向いてそれを高く掲げながら叫んだ。
「はあ……。」
 孝志はぼんやりとアヤとアヤが手にしている物を見つめる。
「何だ、驚かないのか? もっと驚いていいんだぞ? おおーとか、わあーとかもっと声を出してもいいんだぞ?」
 ぜひそうしてくれと言わんばかりにアヤは言うけれど、正直、孝志はアヤが手にしている物が《世紀の大発明》とは思えなかった。なぜならアヤが手にしているのは紛れもなくただの眼鏡なのだ。やや太めの赤いフレームの眼鏡。最近、眼鏡がおしゃれアイテムとして注目を集めていると言う話をコンビニで雑誌を立ち読みした折に見たような気もするけれど、アヤが手にしているのは特別おしゃれな眼鏡ではない。似合う人が掛ければまあそれなりに良いのだろうけれど、少なくとも孝志に似合う代物ではない。孝志の視力は両目共に一・二だから、そもそも眼鏡は必要なかった。
「その眼鏡、どこがすごいんですか?」
 聞いてやらなければ話が進まないだろうと思い、孝志はアヤに質問した。質問には若干揶揄する響きが含まれていたのだが、独りテンションを上げているアヤは気付かなかったようだ。
「よくぞ聞いてくれた! この眼鏡は、掛ければあっと言う間に正義の味方、カッコイイヒーローになれるスペシャルアイテムなのだ!」
 孝志は何となく、この地下室が地球防衛軍の秘密基地めいている理由が分かったような気がした。ボロアパートの大家はヒーロー好きの変人で、地下に趣味丸出しの秘密基地を作ることに現を抜かし、地上のボロアパートを改装するなんてこれっぽっちも思い当たらず、そんな資金も残していなかった阿呆な特撮マニア――これが孝志の解釈だった。
「この眼鏡を掛ければ柳瀬孝志、冴えないお前でも正義のヒーローになれる!」
 アヤは眼鏡を持っていない左手の拳にぐっと力を入れた。今日初めて会った相手に冴えないと言われるのは腹立たしいが、文句を言ったところで無駄なような気がして、孝志は黙っていた。
「この眼鏡で片想いの彼女、松原優里のハートもゲットできるぞ! どうだ、欲しいだろう?」
 アヤがにやりと笑う。
「は、ハートもゲットって何であんたが彼女の名前を知ってるんだ!」
 孝志は突然出た優里の名前に驚いて声を上げた。
「ふふふっ、天才の私に知らないことなどないのだよ、柳瀬孝志。何なら、お前も知らない彼女のスリーサイズを教えてやろうか? なかなか良い発育をしていたぞ。」
 アヤが笑い、孝志は思わず脳裏に浮かんだ彼女の姿に自分でもはっきり分かるほどに顔を赤くした。
「あ、あんた一体何なんだよ!?」
 孝志がやっとの思いで声を出すと、アヤは涼しい顔をして答える。
「私は神宮寺アヤ。天才科学者だと言ったろう?」
「そ、そうじゃなくて……。」
「ああ、このアパートの大家でもあるな。今月の家賃は十五日に引き落としだからちゃんと口座にお金を入れておけよ。あと、引越しの時のあの菓子は美味かった。良かったらまた買ってきてくれ。」
 アヤはにこりと笑った。美人だから笑うと可愛らしい……なんて考えている場合ではない。訳が分からない上に一箱三千円の高級和菓子をねだるとは図々しいにも程がある。
「そうじゃない! いきなりこんなところに連れて来て、彼女のことまで調べて、この秘密基地は一体何なんだ!?」
 孝志は一気に叫び、酸欠を補うように大きく肩を上下させながら呼吸した。
「何なんだって秘密基地は秘密基地。これからここを拠点に活動するのだ。」
「誰が!?」
 孝志は殺気立ちながら尋ねた。
「お前……と私が。」
「はぁ!?」
「世界平和のために活躍するヒーロー、その名も眼鏡戦隊グラッシーズだ!」
 アヤは一方の手を腰に当てながら、もう一方の手に持った赤縁眼鏡を高々と掲げてポーズを決めた。アヤの背後からライトが照らしているように見えるのは、先ほどアヤが眼鏡を取り出した円柱にライトが仕込まれているかららしい。
「ぐ、グラッシーズ?」
「ああ。もしかして眼鏡戦隊メガネンジャーの方が好みだったか? いや、どちらにしようか迷ったんだが……。」
「グラッシーズで良いです。」
 顎に手を当てて真剣な様子で考え込んでいるらしいアヤに呆れながら、孝志はため息混じりに答えた。どちらも微妙な趣味だが、しいて言うならグラッシーズの方が良いような気がする。メガネンジャーはあんまりだ。いや、そもそもの問題はそこではない。
「あ、あの、今、僕と博士とで活動するとか言いましたよね?」
「ああ、言ったぞ。私はグラッシーズを指揮する司令官。お前はグラッシーズのリーダー・メガネレッドだ! ほれ、眼鏡。」
 アヤはにこりと笑い、勝手に孝志に眼鏡を装着した。
「あのですね、僕、視力には自信があって、眼鏡の世話になるような……。」
「この眼鏡は視力矯正が目的ではない! この眼鏡を掛ければどんなに冴えない奴でもかっこいいヒーローになれるスペシャルアイテムなのだ。私の開発したシステムにより、見た目をかっこよく見せるのはもちろん、身体能力や頭脳においても万能感を得られるようになっている。」
 アヤは眼鏡を外しかけた孝志の目の前に人差し指を突き出して言った。
「万能感? 実際に万能になるんですか?」
 孝志はささやかな引っ掛かりについて尋ねた。
「人間その気になれば何でも出来る!」
 アヤは高らかに宣言したが、どうやら眼鏡の効能はあくまでも《万能感》に留まるものらしい。孝志は恐ろしく危険な臭いを感じていた。《万能感》なんて、まるで怪しい違法薬物の効能だ。
「この眼鏡を掛けてヒーローとして活躍すれば、必ずや松原優里もお前に惚れるだろう。さあ、私と一緒に正義のために戦おう!」
 アヤは孝志の手を握ってきらきらと輝く瞳を見せた。アヤがこんな変人でなければ、こんな妙な状況でなければ、手を握られて見つめられることを孝志はどんなに喜んだだろう。しかし、アヤは変人だ。どこかが確実におかしい。例えどんなに美人でも関わり合いたくないものは関わり合いたくない。
「嫌ですよ。ヒーローなんてアホらしい。そんなんで本当に……。」
 孝志がアヤの手を振り払うと、アヤの顔が歪んだ。反射的に何か嫌な予感がして、孝志は言葉を止める。
「ほーう、それなら良いのだな? 私は松原優里のことだけでなく、柳瀬孝志、お前のこともよおく知っているのだぞ? 例えば、お前が隣のアパートから彼女の様子を毎朝観察していることなんかも知っているのだ。ここにストーカーがいると警察に通報しても良いのだな?」
「な、何を言ってるんだか。僕は別にストーカーなんかじゃ……。」
「昨日午後九時三十八分。お前は駅前のコンビニでいかがわしい雑誌を立ち読みしていたな。」
「い、いかがわしい雑誌って週刊誌を読んでただけ……。」
「昨日九時四十七分。お前は駅前のレンタルビデオ店で……。」
「わー分かりました! 分かりました! ヒーローでも何でもやります、やりますから!」
 そう叫ぶしかなかった。一体どこから見ていたのか、今アヤが指摘したことは解釈に多少の間違いがあることは確かだが、大体にして事実だ。日常の行動を詳細に語った後に勝手な解釈を付けられたら、例えその解釈が誤解でも、一定の信憑性を生んでしまう。孝志は何より、未だ片想いの優里に妙な誤解をされることが恐ろしかった。数分ではっきりと悟ることのできたアヤの自分勝手でいい加減な性格を考慮すると、下手に逆らって取り返しのつかない問題を引き起こされるよりは、一時的にでも素直に従う方が無難な判断だ。
「さあ、私が開発したこの素晴らしいシステムについて解説しよう!」
 巨大な機械の前で喜々とした声を上げているアヤを尻目に、孝志――眼鏡戦隊グラッシーズのリーダー・メガネレッドは大きくため息を吐いた。

前頁 - 次頁

HOME >> 長編・シリーズ小説 >> 突撃! Glasses >>

Copyright © 2006 Aiko Kiryu. All rights reserved.