飛雄馬の苦悩
俺の名前は星飛雄馬。先日、スポーツ紙の記者から取材を受け、それなりに世間の注目を集めている普通の高校生だ。日々部活動に精を出して奨学金を受け、それなりに高校生活はエンジョイしている。悪い人生ではない。名前さえ、まともであれば……。
――星飛雄馬。
俺が生まれる前から全国区だったこの名前のせいで、俺はずっと、生まれてからずっと数々の損害を被ってきた。全ての元凶は、俺にこの名を与えたぼんくら親父――星庄太郎、旧姓山田にある。
親父は婿養子だった。お袋と結婚すると同時に、商店街の片隅にある小さな書店を継いだらしいが、親父がまともに仕事をしている姿を俺は見たことがない。背の高い本棚に囲まれた狭い店内の奥、レジカウンターの中に置かれた椅子の上にあぐらを掻いて、親父は毎日商品のページを捲っている。乱丁落丁をチェックしているわけではない。親父にとって、店内は自分の書斎と同じなのだ。売り物と自分の蔵書を全く区別していない。
店内に並ぶ本は日に焼けて黄ばんだ古めかしいものばかりで、古書店と間違えられても文句の言えない状態だが、名目上は新品を扱うことになっている。どう考えても繁盛しているとは思えない小さな書店が未だ倒産することなく残っているのは、周囲に競争相手がまるでない田舎町に立地しているという幸運のために他ならない。ライバル書店どころか、この町にはゲームセンターもカラオケボックスも、若者の興味を惹くものは何一つないのだ。この町でカラオケと言ったら、商店街の外れにあるサスペンスドラマの舞台になりそうな怪しいスナックで、毎晩、調子外れな酔っ払いの声が響いている。
そんな町だから、若者にとっての娯楽と言ったら健全なスポーツくらいしか存在しない。幸か不幸か、そのおかげで俺の通う高校はスポーツではそれなりに実績のある名門校になっている。特に俺の所属するサッカー部は全国大会の常連で、優勝経験もある。
俺は間違っても野球部員ではない。
「せっかく良い名前を貰ってるんだから、野球やろうよ。」
中学でも高校でも、俺は毎回同じ台詞で野球部に誘われた。この最悪の名前を良い名前だなんて、つまらない冗談は一度で十分だ。
巨人の星も魔球も俺の知ったことではない。俺は、親父の愛読書だけは絶対に読まないと決めている。俺の名前の由来であるあの野球漫画だけは死んでも読むつもりはない。
迷惑にも、親父はお袋を嫁に貰う前から俺の名前を決めていたらしい。お袋もどうして止めてくれなかったのか、心の底から恨めしい。
「なんで野球やらないの? せっかく良い名前なのに。」
誰一人、この名前の最悪さを理解していない。この名前で野球をやるということがどれほど危険な行為か全く分かっていないのだ。
野球の才能があって、エースピッチャーとして大活躍できるならまだましだろう。だが、もし野球の才能がなかったら? 名前は良いけど実力は……と呆れられるのが落ちだ。スポーツの能力は名前では決まらない。姓名判断なんて嘘に決まっている。
俺は名前のために余計な期待を背負いたくはない。無駄なリスクは回避したい。
思い返せば、何も知らずにキャッチボールを楽しんでいた頃もあった。
その頃の親父は、休日ともなると閑古鳥の鳴く店をお袋に任せて俺を空き地に連れ出した。やたら褒められた記憶はあるが、それがいわゆる親馬鹿の言動に過ぎないことを悟るまでそれほどの時間は要さなかった。
親父は紛れもなくインドア派だった。星一徹のように俺を野球選手として鍛え上げることなど親父にはできなかったのだ。それについては幸運だったと思っている。もし親父が一徹を倣っていたら、俺たち親子は間違いなく馬鹿の称号を得ていただろう。
いずれにしても、俺がスポーツとして興味を抱いたのは野球ではなくサッカーだった。親友の誘いで地元のサッカークラブに入ったのだ。
野球の才能はともかく、サッカーの才能はあったのだろう。親父の運動音痴がうつらなかったのは幸いだった。
それからひたすらサッカーに打ち込んで、全国高校サッカー選手権大会決勝戦。俺はこれからその舞台に立つ。
「ワクワクするね。」
ピッチを眺め渡していると、後ろから声が掛かった。振り返らなくても誰だか分かる。
「ずいぶん余裕のある声だな。」
俺は笑いながら、背後にいるはずの親友に言う。
「リラックスしていこうって監督も言ってたからね。」
俺の親友であり最大のライバルでもある三崎翼は、俺の半歩前に立って遠く観客席を見つめる。スタンドは満員だ。
三崎はサッカー部の部長だった。
「まさにキャプテン翼。ちょうどいいだろう。」
サッカーは上手くても頭がちょっと弱いらしい先代部長は、引継ぎの時にこう言った。くだらない理由だが、三崎は人格的にも技術的にもキャプテンにふさわしい人間だから、先代部長の人選に文句はない。
「苗字が大空だったら完璧だったのになあ。」
「でも、翼とコンビ組んでたのはミサキ君だろ? 一人で二人分なら最強じゃねえ?」
俺の周りはこういうくだらない台詞を吐く人間ばかりだ。それでも三崎の例はまだ良い方だと思う。三崎も翼も普通にある名前だ。翼と聞いてキャプテン翼を思い出すのは、サッカー好きか漫画好き、あるいはアニメ好きの限られた人間で、世間の大勢は、特に若い女性なんかはタッキー&翼の今井翼を思い出すに違いない。事実、三崎の容姿は十分アイドルとして通用するレベルだ。苗字だってキャプテン翼の岬太郎とは漢字が違う。
それに対して、星飛雄馬はどうだ。星はそれなりに一般性のある苗字だが、飛雄馬はあの野球漫画以外にありえない。しかも、名前は結婚しても変わらないのだ。俺は、名前を名乗るたびに「巨人の星?」と聞き返される不幸と当分付き合い続けなければならない。裁判所での改名の手続はもう調べてあるが、両親の許可を得るか成人するかしないと、裁判所は俺の申請を受け付けてくれないのだ。
スタジアムにアナウンスが流れる。選手名のコール。試合は嫌いじゃないが、この儀式だけは心の底から余計だと思う。電光掲示板の表示もしかり、だ。
俺の名前がアナウンスされて、スタンドが妙にざわめく。
「星飛雄馬ってスゴクない? っていうか、あれ、野球だよねえ?」
聞こえてしまった。なんて声のでかい女なんだろう。決勝戦をスタンドの最前列で見るほどのサッカー好きなら今更俺の名前に反応しないで欲しい。どうせ知り合いに連れてこられただけでサッカーには無関心な馬鹿女なのだろうが、それならそれで今すぐ消えて欲しい。
「行こう、星。」
三崎に肩を叩かれた。間もなく試合開始だ。
コイントスで先攻を得た俺たちは、ボールを前に陣を構える。三崎と俺がツートップ。目配せをして俺がボールを蹴り出した。わっと歓声が上がる。
今頃、実況席では、アナウンサーが興奮した様子で語り始めているに違いない。
「さあ、ついにキック・オフ。蹴り出したのは星飛雄馬。二年生のエースストライカーですね。」
「いやあ、それにしても彼の名前はインパクトがありますねえ。」
「野球選手にぴったりの名前だと思いますが、彼が野球ではなくサッカーを選んでくれたことはサッカー界にとっては非常に幸運だったと思いますよ。」
地区大会の時にケーブルテレビの中継がくれた迷惑な褒め言葉が脳裏を過ぎる。
俺は正面から向かってきたディフェンダーを交わすため、ボールを踵で跳ね上げた。
――魔球。
そう先輩が名付けた俺のボール・コントロールに相手ディフェンダーは分かりやすく動揺を示す。俺は目の前に落ちてきたボールをトラップした後、左サイドを走る三崎に向かって思い切り高く蹴り上げた。
《了》