ここち

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月影物語

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第一章 蝕まれる日常 ―― (3)

 翌朝も、望の甲高い声が迎えに来て、アズマは渋々家を出た。幸いにして、今日は望が来る前にきちんと起床し、朝食を食べている最中だった。
「お前が来なくなって俺はちゃんと遅刻せずに済むんだ。」
 証明したりとばかりに、アズマは文句を垂れながら階段を降りて行く。
「今日だけでしょ? 今日だってのんびりテレビ観ながらご飯食べてたらそのまま遅刻したかもしれないし。」
 望は引かずに応戦した。きっと望はアズマがどんなに早く起きても、色々な理屈を付けて、望が迎えに来なければアズマは遅刻するという結論を導き出してしまうに違いない。アズマが反論を諦めてマンションの外へ出ると、花壇の脇に雅臣が立っていた。
「おはよう、アズマ。」
 雅臣はいつものようににこりと笑みを見せる。雅臣とは特に待ち合わせをしているわけではないが、アズマと望のマンションがちょうど雅臣の通学路の途中にあることもあって、三人揃って同じ高校に入学してからは、何となく毎朝このマンションの前で顔を合わせることが恒例になっていた。何となくとは言っても、雅臣が毎朝早めに来てアズマと望が出て来るのを待っていることは明らかで、大体時間はいつも同じだ。アズマがうっかり寝坊をした時は、アズマの家がある五階の廊下から望が顔を出して、下で待っている雅臣に合図を送ることになっていた。夏ならまだしも、冬になれば外でじっと待っているのは拷問に近い。アズマは、望のおかげで学校に遅刻せずに済んでいると言うことより、望のおかげで親友の雅臣を無駄に待たせずに済んでいると言うことについて少しだけ望に感謝していた。
 いつも通り、三人揃って学校へ向かう。しばらく歩いて、アズマはふと昨日から気になっていることを問い掛けようと口を開いた。
「雅臣、お前さ……。」
「ん?」
 アズマの隣で望がアズマの聞こうとすることを察したのか嬉しそうに顔を綻ばせたが、アズマは視界の先に映った人物に気付いて慌てて口を閉じた。
「何?」
「いや、何でもない。」
 交差点の角、道路を渡った反対側にカグヤの姿がある。じっとカグヤを見つめるアズマに気が付いて、望と雅臣も同じ方向へ視線を向けた。ふと雅臣の表情が緊張する。昨日、押し殺した声でアズマの耳元に囁いた時と同じだった。その表情は好きな人を前にしたときの緊張とは異なるような気がして、アズマは急に不安になる。
「おはよう、春宮君。」
 カグヤもこちらに気付いたらしく、信号が変わってこちらへ渡って来ると、カグヤは嬉しそうに笑みを見せた。
「竹本さんと内賀君もおはよう。」
 明らかにアズマが別格の扱いを受けているが、アズマにはその原因に心当たりがない。一目惚れをされるほど特別かっこよく生まれてきたつもりはなかった。正直、外見だけなら、宇野の方が上ではないかとさえ思う。隣にいる雅臣だって、女子にはもてる方だ。自分が特別不細工だとは思わないけれど、明らかに美人のカグヤがよりにもよって自分を選ばなくても良いのではないかとアズマは思っていた。
「おはよう、大月さん。」
 先ほど緊張した表情を見せていた雅臣が、カグヤにふわりと笑って見せる。それはいつもの雅臣の表情で、アズマは益々雅臣の考えていることが分からなくなった。望は「ほらね。」と小さく囁いて、アズマのシャツを引っ張る。雅臣がクラスメートの女子に笑顔で挨拶を返すのは何もカグヤだけではないし、今さっき自分だって同じように微笑まれたじゃないかと言っても、思い込みの激しい望はきっとささやかな違いを捏造して自分の理論を補強してしまうのだろう。
 四人は昨日より少しばかり柔らかな空気の中を並んで歩いた。昨日と空気が変わったのは、思い込みの激しい望のテンションが朝から妙に高いせいだろう。素早く雅臣とカグヤに話題を振り分け、日頃アズマに対して向けられるお節介振りを発揮していた。
 おかげであっという間に学校へ着き、今日は幸いにして予鈴の鳴る前に教室に入ることができた。
 四人が揃って教室へ入ると、ざわざわと教室内が騒がしくなる。クラスメートが注目の視線を向けたのは、もちろんカグヤだ。
「お、おはよう、大月さん。」
 昨日、一緒に帰ろうという申し出を見事に無視された男子生徒たちが、恐る恐るカグヤに声を掛けた。カグヤはにこりと笑って「おはよう。」と返す。それだけで大概の男子生徒たちは十分満足なようで、「大月さんと話した!」と自慢げに囁き合っていた。
 数名の女子もカグヤに声を掛け、普通に返事が返って来るとホッとした表情を見せる。昨日のあまりにもアズマを意識した態度で不信感を抱いていたのかもしれない。昨日カグヤと一緒に帰ったことで、望もまたクラスの女子生徒に囲まれて情報を引き出されている。
「大人しい感じだけど、良い子だよ。」
 望は素直に答え、どうやらカグヤがクラスに馴染めるよう他のクラスメートとの橋渡し役を買って出るつもりらしい。本当に世話焼きだと思いながら、アズマは自分の席に腰を下ろして鞄の中の教科書とノートを机の中に移し始めた。
 間もなく予鈴に続いて本鈴が鳴り、担任教師が教室へやって来る。出席を取り終えると、素早く解散。今日の一時限目と二時限目は芸術で、それぞれ選択した教科ごとに教室を移動することになっていた。
「春宮君も美術を選択してるのね。美術室まで案内してくれる?」
 アズマが美術の教科書を机から取り出して席を立つと、目の前にカグヤが立った。
「え? あ、でも……。」
 他に美術を選択している女子の名前を挙げて逃れようと思ったが、望は音楽を選択していたから、咄嗟には該当者の名前が浮かばなかった。
「美術室がどこかよく分からないの。良いでしょ?」
 アズマがおどおどと教室のあちこちに視線を走らせていると、カグヤはさっとアズマの腕に自分の腕を絡めて歩き出した。
「ちょ、ま……。」
 アズマは慌てて雅臣を振り返り、助けを求めようとするが、不幸にして雅臣もアズマとは選択科目が異なっていた。
「竹本さんは俺と同じ音楽で、内賀は確か書道だったよな。」
 アズマを追い掛けようとした雅臣の肩に、なぜか宇野が手を掛けて引き止めている。望も行く手を宇野に阻まれて、為す術がない。不安そうな表情でアズマとカグヤを見送る雅臣に、アズマは心の中で精一杯弁解していた。
 ――これは不可抗力だ。
 昨日の押し殺した雅臣の声が脳裏を過ぎるが、アズマだって近付きたくて近付いたわけではない。近付いてきたのはカグヤの方で、カグヤが近付いて来たその時点では雅臣も一緒だった。
 カグヤに引きずられるようにして美術室へ向かいながら、もし本当に望の言う通り雅臣がカグヤのことを好きだとしたら、少しやっかいな事態になるだろうとアズマは予想する。しかし、もしかしたらそれ以上の事態が起こるのかもしれないという漠然とした不安も心の隅に燻っていた。雅臣の不安そうな表情の中には、確かにもっと切迫した危機感があった……そんな気がしたのだ。
「あ、あのさあ……。」
 美術室へ向かいながら、アズマは恐る恐る口を開いた。
「何?」
「その、俺なんかよりクラスの女子に案内を頼んだ方が良かったんじゃないかな? 他にも美術を選択してる女子、けっこういるし……。」
「そんなに私と一緒が嫌?」
 カグヤは悪戯っぽい笑みを見せる。
「いや、そうじゃないけど、ただ、もっとクラスの女子と仲良くしておいた方が良いんじゃないかなって。余計なお世話かもしれないけど。」
 アズマはカグヤの表情を窺いながら尋ねた。二十年足らずのアズマの経験からして、女子は男子以上に集団の結束が強い。ちょっとしたことで仲間外れにされるとけっこう悲惨だ。男のアズマ自身に直接の経験はないけれど、以前、望が女の友情は怖いのよと語るのを聞いたことがあるし、外から見ていても何となく分かることはある。望はそれほど集団に依存するタイプではないようだが、それでもクラスの女子生徒と付かず離れず関係を維持するのにはそれなりに苦労しているらしい。
「そうね、余計なお世話だわ。」
 カグヤからあまりにもあっさりと返って来た答えに、アズマは些か驚いた。
「どうせだったら好きな人と一緒が良いの。これって普通じゃない?」
 言いながら、カグヤは一度離したアズマの腕を再びぎゅっと掴む。
「は? 好きな人ってそれはどういう……。」
 慌てて聞き返そうとしたアズマが言い切る前に、カグヤは「言葉通りの意味しかないと思うけど?」と答えて笑った。ドクンとアズマの心臓が跳ねる。
 言葉通りに解せば、カグヤはアズマのことが好きだということになる。そして、これはカグヤからのアズマに対する愛の告白だ。
 そんな馬鹿なと思いながら、アズマはそれ以上言葉を返すことができなかった。カグヤは足を止めることなく美術室へ向かって歩いて行く。
 考えてもみれば、女の子から告白を受けるのはこれが初めてだった。バレンタインデーだって、毎年、望やクラスメートの女子から義理チョコをもらうくらいで、本命のチョコレートを貰ったことはない。ラブレターが下駄箱に入っていたなんて漫画染みた話もない。
 望以外の女の子から好きだと言われることがあるなんて全く考えたこともなかった。ましてや転入してきたばかりの美少女からなんて……。
 カグヤの告白に、アズマが何も答えられぬまま、二人は美術室の前まで辿り着いてしまった。他の生徒の目を気にしてか、カグヤはアズマの腕から手を離し、美術室へ入る。アズマがいつも通りに窓際の席へ着くと、カグヤはその隣に並んだ。
 チャイムが鳴り、美術教師から告げられた今学期の課題は水彩画のポスターだ。パネル張りした画用紙に夏休みの思い出をポスターとして描けということらしいが、今日はまず一時限目でポスターのデザインを下絵としてまとめ、二時限目終了までには画用紙のパネル張りを済ませるようにという指示だった。
 生徒たちはそれぞれスケッチブックを取り出して、ポスターのデザインをあれこれと考え始める。カグヤも新しいスケッチブックを一冊、美術教師から与えられた。
「さすが春宮君。上手ね。」
 手持ち無沙汰に落書きを始めたアズマのスケッチブックを覗き込んで、カグヤが言う。アズマは特別絵が上手いわけでもなく、ただぼんやりと夏の風物詩と言える風鈴やスイカを描いていただけだった。何となく手を動かしながらも、隣にカグヤがいるせいか落ち着かない。
 カグヤはカグヤで何か絵を描いているらしいが、カグヤの顔どころかカグヤが座っている方さえアズマはまともに見ることができなかった。
 結局、二時限目に入っても、できたのは夏らしいと言われている品々がばらばらに描き込まれた落書きだけで、ポスターのデザインは全くまとまっていない。しかし、いずれにしてもパネル張りをした画用紙に下書きを始めるのは来週からだ。とにかく今週はパネル張りを終えて、来週までにデザインを固めてくれば良い。
 アズマはため息混じりにスケッチブックを閉じ、既にパネル張りの準備を始めている他の生徒たちに倣って、準備を始めた。
「やり方、教えてね。」
 カグヤがにこりと笑って言う。断るわけにも行かず、アズマは素直に頷いた。
 二時限目終了のチャイムが鳴る前に、パネル張りが終わった者から順に教室へ戻って良いと美術教師が告げ、数人の生徒たちが教室を後にする。少し準備を始めるのが遅かったせいか、最後にアズマとカグヤが残されて、美術教師はきちんと片付けをしてから戻るようにと告げると美術室を出てどこかへ消えてしまった。
 カグヤと二人きりで美術室に残され、アズマの鼓動は次第に速くなる。とにかく、一刻も早く作業を終えて教室に戻りたかった。
 素早く片付けまで済ませ、パネルを棚へ戻すと、アズマはホッと息を吐いた。これで二人きりの気まずい空間から解放される。そう思って振り向いたその瞬間、目の前にカグヤの顔があった。反射的に逃げようとするも、背後は棚で後退りする余裕はない。
「な、何……?」
 間近に顔を近付けて来るカグヤにアズマは一種の恐怖さえ覚えながら尋ねた。本能が告げている。これは何か良くない兆候だと。
 カグヤはアズマの胸に手を当て、体重を掛けながらアズマを見上げる。カグヤの顔が僅か数センチ先に迫り、生温かい吐息を感じた。
「お、大月さん?」
 やっとの思いで震える声を出すと、カグヤの顔が右へ逸れる。
「妾は月の都の姫、かぐや。」
 突然耳元で吐かれた台詞がアズマの頭の中を混乱させた。
 ――ワラワ?
「月の都の……姫? 大月さん、それ、何かのお芝居?」
 アズマは段々と速くなる鼓動に急かされながら、カグヤに聞き返す。
「大月ではない。妾は月の都のかぐや姫。春宮アズマ、お前と契りを果たすために月の都からやって来たのじゃ。」
 カグヤの表情に笑みはなく、本気の目がアズマを真っ直ぐに見据えていた。動くことができない。心臓は今にも破裂しそうなほど速く動き、息苦しかった。

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