ここち

HOME >> 長編・シリーズ小説 >> 月影物語 >>

月影物語

前頁 - 次頁

第一章 蝕まれる日常 ―― (2)

 始業式が終わって教室へ戻って来ると、カグヤの机はクラスの女子に取り囲まれていた。カグヤに興味を持っているのはむしろ女子よりも男子のように思えるが、女子が作り上げたバリアの中に入り込んで行く勇気のある男子はいないらしい。男子生徒はそれぞれ遠巻きにその様子を眺めつつ、囁き合っていた。どうやら一部には他のクラスの人間も混じっているらしく、教室の扉からそうっと中の様子を窺おうとする男子生徒もいる。目的は美人と噂の転入生の姿を確認することなのだろうが、目的の人物は机の周りに集まった他の女子生徒たちに隠れてしまい、目的達成は当分叶いそうにない。
 今日は始業式が終われば通知表を提出して、配布物を受け取れば解散になる。アズマは名簿順に名前を呼ぶ担任に通知表を提出し、配布物を受け取って、既に提出を終えている雅臣と共に帰ろうと鞄を手に教室を出ようとした。
「春宮君。」
 ふと声を掛けられて振り返ると、カグヤが鞄を手に席を立ったところだった。
「もし良かったら、一緒に帰らない?」
 カグヤはにこりと笑ってアズマに問い掛ける。
「へ?」
 なぜ自分に声が掛かったのかさっぱり分からずアズマは首を傾げた。先ほどまで遠巻きにカグヤを眺めていた男子生徒が寄って来て、「それなら僕が!」「いや俺が!」と口々に声が上げる。
「春宮君の家、三丁目なんでしょう? 先生から聞いたの。私も三丁目だから、途中まで一緒に行けるかなって思って……。」
 カグヤは群れから掛かる誘いの言葉には答えず、アズマに向かって言った。
「僕も三丁目なんだけどねえ。」
 アズマの後ろで雅臣が不満そうに小さく漏らす。
「でも、三丁目だったら望……いや、竹本さんもだよ? どうせだったら女の子と一緒の方が良いんじゃない?」
 カグヤの背後から一身に注がれる恨み辛みのこもった視線に気圧されながら、アズマは答えた。よりにもよって何だって自分がご指名を受けなければならないのだろう。確かにカグヤは美人で、一緒に帰って少しでも話ができたら嬉しいと思う男子生徒が多いことは、今、自分を睨み付けている男子生徒の数を見れば一目瞭然だ。しかし、今朝、雅臣に言い当てられた通り、アズマは望のことが好きだったし、少なくとも今カグヤを囲っている男子生徒全員を敵に回すようなことはしたくなかった。それに、今までカグヤの周りを囲っていた女子生徒たちも怪訝そうに首を傾げている。まずは目の前の自分たちに「一緒に帰ろう。」と声を掛けるのが普通じゃないかといった様子だ。
「私と一緒に帰るのは嫌?」
 カグヤが首を傾げながら問い掛け、アズマは男子生徒の恨みの視線と女子生徒の怪訝そうな視線を一身に受けながら逡巡した。正直に言えば、色んな意味で「嫌。」なのだが、そんな正直さを褒め称えてくれるような空気ではない。だからと言って「喜んで。」と答えるのも妙だ。
「じゃあ、みんなで一緒に帰ろうよ。」
 窮地を救ってくれたのは望だった。カグヤの周りを囲っていた女子生徒の一人の腕を掴み、「私も陽子ちゃんも三丁目だから。」とカグヤに声を掛ける。
「ええ、そうね。」
 カグヤが笑顔でそれに応じ、周囲の緊張した空気が解けた。アズマはほっと胸を撫で下ろし、雅臣がアズマの心労を労わるようにポンと肩を叩く。
「じゃあ、みんな、また明日ね。」
「またね。」
 望が明るくクラスメートに声を掛け、アズマたち五人は教室を出た。
「大月さんは京都から来たんだよね? 京都出身なの? 言葉は標準語みたいだけど……。」
 歩きながら、雅臣がカグヤに問い掛ける。
「お父さんの仕事で一年間だけ。出身は東京なの。」
「ああ、なるほど。」
 会話をする二人の間に挟まれながら、アズマはどこか居心地の悪さを感じていた。右に雅臣、左にカグヤ、その先に陽子を挟んで望という順に並んでいる。望との距離が遠い。カグヤはどうしてか望や陽子よりもアズマに話し掛けようとするし、アズマが望に話を振ろうとしても尽くタイミングを外して遮られる。教室にいた時以上に気まずい空気を感じながらアズマが校門を出たその時だった。
「竹本さん!」
 聞き覚えのあるあまり聞きたくない声が背後から掛かった。振り返らずとも声の主は分かったが、振り返ればやはり自転車に跨った宇野がいた。さすがに今回は無理矢理アズマに追突しようとはして来ない。もしそれをされたらガードレールのある歩道では逃げ場がなく、下手すれば五人が将棋倒しになりかねない。
「今、帰り?」
 そんなことは見れば分かるだろうと問い返したいのを我慢して、アズマは黙っていた。宇野が五人の間の不自然な空気を多少なりとも振り払ってくれたことに少しばかり安堵する。
「うん。宇野君も今日は部活はないの?」
 望も肩の力が抜けた様子で宇野に笑みを見せながら問う。
「あるけど、午後から。一度家帰って昼飯食わないと。腹が減っては戦はできぬって言うしね。それじゃあ、また明日。午後の練習を見に来てくれても大歓迎だけど。陰山さんも良かったらぜひ。」
 宇野はスポーツマンらしく不愉快なほど爽やかな笑顔を見せると、カグヤには一瞥もくれず走り去って行った。宇野が「陰山さん」と呼んだのは陽子のことだ。女子に愛想を振り撒くのが半ば癖のようになっている宇野にしては、その場にいる美女に一切言及しないというのは珍しい。好みではないということだろうか。
 ぼうっと宇野の背中を見つめていると、陽子が遠慮がちに口を開いた。
「望ちゃん、今日の午後、空いてる?」
「え?」
「私、図書室で本を読もうと思ってるんだけど、ついでに宇野君の応援……。」
「え!?」
 望に加えて、アズマと雅臣が陽子の台詞に驚いて声を揃えた。三人とカグヤに囲まれて、陽子はびくりと身体を縮める。
「だって、せっかく誘ってくれたから……。」
「でも、練習だろ? 試合ならともかく。」
 アズマが言うと、陽子は小さくなりながら「そ、そっか、そうだよね。練習で応援に行くなんてやっぱり変だよね。」と声もか細くなって行く。
「別に変じゃないんじゃないの? 来て欲しいって言ってるわけだし。誰かに見られてると思ったら練習でも気合入るだろうし。行ってあげたら喜ぶんじゃない?」
 雅臣がにこりと陽子に笑い掛けた。
「そ、そうかな。」
 雅臣のフォローに、陽子がほっと安心したような笑みを見せる。
「陰山さんは優しいね。」
 再び歩き始めながら雅臣が言い、陽子は照れた様子で頬を赤らめた。学級委員を務める陽子が人一倍の気遣い屋だということは知っていたけれど、天下一品のいい加減男である宇野の練習を見に行こうと言い出すほどとは恐れ入る。
 そこから、なぜか話は夏休み中にあったサッカー部の練習試合での宇野の活躍ぶりに変わった。陽子は休み中の試合も律儀に応援に行ったらしい。近所の夏祭りで会った時に試合があるという話を聞いて出向いたらしいが、たぶん、宇野は夏祭り会場で会った全ての知り合いに同じ話をしたはずで、望や雅臣と一緒に夏祭りを楽しんでいたアズマも確かにその話は聞いていたのだが、実際に応援に行ってやろうという気には全くならなかった。
 宇野の活躍の話なんてアズマとしては全く面白くないのだけれど、陽子は宇野がハットトリックを決めたという試合について熱心に語るし、そのおかげでずっと続いていた居心地の悪さから解放されたから、アズマは適当な相槌を打ちながら聞いていた。
「じゃあ、私はこっちだから。」
 ちょうど話が一段落すると同時に交差点に差し掛かると、陽子が右の道を指差しながら言った。
「大月さんは三丁目のどの辺?」
「神社の近くよ。」
 望が尋ねると、カグヤは微笑んで答える。この辺で神社と言うと毎年夏祭りのある月影神社しかない。大きな一戸建てが建ち並ぶ辺りだ。
「じゃあ、私と一緒にここで曲がった方が近いんじゃないかな。」
 陽子が言いい、カグヤも「そうね。」と頷いた。
「じゃあ、ここで。」
「また明日。」
 陽子と一緒に角を曲がり、微笑みながら挨拶を返したカグヤの視線は真っ直ぐアズマを捉えていた。
「何か疲れちゃった。」
 二人を別れて歩き出すと、望が肩を回しながら呟く。アズマも何となくその気持ちが理解できて、ため息を吐きながら頷いた。いつも笑顔を絶やさない雅臣までもが俯きがちに押し黙っているから、この短時間のストレスはかなりのものに違いない。原因が宇野を話題としたことにあるのか、当初にアズマが感じた嫌な雰囲気のせいなのかははっきりしなかった。
「お前、本当に行くのか? 宇野の練習見に。」
 ふと思い出してアズマは望に尋ねた。陽子は一人で行くのは緊張するからと熱心に望を誘い、望も渋々頷いていたのだ。陽子はカグヤにも声を掛けていたが、さすがにカグヤはあっさりと断り、望までもが無関心に断ると言うわけにはいかなかったのだろう。
「行くよ。陽子ちゃんと約束しちゃったし。正直、あまり行きたくないけど、マネージャーの藤堂さんとお喋りでもして来る。アズマも来る?」
 望はぶらぶらと鞄を振りながらくるりと百八十度回転し、後ろ向きに歩いてアズマに問い掛ける。
「冗談だろ? 何で俺が宇野の練習なんか見に行かなきゃならないんだよ。」
「だよね。」
 そう言って望はちらりを雅臣を見遣り、雅臣は問われる前に答えた。
「僕も遠慮するよ。」
「やっぱり……。」
 望はがっくりと肩を落とす。どうやら本当に行きたくないらしい。
「宇野君も練習で忙しいだろうからちょっと顔を出してすぐに帰ってくれば良いんじゃない? 陰山さんも図書室に行くついでって言ってたし。」
「そうする。」
 雅臣のアドバイスに望は頷き、また前を向いて歩き始めた。それからしばらく、三人は望がクラスの女子とのお喋りで得た噂話を共有しながら歩き、アズマと望が住むマンションの前までやって来た。
「じゃあまたね、雅臣君。」
「またな、雅臣。」
 いつもと同じように挨拶を交わし、アズマが望と共にマンションへ入って行こうとした時、雅臣がぐいとアズマの腕を引っ張った。
「アズマ、大月カグヤには近付かないで。」
 アズマを引き寄せた雅臣が、耳元で囁く。
「は? 何だよ、それ。」
「とにかく近付かないで。少なくとも、僕がいない時には絶対に。良いね?」
 雅臣は押し殺した声で念を押した。普段穏やかな雅臣には珍しいことだ。その気迫に圧されて、アズマは反射的に頷いた。
「わ、分かったけど……。」
「約束だよ? もし何かあったらすぐに連絡して。」
 雅臣は携帯電話を示しながらそう言うと、やっとアズマを解放し、足早に去って行った。
「アズマー? 何してんの?」
 マンションの入り口で望が振り返り、怪訝そうに首を傾げている。
「あ、いや……。」
 アズマは雅臣の後姿を見送りつつ、その姿が曲がり角に消えると望を追ってマンションの中へ入った。
「雅臣君に何か言われた?」
 階段を上りながら、望がアズマに尋ねた。
「ああ、何か、近づくな、とか。」
「え? 何に?」
 望がきょとんとして振り返る。
「大月カグヤに。」
「嘘!」
 アズマが答えると、望は心底驚いたように声を上げた。
「うそぉ、へえ、雅臣君がぁ……。」
 感嘆の息を漏らしながら、望の表情はいたずらでも閃いたかのように嬉しそうに緩んで行く。
「うそぉってお前、何でそんなに嬉しそうなんだよ。」
 アズマは望の過剰な反応に驚きつつ、呆れながら返した。
「だって、あの雅臣君が『俺の女に近付くな』なんて意外過ぎるんだもん!」
 望はリズミカルに階段を上りながらキャッキャと声を上げる。
「おい、ちょっと待て。雅臣はそんなこと言ってないぞ? 単に大月カグヤには近付くなって……。」
「だーかーらー、それはつまり『大月カグヤは俺の女にするんだから近付くな』ってことでしょ? 大月さん、妙にアズマを意識してたみたいだし、きっと雅臣君、アズマのことをライバル視しちゃったんだよ。ダメだよ、アズマ、雅臣君の邪魔したら。」
 はしゃいで言う望について階段を上りながら、アズマは望が解釈した雅臣の真意に納得できない気持ちで考え込んでいた。果たして本当に雅臣はカグヤのことが好きなのだろうか。明らかにカグヤに興味津々の様子だった他の男子生徒に比べて、雅臣のカグヤに対する反応はあまりにも淡白だったような気がする。しかし、思い返せば、カグヤが自己紹介を終えた後、雅臣は「綺麗な子だね。」と囁いて来た。カグヤがアズマに一緒に帰ろうと声を掛けた時も、「僕も三丁目なんだけどねえ。」と不満そうな声を漏らしていたのは事実だ。それが雅臣なりのカグヤへの興味の示し方だとしても理解できないことはない。雅臣が他の男子生徒のように好きな子に対してあからさまな反応を示すとは端から思っていなかった。帰り道、途中、雅臣が元気のない様子だったのも、恋に悩んでいたからだなんて理由はいくらだって付けられる。
 ただ一つ解せないのは「近付くな。」の台詞だ。もし本当に雅臣がカグヤのことを好きなら、雅臣は素直に協力して欲しいと頼んで来るのではないだろうか。いや、雅臣ならアズマの協力がなくとも自分をアピールする術は十分心得ているはずだ。アズマが望を好きなことも知っているのだから、親友に気兼ねして遠慮する必要もないし、ライバル視する必要だってない。それに、雅臣のあの押し殺した声は何か危険な……。
 そこまで考えて、アズマは大きく頭を振った。アホらしい。たかが転入生の女の子にどんな危険があると言うのだろう。まさかどこかの暴力団の娘でもないだろうし、仮にそうだとしてもクラスメートとして付き合い続けることに何の不都合もない。
 もし望の言う通りに雅臣がカグヤのことを好きなのだとしたら、それはそれで構わないことだ。大いに応援してやれば良いし、カグヤに何か誘われた時は雅臣も一緒に誘えば良い。アズマはそう自分を納得させると、一段飛ばしに階段を上り始めた。

前頁 - 次頁

HOME >> 長編・シリーズ小説 >> 月影物語 >>

Copyright © 2006 Aiko Kiryu. All rights reserved.