ここち

HOME >> 短編小説 >>

雨が呼ぶ

〜 The rain falls, the dog calls 〜

 曇りのち雨の天気予報は見事に当たり、しとしとと降る雨が街に憂鬱さをばら撒いている。窪んだアスファルトにかかとが沈み、溜まった雨水はぴしゃんと跳ねてスニーカーを濡らした。使い込んだランドセルがいつもより重く感じられる。
 ――梅雨なんて嫌いだ。
 祐弥はぎゅっと傘の柄を握り、声を出すことなく唇を微かに動かした。
 日直の仕事で下校時刻が少し遅くなったせいか、住宅街を抜ける通学路には人気がない。こんな雨の中では近所の奥さんも買い物に出る気分にはならないのだろう。
 ふと祐弥の耳に声が届いた。背筋を悪寒が走り、祐弥はぴたりと足を止めると、警戒しながら辺りを見回す。それはすぐに目に入った。
 先の公園の角に立つ電柱の影に置かれた段ボール箱と、その中で動く何か。
 祐弥は小さく舌打ちをした後、ゆっくりとそれに近付いた。箱の中のそれはクウンと小さく鳴いて、祐弥を見上げる。雨に濡れたそれは一匹の子犬だった。段ボール箱に貼り付けられた紙には、滲んだ文字が並んでいる。
 ――だれかもらって下さい。
 歪な文字は幼く見えるが、祐弥は歯軋りをしながらこの無責任な言葉の書き手への怒りを募らせた。天気予報も見ずにこんな場所へ子犬を置き去りにした愚か者を心の中で罵る。しかし、祐弥は決して目の前の子犬に同情したわけではなかった。
 ――犬なんて嫌いだ。大嫌いだ。
 脳内にフラッシュバックした映像を打ち消すかのように祐弥は唱え、目の前の子犬の鳴き声を振り払うかのように目を背けると、歩き出した。
 背後でびしゃんと音がした。思わず振り返ると、横倒しになった段ボール箱から子犬が這い出している。祐弥はすぐに向き直って足を速めた。
 背後でキャンと声がした。声が思いの外近いことに気が付いて再び振り返ると、子犬がしっぽを振りながらこちらへ駆けて来る。祐弥は一歩後じさり、それから踵を返して駆け出した。
 ――嫌いだ。大嫌いだ。あいつのせいで……。
 駆けながら、脳裏を巡るのは忘れたくても忘れられないあまりにも鮮明な一年前の記憶だった。

 その日も空は暗かった。祐弥は右手に傘を、左手に近所のケーキ店で受け取ったばかりのバースデー・ケーキを持って、兄と並んで歩いていた。祐弥の十歳の誕生日祝いに母が予約しておいてくれたバースデー・ケーキは祐弥が大好きな特大のチョコレートケーキだ。
「気を付けろよ、落としたらせっかくのケーキが台無しだ。」
 高校三年生の兄が笑いながら祐弥に向かって同じ言葉を繰り返す。これで三度目だ。決して心配性というわけではなく、祐弥をからかって楽しんでいるらしい。
「大丈夫だよ。ちゃんと持ってるから。」
 祐弥もむすっとした表情で同じ答えを繰り返す。決して不機嫌ではない。むしろ機嫌は良い方だ。理由は左手のバースデー・ケーキのせいでもあったし、隣を歩く兄のせいでもあった。祐弥は兄を慕っていた。成績優秀で、高校のサッカー部ではエース。動物好きで将来の夢は獣医。犬を飼いたいという以前からの兄の希望は「せっかくの庭が荒らされてしまう。」という父の主張で未だに叶えられていないけれど、先日、兄は父と第一志望の大学の獣医学部に合格したら犬を飼ってもいいという約束を取り付けて、祐弥も楽しみにしていた。兄は、祐弥にとって自慢の兄であり、理想の兄であり、一番の手本だ。兄ほどではないにせよ、兄の動物好きは祐弥にもいくらか伝染していた。
 交差点で目の前の青信号がチカチカと点滅を始めた。律儀な兄は足を止め、祐弥もそれに倣う。いつもだったらつい慌てて横断歩道を駆け渡ってしまうところだけれど、今日は左手に大事なバースデー・ケーキがあった。箱を揺らしてケーキがぐちゃぐちゃになってしまう事態は避けなくてはならない。早く家へ帰ってケーキを食べたいという気持ちを抑えながら、祐弥は再び信号が青に変わるのを待った。
 ――キャン。
 ふと、祐弥は声を聞いた気がした。その声は兄の耳にも届いたらしく、祐弥と兄は同時に振り返る。背後の建物の角に、段ボール箱が置いてあった。何かがもぞもぞと動いている。
 兄が一歩それへ近付いた時、箱の縁に茶色い子犬が顔を出した。
「捨て犬……かな。」
 祐弥が呟くと、兄が小さく頷いた。箱の縁に前足を掛けた子犬は箱から這い出ようとしているのか、前足をせっせと動かしている。雨に濡れた段ボール箱は次第に強度を失って、前面くしゃりと潰れると同時に前へ倒された。箱から、茶色い子犬と黄色いボールが転がり出る。ボールは子犬の遊び道具として元の飼い主が入れ添えたものなのだろう。子犬は嬉しそうに尻尾を振って、ボールを追いかけ始めた。子犬の前足がボールに触れて、ボールは更に子犬の前方へ、祐弥の方へと転がってくる。兄が子犬の前にしゃがみ込んだ時、ボールはするりと兄の脇を、祐弥の横を通って車道へと転がっていった。子犬がキャンッと叫んでボールを追い掛ける。
 祐弥は子犬を追って振り返り、そして気付いた。信号はまだ赤。車道の真ん中でボールとじゃれ合う子犬に向かって、大型トラックが迫っていた。声を上げようと息を飲んだ時、隣を何かが通り過ぎた。それを追いかけた視線は、目の前を通り過ぎる大型トラックに遮られた。
 甲高いブレーキ音と鈍い音。隣に、持ち主を失った青い傘が転がっていた。雨音がうるさい。
 祐弥は交差点の真ん中で止まった大型のトラックにゆっくりと近付いた。そしてその正面へと回り、見つけた。
 兄が倒れていた。くぼんだアスファルトに溜まった水が赤い。
「お兄……ちゃん。」
 兄は祐弥の呼びかけには答えなかった。その代わり、兄の腕が微かに動いた。兄の腕を押し退けて、一匹の子犬が顔を出す。子犬はクウンと小さく鳴いた。

 その日は楽しい日になるはずだったのに、一瞬にして悪夢に変わった。トラックの運転手がすぐに救急車を呼んだものの、救急隊員が駆けつけた時、既に兄の息はなく、運び込まれた病院で死亡が確認された。兄を死へと導いた子犬はいつの間にか姿を消して、以来、一度も姿を見ていない。もし、見つけていたら、決して許しはしなかった。
 ――あいつのせいで……。
 兄の笑顔と、無邪気な子犬の姿が脳裏に浮かぶ。
 大通りへ出て、祐弥は足を止めた。息が上がっている。肩を上下させながら振り向くと、子犬はしつこく祐弥を追いかけてついて来ていた。全力で走ったから距離は多少引き離したものの、諦める様子はない。
「なんで……だよ。」
 もう見たくなかった。兄の命を奪ったあの子犬にそっくりな姿は嫌がらせだろうか。同じ犬ではない。一年前の子犬が今も小さな子犬のままでいるはずはない。別の犬だ。それでも、同じ犬だ。
 尻尾を振りながら駆けて来る子犬から逃れるように、祐弥は振り向いた。正面の青信号が点滅している。祐弥は駆け出した。これで振り切れる。信号待ちの間に脇道へ逸れてしまえばいい。
 無事に横断歩道を渡り切って、祐弥は足を緩めた。あんな子犬のことなんて忘れよう。そう思って一歩を踏み出し時に気付く。祐弥が振り向くのと、予想以上に近い場所から子犬の鳴き声が届くのとはほぼ同時だった。
 ――犬に信号なんて分かるはずないじゃないか。
 犬は信号が分からない。だから、赤信号で飛び出して、それを助けようとした兄を死へ導いたのだ。
 子犬は赤信号の横断歩道を真っ直ぐこちらへ渡って来る。反対車線を車が横切る。横断歩道の中央を越えた子犬は真っ直ぐこちらへ駆けて来て、迫る赤い乗用車に気付く様子はない。
 ――。
 甲高いブレーキ音と雨音。腕に走る痛み。
「馬鹿野郎! 何考えてんだ!」
 交差点の中央で停止した乗用車の窓から、運転手が顔を出して怒鳴った。
「すみません……。」
 ゆっくり身体を起こしながら、祐弥は答える。アスファルトに擦った腕がひりひりと痛み、降り注ぐ雨は冷たい。それでも、腕の中にしっかりと抱いた子犬の身体は温かくて、頬を伝う液体もまた温かかった。
 どうして助けてしまったのだろうと思う。兄の命を奪った悪魔と同じ一匹の子犬。たった一匹の子犬のために、どうして兄は、どうして自分は命を賭したのだろう。
「どうして……かな。」
 腕に抱いた子犬がクウンと鳴いて、僅かに血の滲む祐弥の腕を舐めた。祐弥は子犬の頭を撫でて、ゆっくりとその場から立ち上がった。雨は冷たい。身体が熱い。そして心は温かい。

 空はからりと晴れ上がり、梅雨の晴れ間に虹が浮かぶ。
 祐弥の兄の命日であり、祐弥自身の誕生日でもあるその日、祐弥は両親と、そして両親からのとっておきの誕生日プレゼントと共に兄の墓前を訪ねていた。墓石の前で両手を合わせ、天国の兄に向けて告げる。
 ――報告。家族が一匹増えました。
 祐弥の新しい家族は祐弥の隣にちょこんと座っている。祐弥が立ち上がると、それはワンッと吠えて尻尾を振った。祐弥は青空を仰いで思う。一年前、兄が助けた子犬は今頃どうしているだろう。新しい飼い主を見つけて幸せに暮らしていればいいと祐弥は願った。
「祐弥。」
 呼ばれて振り向くと、母が空になった桶を片手に提げて階段の手前で待っている。せっかちな父は、既に駐車場へ降りて行ってしまったらしい。
 新しい家族が再び吠えた。同時に、リードを掴んだ左手が引っ張られる。急かされた祐弥は走り出した。家に帰れば、誕生日を祝うご馳走とケーキが待っている。

《了》


前頁 - 執筆後記
●○ 読んだ記念にポチッとどうぞ。↓ ○●
 

返信をご希望の場合や長文となる場合には
通常メールフォームが便利です。

●Novegle対応ページ ◎作者:桐生愛子(きりゅうあいこ)◎カテゴリ:現代◎長さ:中短編◎あらすじ:犬嫌いの祐弥は、ある日、小学校からの帰り道で一匹の捨て犬と出会う。脳裏に甦るのは一年前の忌まわしい記憶と、とても大切な……。

HOME >> 短編小説 >>

Copyright © 2006 Aiko Kiryu. All rights reserved.