ここち

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突撃! Glasses

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第三話 明るい黄色で笑え! ―― (1)

 月曜日、孝志は憂鬱な気持ちで学生食堂の片隅でカレーライスを突いていた。本来なら、月曜日は優里一緒の教室で抗議を受けられる至福の日だが、昨日、変なヒーローごっこの現場を見られたことを思うと、顔を合わせたくはない。《あの変な人》と記憶されるくらいなら気にも留めずにいてもらえる方がどれほど良いだろう。
 朝食もろくに食べていないのに、目の前のカレーライスは一向に量を減らさなかった。既に昼休みの時間を過ぎて、食堂内の人間はまばらだ。週に一度の楽しみでもある四時限目の講義を欠席するべきか否かを決断するまで、残された時間はあと一時間ほどである。
 ――ピーッピーッ。
 突然、電子音が響いた。例の眼鏡の通信機能だ。優里に出くわして《昨日の変な人》と気付かれるのを恐れた結果、大学へは眼鏡を掛けてこなかったのだが、眼鏡を掛けた時のなかなかのイケメンぶりには未練があって、鞄の中に入れて持って来たのだ。
 孝志は回りに人がいないことを確認すると、眼鏡を掛けた。
「メガネレッド、指令だ!」
 すぐさま飛び込んで来たのはアヤの声だ。アヤの声は喜々としているが、孝志の気分は一向に上昇しない。アヤの声で余計に下降している。
「指令って……。」
 孝志が呆れた様子で返すも、アヤは孝志の反応などそもそも元から考慮するつもりはないのだろう。孝志が言い終わらぬうちに、アヤは続けた。
「松原優里に危険が迫っている!」
「き、危険? それ、どういうことです!?」
 孝志は慌てて聞き返した。思いを寄せる彼女に危険が迫っていると聞けば、ぼうっとしてはいられない。
「お前、今大学にいるな?」
 アヤは孝志の質問には答えず、質問した。
「ええ。」
「ならば今すぐ一号棟の掲示板の前に来い。眼鏡戦隊グラッシーズのミッションを開始する!」
 アヤはそう言い切ると、一方的に通信を切った。
 ――眼鏡戦隊グラッシーズ。
 もうヒーローごっこには関わりたくない。マッドサイエンティストの言うことなんて聞くべきではない。どうせろくなことにならない。
 経験則上、この招集に応じることが幸運を呼び込まないどころか不幸を重ねることになると言うことははっきりしていたが、このままのんびり食堂でカレーを突いているわけにはいかなかった。
 せっかくのカレーを生ごみにするのは申し訳なかったし、腹が減っては戦は出ない。急に湧いて来た食欲に任せて一気にカレーを掻き込むと、空の食器とトレイを片付け、大慌てで食堂を出た。眼鏡はもちろん掛けている。この眼鏡が柳瀬孝志とメガネレッドを別人化するように働いてくれれば良いと願いつつ、一年以上も思いを寄せ続けてきた優里の危機にじっとしていられるほど孝志は無慈悲な人間ではなかった。
 孝志が一号棟へ向かうと、掲示板の前に、アヤの姿があった。白衣の美女――見た目だけなら確かにアヤは美人なのだ――は、やけに目立つ。白衣を着て研究をする理学部の学生は多いはずだが、一号棟は専ら教養の授業が行われる建物で、白衣姿でうろつく学生はいない。理学部の実験棟である五号棟近辺でも、白衣姿で外をうろつく学生はそういないだろう。
 自称天才科学者のアヤに白衣姿は良く似合っていたけれど、ここへ来るまでの電車の中でもその格好だったとしたらかなりの変人だ。いや、確実にアヤは変人だろう。昨日だって白衣姿でレンタカーを運転していたのだから。
「遅いぞ、メガネレッド!」
 孝志がアヤに近付くことを一瞬躊躇うと、アヤが大きな声を上げて近付いて来た。孝志は慌ててアヤに駆け寄る。大学のキャンパス内で大声で「メガネレッド」と呼ばれることはできる限り避けたかった。既に呼ばれてしまった今となっては、三時限目の授業中で周囲の人間が少ないとは言え、恐ろしく恥ずかしい。
「それで……松原さんが危険ってどういうことなんです?」
 孝志は声を潜めて問うた。近辺に優里の姿はないが、アヤのことだから、仕掛けた発信機や盗聴器、監視カメラで何らかの危険を察知したのだろう。
「奴を見ろ。」
 アヤが孝志の背後を指差し、孝志は振り返った。小太りの男が一人、きょろきょろと辺りを見回している。額は汗ばみ、首には白いタオルを掛け、だいぶ色の落ちた――これはたぶん仕様ではなく使用の結果――ジーンズと黄色いTシャツを身に付け、背中には黒いリュックサックを背負っている。お世辞にもかっこいいとは言えず、リュックサックからぶら下がったアニメ的なフィギュアから連想するに、いわゆるオタクの部類に属する人間だろう。不審と言えば不審だが、総合大学の学生に一人や二人、十人や二十人のオタクが混じっていたところで取り立ててどうと言うこともない。孝志もこれまでに何度か、あんな感じの学生を目にしている。
「彼が、どうかしました?」
 孝志はアヤに向き直って尋ねた。
「奴こそ松原優里に危険をもたらす人物。眼鏡戦隊グラッシーズの今回の敵だ!」
 アヤははっきりと言い切った。
「……どう、危険をもたらすんでしょう?」
 孝志は首を傾げつつ問い返した。何となく、嫌な予感が脳裏を過ぎる。アヤの呼び出しで「危険」と言われたところで、実際は大した危険なんてないのではないかと。呼び出しを告げるアヤの声がとても嬉しそうだったことを思えば、真に優里に危険が迫っているとは考えにくい。そのことにもっと早く気が付くべきだった。
「奴の手にしているチラシの束が見えるか?」
 アヤは声のトーンを落として言った。確かに、アヤの言う通り、小太りの男は何か紙の束を抱えている。しかし、しっかり両手で抱えられたその紙に何が書かれているかまでは視力の良い孝志でも分からなかった。
「それが何なんです?」
「内容はこれだ。」
 アヤが隣の柱に貼られている張り紙を指差した。
「……コスプレイヤー大募集?」
 孝志は貼り紙の真ん中に書かれた太い大きな文字を読み上げる。
「そうだ。奴はコスプレ美少女に執心しているアニメオタクだ!」
 アヤはぐっと拳を握り締め、抑えた声で叫ぶ。
「だから? 別に良いんじゃないですか? アニメオタクでも。誰に迷惑を掛けているわけでもないし……。」
 はっきり言えば、戦隊ヒーロー特撮オタクのアヤの方がよっぽど世間に対して迷惑な存在だ。小太りの男の格好が多少暑苦しく、見苦しいと感じるのも個人の趣味の問題だろう。ファッションセンスがないからと言ってそんなに責めては可哀相と言うものだ。
「いんや! これを良く見ろ! このいやらしい女の絵を!」
 アヤが指差したのは貼り紙に描かれたアニメ風の女の子の絵だ。アニメに詳しくない孝志にはそれが一体どんなアニメのどんなキャラクターなのかは知らないが、両手で膝を押さえるように腰を屈め、正面を見てにこりと微笑んでいる女の子の絵は普通に可愛らしい。漫画としてはなかなか上手い方だろう。アヤは「いやらしい」と言ったけれど、普通のセーラー服姿で特に問題があるとは思えない。
 絵の周りの文章を読んでも「セーラー服に巫女さん、メイドさん……可愛い衣装を着て記念撮影をしてみませんか?」という誘い文句はいたって普通だ。貼り紙の一番下には「アニメ研究会」と連絡先が書いてある。サークルの部員募集の貼り紙と解しても良さそうだ。
「奴は……松原優里を狙っている。」
 アヤが押し殺した声で囁いた。
「はい?」
 自分も人のことを言えた義理ではないが、美女の優里が小太りのアニメオタクを相手にするとは思えない。狙うも何も、端から恋愛対象外だろう。
「奴はあのチラシを松原優里にも渡したのだ。しかも、奴は掲示板を見ている松原優里の姿を先ほどまでじっと見つめていた。奴はこのコスプレイヤーとして松原優里を勧誘しようとしているのだ!」
 アヤはいかにもそれが重大問題であるかのように言うが、孝志には全く事の深刻さが理解できなかった。
「別に、良いんじゃないですか?」
 優里がコスプレイヤーと言うのは孝志の中の優里に対する清楚なイメージに若干の変更をもたらすことになるが、優里のセーラー服姿は少し見てみたい気もする。
「良いのか? 本当に良いのか? 松原優里があのオタク男、いや奴だけではない。奴のような変態オタク男に囲まれて、いやらしい写真をたくさん撮られるはめになってもお前は構わないの言うのか!」
 アヤの論理は少し飛躍しすぎている。
「いやらしい写真って、ただのコスプレでしょう?」
 孝志が笑いながら言うと、アヤは真剣な表情で孝志を睨み付けた。
「本当にただのコスプレだと思うか? 発情期の変態オタクが何人も集まって可愛い女の子を囲み、密室で写真を撮る。本当にただの記念撮影で済むと思うのか? あんなことやこんなこと、果てにはそんなことまでやらされて身も心もずたずたにされるに決まっているのだ! お前は松原優里がそんな目に遭っても構わないというのか! オスとしての欲望が満たされればそれで十分か!」
 アヤは力強く喚き立てた。授業中で人通りが少ないとは言え、いくつかの視線を背後に感じる。
「いや、僕はそう言うつもりじゃ……。」
 アヤの発言には明らかな偏見と勝手に付け足された根拠のない情報が混じっている。しかし、確かにアヤの言うことには一理あった。男ばかりのところへ女の子一人と言うのは確かに危険だ。尤も、小太り男が優里を誘ったとして、それに何の警戒もなく応じてしまう程優里は愚かではない。優里でなくとも、あの冴えない格好の男の誘いに素直に乗るような女の子はそうそういないように思う。あの小太り男の挙動不審ぶりを見ていると、女の子数人が束になれば、負けるのは小太り男の方だという気もした。優里に危機が迫っているとは思えない。
「奴の危険性が分かったか?」
「でも……未遂ですよ?」
 実際に事件が起きたというならともかく、まだ何も起こっていない段階で騒ぎ立てるのは過剰反応に思える。防犯努力は必要だが、誤認逮捕も問題だ。
「甘い! 甘すぎるぞ、メガネレッド! あらゆる危険因子は排除しなければならぬのだ。」
 これは正義の味方の台詞ではない。悪の魔王が大量殺戮を成し遂げる前のマインドコントロールだ。孝志がどうアヤを説得しようか悩みながら言葉を返せずにいると、アヤは続けた。
「さあ、選べ、メガネレッド! 悪に屈するか、正義の男になるのか!」
 アヤの言う通りにしても、いやむしろアヤの言う通りにする方が「悪に屈する」ことになると思いつつ、孝志は結論を出す。
「じゃあ、正義の方で……。」
 かくして孝志はあっさりと正義を名乗る悪に屈したのだった。

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