月影物語

　「早くしないと遅刻だよー。」
　玄関先から響いて来る声に急かされつつ、春宮アズマはイチゴジャムをたっぷり塗ったトーストを口の中に押し込んでいた。
「あと三十分早く起きればそんなに慌てて食べなくて済むのに。」
　ダイニングへ入って来た母が呆れた様子でアズマを見る。だったらあと三十分早く起こしてくれれば良かったじゃないかなんて子供染みた反論をするつもりはない。そもそも昨日は夏休み中の溜まりに溜まった宿題に煩わされて、ベッドに入ったのは日付が変わってからだった。一分でも長く寝たかったというのが今朝のアズマの正直な心情だ。
　アズマはトーストを口に詰め込むと、マグカップの牛乳を呷って無理矢理胃へと流し込んだ。更にお皿に盛られていたりんごを一切れを咥え、ソファーの上に置いていた鞄を掴む。
「いっへひます。」
　アズマはりんごを咥えたまま母に声を掛け、ダイニングを出た。
「はいはい、気を付けてね。いってらっしゃい。」
　母はため息を吐きながら玄関に出るアズマの後をついて来る。玄関では、幼馴染みの竹本望が手持ち無沙汰に待っていた。
「ごめんねえ、望ちゃん。うちの子のせいで望ちゃんまで遅刻しちゃうんじゃない？」
　母が申し訳なさそうに望に言う。生まれた時から同じマンションに住んでいる腐れ縁で、小学生の頃から望は毎朝アズマを迎えに来た。
「良いんだよ、こいつが勝手に来てるんだから。」
　アズマは玄関に腰を下ろしてスニーカーの靴紐を結ぶ。
「何言ってるのよ。望ちゃんが迎えに来てくれなかったら、あなた毎朝遅刻じゃない。少しはお礼の一つも言ったらどうなの。」
「知るかよ。俺は一度だって迎えに来てくれなんて頼んでないんだから。」
　アズマは靴紐を結び終えると立ち上がり、一人先に玄関を出た。
「本当にあの子ったら……。」
「良いんです。本当に私が勝手に来てるだけですから。それじゃあ、おば様、いってきます。」
　頬に片手を当てながらため息を吐く母に、望はぺこりと頭を下げてアズマを追いかける。アズマは悠々と廊下を歩いていたが、通路の角を曲がって階段を降り掛けた瞬間、後頭部を強く叩かれた。
「本当に毎朝毎朝世話が焼けるんだから！」
「ってえ。お前、卑怯だぞ、親の前でだけ良い子ぶって！」
　アズマは後頭部を押さえながら望を振り返って叫ぶ。
「良い子ぶってるんじゃないの。礼儀正しいと言って！　全く、誰のおかげで毎日遅刻せずに済んでると思ってるんだか。小学生の頃から毎朝毎朝……本当、少しは感謝したらどうなの？」
　望はアズマの耳を引っ張り、言い聞かせるように耳元で声を張り上げた。
「だから言っただろ？　俺は迎えに来てくれなんて頼んでないんだって。高校生にもなって何だって毎朝幼馴染みと一緒に登校しなきゃならないんだ。」
　アズマは耳を掴む望の手を振り払い、逃げるように階段を駆け下りる。
「仕方ないでしょ。私が迎えに行かなきゃ、アズマは遅刻しちゃうんだから！」
　アズマに続き、望もバタバタと階段を降りながら叫ぶ。
「だからそういうのが余計なお世話なんだよ！」
　一気に階段を降り切って、望を振り返りながらそう叫んだアズマは、マンションの敷地を飛び出すと同時に、目の前の道路を歩いていた誰かとぶつかりそうになって急ブレーキを掛けた。
「ああ、ナイスタイミング。」
　急ブレーキで前へつんのめりそうになったアズマを押し返しながら、にこりと笑みを見せたのは内賀雅臣。アズマと望のクラスメートで、アズマにとっては親友となるこちらも付き合いの長い幼馴染みの一人だ。
「おはよう、アズマ。」
「おう。」
　邪気のない笑顔を見せる雅臣に、アズマは毒を抜かれたような気持ちで短く返した。
「望ちゃんもおはよう。毎朝ご苦労様。」
　雅臣はアズマの背後を覗き込むように後から飛び出してきた望に声を掛け、それからアズマの顔を見て諭すように言った。
「ダメだよ、アズマ。あまり望ちゃんに迷惑掛けちゃ。」
「迷惑って、むしろ迷惑掛けられてるのはこっちの方なんだ！　毎朝毎朝甲高い声で起こしに来て……。」
　アズマが反論すると、雅臣はけらけらと笑いながらゆっくりと歩き出す。アズマは不満に思いつつも寝不足の頭を抑えながら、雅臣に並んだ。
「でも、おかげで遅刻せずに済んでるじゃない。」
　望は二人の一歩前へ飛び出すと、アズマの顔を覗き込むように口を出す。
「別にお前が来なくても俺は時間になれば自分で起きられるんだよ。」
「あら、私が風邪で学校を休んで迎えに行けなかった日、見事に遅刻したのはどこの誰かしら？　ちゃんと知ってるんだから。」
　望は意地悪そうな笑みを見せる。
「それはたまたま……つーか、それ、いつの話だよ？」
　心当たりがなくてアズマが聞き返すと、望はすぐに返した。
「中学二年生の時。」
「そんな昔の話、知るか。」
「たとえ昔でも私が迎えに行かなくて遅刻したのは事実じゃない。それに、アズマは小学生の時から全然変わってないんだから。夏休みの宿題だって毎年溜め込んでるし。」
　望は人差し指を立ててアズマの頬をつんと突いた。
「それでもちゃんと夏休み中に終わらせてるだろ？」
　頬を突く望の指先を払いのけ、更にもう一言言い返そうかと思った時だった。チリンと自転車のベルが聞こえてアズマが振り返すと、自転車に乗った男が真っ直ぐこちらへ突進して来る。スピードを緩める様子もなければ、避けるつもりもないらしい。ぶつかりそうになって、アズマは慌てて雅臣と共に道の真ん中へ飛び退いた。
「おはよう、竹本さん。」
　自転車の男はバランスを崩して地面に倒れ込んだアズマには目もくれず、望に向いて微笑み掛ける。クラスメートの宇野貴大だった。
「お、おはよう、宇野君。」
　望は困った様子で男に返し、雅臣が地面に四つん這いになったまま動かないアズマに「大丈夫？」と声を掛ける。
「久しぶり。夏休みはどうだった？」
　周囲の戸惑い――特に背後の殺気をすっかり無視して、宇野は自転車に跨ったまま望に尋ねる。
「おい……てめえ。」
　アズマはやっとよろよろを立ち上がりながら、押し殺した声で背後の宇野に向けて言った。
「ア、アズマ。とりあえず落ち着いて。」
　今にも宇野に食って掛かりそうなアズマを、雅臣が必死に宥めるが、それで潔く引くつもりはアズマにはなかった。追突されそうになったことも腹立たしいが、それ以前からアズマは宇野に対して良い気持ちを抱いていない。サッカー部のエースを務める宇野はやたらと女子に愛想を振り撒き、二年でクラスが一緒になって初めて知り合った望にも馴れ馴れしく声を掛ける。宇野が愛想を振り撒く相手は望に限らず、クラス中、学校中の女子生徒なのだが、それが余計にアズマの神経を刺激していた。
「ったく、うるさいな。俺は今、竹本さんと話してるんだ。お前は黙ってろ、春宮アズマ。朝から騒いで近所迷惑だぞ。」
　宇野は振り向いて不愉快そうにアズマに返すと、すぐに向き直って笑顔で望と話し始める。アズマは唖然として動きを止めた。歩行者を突き飛ばそうとする自転車の方が迷惑だと思うが、そんな文句を口にしたところで宇野の耳には届かないか、届いても無視されるに違いない。怒りを通り越して笑みが零れ始める。
「た、楽しかったよ。宇野君は？」
　望は宇野の背後のアズマの様子を気に掛けつつ、型通りの短い質問を返した。
「俺はずっと部活。おかげですっかり日に焼けちゃって……。」
　言いながら、宇野は浅黒い腕を自慢げに示す。
「そう。サッカー部は練習大変そうだもんね。」
「まあ、特に俺はエースだしね。エースが練習サボるわけにもいかないから。」
　宇野は露骨な自慢を含めつつ、望の前で満足げに語った。
「そうそう、こないだの練習試合だけど、竹本さんにも観に来てもらいたかったなあ。もちろん勝ったんだけど、俺ってばハットトリック決めちゃってさ、相手のキーパーが可哀想だったよ。」
　どう返そうか戸惑っている望に対して、宇野は一方的に話を続けている。
「また今度試合があるんだ。よかったら竹本さんも応援に来てよ。友達も誘ってさ。まあ、後ろの奴らは邪魔だから要らないけど。」
　宇野は振り返りもせずに親指で背後を示し、ついにアズマは止めようとする雅臣の手を振り払って宇野の肩に手を伸ばした。
「じゃあ、また学校で。」
　アズマが宇野の肩に手を掛けるよりも一瞬早く、宇野は望に向かって片手を上げ、力強くペダルを踏み込む。走り去る自転車の上からひらひらと振られた片手は、望に対する挨拶ではなく、アズマへの挑発と解釈するのが正しいのだろう。
「あの野郎、絶対わざとだ！　わざと俺にぶつかってきた！」
　アズマは胸の前に拳を掲げながら精一杯の恨みの視線を宇野の背中に向けて送る。
「まあまあ、落ち着いて。ほら、のんびりしてると遅刻しちゃうよ。」
　雅臣はポンポンとアズマの肩を叩いて宥め、歩き出した。アズマも不満げな表情を残しつつ、仕方なく雅臣と並んで歩く。
「もう、いつまでも怒ってないの。本当に子供なんだから。」
　望は笑いながらアズマの額を突き、前方に見知った女子生徒の後ろ姿を認めると、「先に行くね。」と駆けて行ってしまった。アズマは思いの外強く突かれた額を擦りながらぼんやりと望の後ろ姿を見送り、ため息と同時に笑みを零す。
「分かりやすいねえ、アズマも。」
　怒りを露にしたまま地面を踏み締めて歩くアズマに、雅臣が笑いながら言った。
「分かりやすいって何がだよ？」
「何がって……好きなんでしょ？　望ちゃんのこと。だから、宇野君と望ちゃんが話してるのが気に食わない。」
　雅臣はふっと笑って僅かに足を速める。
「は……ちょ、待て！　なんでお前、俺が望のこと……。」
　予想外の台詞に、アズマは慌てて雅臣の腕を掴んで引き止めた。
「何でも何も、ずっとばればれだと思うけどなあ。」
　雅臣は悠々と笑みを見せる。
「ずっとって、お前いつから気付いてた!?」
「まあ、小学校の時には？」
　アズマが雅臣の胸倉を掴むように問い詰めると、雅臣は首を傾げつつ答えた。
「な……だって、小学生の頃なんて俺はまだ……。」
「自覚がなかった？」
　雅臣が笑顔で図星を突き、アズマは返す言葉もない。酸欠の金魚のように口をパクパク動かしてみるが、声が出なかった。
「いつも一緒にいたからねえ、望ちゃんとアズマ。まあ、大概僕も一緒にいたけど、アズマが望ちゃんを特別扱いしてるのは一目瞭然だったし、僕が望ちゃんと仲良くしてるとすっごく不機嫌そうに間に割って入って来るし……。僕にはその気はありませんってことを分かってもらうために結構苦労してたんだよねえ。」
　アズマの腕を振り払いながら、雅臣はゆっくりと歩きながら語る。完全にうろたえているアズマを前に、雅臣はどこか楽しそうだ。
「でも、望ちゃんにはちゃんと直接伝えた方が良いと思うよ？　いくらばればれでもけじめは大事だからね、男としては。」
　雅臣はアズマを振り返り、妙に悟った様子で言う。
「ばればれでもって……ばれてるのか、望に。」
　アズマは冷や汗が伝うのを感じながら問い返した。
「さあ、どうかなあ。」
　雅臣はにこにこと笑って視線を逸らす。
「どうかなあって、はっきりしろよ！」
　慌てて雅臣に駆け寄って問い詰めても、雅臣はけらけらと笑うばかりだ。
「告白してみれば分かるんじゃない？　そしたら宇野君にも『俺の彼女に手を出すな。』ってはっきり言ってやれるんだから。『俺の幼馴染みに手を出すな。』じゃ何の効果もないよ？」
　そう言って雅臣はけらけらと笑いながら先を歩く。雅臣の話は尤もだった。気持ちは確かなのだから、早く告白するのが普通だと言うことは分かっている。ただ、それが今の自分の願いを実現させてはくれないということもアズマは確信していた。
「そう言うんじゃないんだ、俺は。」
　思わず漏らした声に、雅臣が小さくため息を漏らす。
「やっぱり強いね、アズマは。」
　振り向くと雅臣がそう言って笑い掛け、アズマは意味が分からず首を傾げた。
「おっと、早くしないと本当に遅刻しそうだね。走るよ、アズマ。」
　腕時計を確認した雅臣が言うと同時に駆け出して、アズマも慌てて追い掛けた。聞こえて来る鐘の音はまだ予鈴だろうが、学校までの距離と教室が四階にあることを考えたらぎりぎりだ。毎朝、望が迎えに来てくれるおかげで、高校に入ってからは辛うじて無遅刻無欠席を記録している。二学期早々遅刻するのは嬉しくない。優等生の雅臣まで道連れにしてしまうとなれば尚更だ。
　夏休みが終わってもまだ暑い盛り。朝から汗を掻きつつ階段を駆け上がり、アズマと雅臣は本鈴と同時に教室に駆け込んだ。教室内ではまだクラスメートがそれぞれお喋りをしている。担任教師の姿はない。
　アズマと雅臣がホッとしながら一番後ろの席に並んで腰を下ろすと、担任教師が入って来た。教室中に散っていたクラスメートがバタバタと動いて自分の席に戻り始める。
「ほら、静かにー。」
　担任教師はポンポンと手を叩きながら教室内が静かになるのを待ち、それからコホンと一つ咳払いをして、口を開いた。
「この後は始業式だが、その前に、今日から新しくこの二年三組の仲間になる転入生を紹介する。大月、入りなさい。」
　前方の扉がゆっくりと開いて見慣れない顔の女子生徒が教室へ入って来ると、教室内には歓声が上がった。目立つのは感嘆の息を漏らすような低い声。担任教師に大月と呼ばれたその女子生徒は、他のクラスメートが声を上げるのも無理のない綺麗な黒髪の美少女だった。
「ほら、静かに！　じゃあ、自己紹介して。」
　担任教師は再び手を叩いて教室内を鎮め、隣に立った女子生徒を促した。女子生徒は「はい。」と素直に答えて、真っ直ぐ前を向く。
「はじめまして。京都の高校から転校して来ました大月カグヤです。よろしくお願いします。」
　女子生徒――大月カグヤは丁寧にお辞儀をし、クラスメートたちはパチパチと拍手を返す。顔を上げたカグヤは前へ垂れた黒髪を後ろに払いながら微笑み、再び息を吐くような声が教室中に漏れた。
「綺麗な子だね。」
　雅臣が隣からアズマに囁き、アズマも小さく頷いた。漆黒の髪と透き通るような白い肌は典型的な大和撫子だろう。望に思いを寄せているアズマでも思わず見惚れてしまう美しさがカグヤにはあった。
「はーい、質問です！　名前の漢字はどう書くんですか？」
　クラス一のお調子者が颯爽と手を上げ、質問する。
「カグヤは片仮名で、大きな月と書いて大月です。」
　カグヤの答えに「まさにかぐや姫だな。」とどこからともなく声が上がった。
「じゃあ、とりあえず大月は一番後ろの席。春宮の隣だな。」
　担任教師が言い、教室内の特に前方の席から不満そうな声が漏れる。アズマは集まった視線にあわせて隣を見、休み前にはなかった机が増えていることに気が付いた。
　カグヤは真っ直ぐアズマの隣まで歩いて来ると、「よろしくね。」とアズマに微笑を向け、席に着く。アズマはカグヤの視線にふっと鼓動が速くなるのを感じ、たどたどしく会釈を返した。