月影物語
第二章 絡みし糸 ―― (1)
カグヤの細い指先がアズマの頬を這う。
「その、月の都から来たとか、俺はそういうオカルトめいた話は信じない主義なんだけど……。」
アズマは再び距離を取ったカグヤの顔を見つめながら言った。できることなら視線を逸らせたかったが、アズマの首筋に触れるカグヤの手はそれを許さない。
「今に思い出すわ。」
カグヤが微笑んだ。呼吸さえまともにできないような重苦しい空気が急に姿を消して、目の前では普通の可愛い女の子が悪戯っぽく微笑んでいる。
「思い出すって……。」
「竹取物語を知ってる?」
カグヤはアズマの胸に寄りかかったまま上目遣いにアズマを見上げて尋ねた。アズマが緊張の内に小さく頷く。
――今は昔、竹取の翁という者ありけり。
この有名な一文に始まる古典は、アズマも前に国語の授業で読んだことがあった。授業で読んだのはほんの一部だけれど、絵本にもなっている有名な御伽噺だから、大体の粗筋は読書嫌いなアズマの頭の中にも入っている。
ある日、竹取のおじいさんが竹の中に小さな女の子を見つけ、かぐや姫と名付けておばあさんと共に育て始める。かぐや姫はたくさんの貴族から求婚を受ける程の美人に成長するが、かぐや姫は無理難題を突き付けては男共の求婚を断り、時の帝の招きにさえ応じようとはしない。そしてある日、かぐや姫は自分が月の都の住人で、月に帰らなければならないこと明かす。おじいさんもおばあさんも、帝までもがかぐや姫を月に帰すまいとするが、かぐや姫を迎えに来た月の人々には敵わず、結局、かぐや姫は月に帰ってしまう。
平安時代の代表的な古典作品だが、書かれていることはもちろんフィクションで、史実ではない。
「私はそのかぐや姫。そしてあなたはかぐや姫と唯一真に心を交わして愛し合った人の生まれ変わり……。」
カグヤはそっとアズマの胸に頭を寄せる。
「かぐや姫と愛し合ったって、かぐや姫は結局誰の求婚にも応じないで月へ帰るんだ。かぐや姫と愛し合った人なんていないだろ?」
アズマはやや落ち着きを取り戻しながら声を荒げた。こんなふざけた御伽噺ごっこに付き合って動揺している場合ではない。
「それは物語にすぎないわ。真実は物語に書かれなかった。地上に下りたかぐや姫には帝の命まで断る程に愛した人がいたの。でも、その愛はかぐや姫に思いを寄せた帝の怒りを買い、物語からも歴史からも消されてしまった。かぐや姫はただ一人を愛し続けて月へ帰ったわ。そしてあなたがその一人。」
カグヤはアズマの胸に頬を摺り寄せたまま呟く。本気で言っているのだろうか。ロマンチックな物語を好む女の子は多いだろうが、ファンタジックな物語を現実と結び付けてしまうのは異常だ。星占いで相性を確認して運命の相手と思い込むくらいなら可愛いが、あまりにも話が複雑過ぎて薄気味悪い。先ほどのカグヤの表情もまるで何かが乗り移ったかのようで恐ろしかった。幽霊や呪いだなんて信じる気は毛頭ないが、怪しい新興宗教にでも関わっているとなれば巻き込まれたくはない。
「冗談も程々にしてくれないか。そもそもかぐや姫の話はただの物語、御伽噺なんだ。月の都の姫なんて実在しないし、仮に実在したところで、そんな時代に俺は生まれてない。」
アズマはぐいとカグヤの両肩を掴んでカグヤを身体から引き離した。
「だから言ったでしょう? 生まれ変わりだって。あなたはまだ思い出せないかもしれないけれど、いずれ思い出すわ。あなたの魂はあの人と同じ。私には分かる。」
カグヤはしつこくアズマの頬に手を伸ばして囁く。わけの分からぬまま進む話に、アズマは次第に苛立ちを感じ始めた。
「生まれ変わりでも何でもそんなの知るか! どっちにしたってかぐや姫はその愛した人やらを置いて月に帰ったんじゃないか。今更一体何の用だよ!」
アズマは再びカグヤの身体を押し返そうとしたが、カグヤはアズマの首の後ろへ腕を回し、離れようとしない。
「力が必要なの。」
カグヤの吐息がアズマの顔に掛かる。
「力?」
「私があなたに……あなたの魂に分け与えた月の力。私は再びあなたとの契りを果たし、力を取り戻したい。今の私にはその力がどうしても必要なの。」
カグヤは請うような目でアズマを見上げる。潤んだ黒い瞳が揺れ、アズマは再び鼓動が速くなるのを感じた。
「契りを果たすって、つまりどういう……?」
問い掛けたアズマの口をカグヤが塞いだ。唇に感じる柔らかな感触に、全身を熱が駆け巡る。力が入らず、アズマは背後の棚に凭れた。
「アズマー、いるー?」
がらりと扉が開いて、耳に届いたのはあまりにも聞き慣れた声だった。一瞬にして、血の気が引く。美術室の空気がシンと冷たく変わった気がした。
「望……。」
カグヤの肩越しに、呆然と入り口で突っ立っている望の姿が見えた。音楽の教科書を胸に抱えたまま、きっと音楽室から直接ここへやって来たのだろう。
「ご、ごめん。邪魔しちゃった……みたい。」
望の声が震えている。声だけではない。全身を小刻みに震わせ、揺れる瞳は明らかに動揺していた。
「ち、違う。これは……。」
慌ててカグヤから身体を離して弁明しようと思ったが、適当な言葉が出て来ない。一体何と説明すれば理解してもらえるのだろう。アズマ自身もカグヤの不可思議な話を理解できていないのだ。
「ごめんなさい!」
望はバンッと勢い良く扉を閉め、美術室を駆け出して行った。
「望、待て!」
アズマも慌てて望を追い掛けようとしたが、カグヤに腕を掴まれる。
「まだ、話は終わってないわ。」
カグヤは掴んだ腕をぐっと力強く捻り上げた。アズマが短く悲鳴を上げ、とても女の子とは思えない強い力で再び後ろの棚に打ち付けられる。背骨にずしりと衝撃が走り、アズマは小さく呻いた。
「妾はそなたが欲しいのじゃ。」
カグヤの口調が再び変わった。カグヤの両手がアズマの頬を包み込み、首筋へ腕へとゆっくりと撫でる。全身に力が入らなかった。鼓動だけが速くなり、アズマはずるずると床に腰を落とす。
「愛してるわ。だからあなたも、私を愛して。」
カグヤが囁く。それはまるで呪文のように、アズマの意識は次第に朦朧とし、視界が揺らいだ。
「ずっとずっと昔の約束。でも、私は昨日のことのように思い出せる。思い出して、昔のあなたを。眠っている魂を呼び戻すの。力を……ちょうだい。」
カグヤはアズマの胸に身体を預け、柔らかな唇がアズマの口を塞ぐ。吐き出したい程の嫌悪感が喉を上り、身体が震えた。目の前にあるカグヤの顔は、確かに可愛い少女のそれであるのに、今はおぞましさしか感じない。
カグヤが自らの腕をアズマの腕に絡めた。撫で上げられる腕に鳥肌が立つ。アズマの本能がカグヤを拒絶していた。
「や……めろ。」
アズマが震える声を絞り出し、カグヤが笑う。
「まだ、目覚めてくれないのね。でも忘れないで、あなたの魂は私のもの。私は必ず契りを果たす。これは運命よ。」
カグヤはアズマの身体から離れると、スカートに付いた埃を払いながら立ち上がった。
「あなたも目覚めれば分かるわ。力を返してもあなたには何の損にもならない。目覚めたあなたは自ら進んで契りを果たす。もう少しだけ、楽しみに待つことにするわ。できるだけその日が早く来るように願ってね。」
カグヤは再びしゃがみ込むとアズマに素早く口付けし、美術室を出て行った。美術室には一人、アズマだけが残される。
息苦しさは遠のき、身体の震えも止まったけれど、アズマは立ち上がることができなかった。唇にはまだ生々しい感触が残っている。
――いつか大切な人と。
そう夢見てきた行為は何ら快感をもたらさず、身体の中で何か得体の知れないものが蠢いているような気がした。内側から身体を蝕まれていくような感覚に、抗う術が見つからない。アズマはただ俯いたまま埃だらけの床に座り込んでいた。
「全く、真昼間からお熱いねえ。」
突然掛かった声に顔を上げると、美術室の入り口で宇野が扉にもたれて笑っていた。急に現実に呼び戻されたような気がして、アズマはふらつきながら立ち上がる。
「お前、いつから……。」
「竹本さんが慌てて美術室から逃げ出した辺りからかな。」
宇野はにやりと笑ってアズマへ寄って来た。宇野の言葉に、アズマは思い出して息を呑んだ。一刻も早く望の誤解を解かなくてはならない。宇野に目撃されたことも問題だが、口止めを命じたところで素直に従うはずもないだろう。動揺を見せれば余計に付け込まれる。ただ望の誤解だけは解きたかった。他の誰に誤解されようと、からかわれようと、望にだけは本当の気持ちを分かってもらわなくてはならない。
アズマは望を探そうと目の前の宇野を押しのけた。
「待てよ。もう少し話がしたい。」
宇野が美術室を駆け出そうとしたアズマの腕を掴む。
「離せ。俺はお前と話すことなんかない。」
アズマは振り返って宇野を睨み付けた。話をしたところで、宇野は、今、自分が見たものをネタにくだらない要求でも突き付けてくるに違いない。話をすれば余計に不利になることは明らかだった。
宇野はアズマの心中を察したかのように肩を竦めて笑みを見せ、アズマの肩に腕を回した。
「そんな怖い顔すんなよ。大月カグヤに思いを寄せる数多の男子生徒を差し置いて、熱いキッスを交わした感想くらい聞かせてくれたって良いんじゃないの?」
ふと唇に生々しい感触が甦って、アズマは再び身体が熱くなるのを感じた。脳裏には間近に迫ったカグヤの顔が浮かぶ。
「三回のキスの内どれが一番気持ち良かった?」
宇野が笑いながら尋ねる。気持ち良さなんて微塵も感じなかった。ただずっと気持ちが悪かった。アズマは再び甦った嫌悪感を鎮めようと、奥歯に力を入れ、拳を強く握り締める。
「大月カグヤの唇はどんな味がしたのかな?」
アズマが黙っていると、宇野は一方的に問い続けた。宇野はずっとどこからかアズマとカグヤの様子を眺めていたようだが、カグヤの吐き出す謎の言葉までは聞いていなかったのだろう。もしカグヤの言葉が聞こえていたなら、その異常性にこそ関心を示したに違いない。
カグヤの謎めいた話を聞けば、こんなくだらない質問を受ける必要もなくなるのだろうが、宇野に事の次第を説明してやるつもりはなかった。カグヤの話はアズマにとっても信じ難く、理解できなかった。宇野に話したところで相手にされはしないだろう。余計な話をして宇野に弱みを見せたくもない。
「竹本望しか眼中にないから何も感じなかったなんて言うなよ?」
宇野の口から出た言葉に、アズマははっとして顔を上げた。親友の雅臣ならともかく、宇野にまで望に対する気持ちを知られているなんて、驚きを通り越して怖くなる。
「けっこうお似合いだぜ、お前と大月。少なくとも、大月の方はお前にぞっこんのようだし、あんな美人を逃す手はない。いつまでも幼馴染みの腐れ縁に囚われてるなんてもったいないと思わないか?」
幼馴染みの腐れ縁――宇野の口から吐き出された言葉がアズマの気に障った。最初のきっかけは腐れ縁だったかもしれない。ただ、今、アズマが望に対して抱いている気持ちはもっとずっと大切なものだ。
「黙れ! お前には関係ない。」
アズマは叫ぶと同時に宇野の腕を振り払った。
「そんなに竹本望にご執心とはね。確かに竹本さんも可愛いけどねえ。」
宇野は意地悪く笑う。
「でも、お前は本当に竹本望が好きなのか? 女として。」
宇野は再びアズマの手首を掴んで囁くように尋ねた。最後に付け加えられた言葉がどきりとアズマの胸を打つ。
「まあ、お前はまだ経験値が低そうだしな。本当の恋愛が分からないのも無理ないか。」
宇野はけらけらと笑った。
「でも、俺個人としは大月とお前の方を応援したいね。その気になったらいつでも教えてやるよ、大月のような恋愛経験値の高い女の手懐け方をな。」
宇野は一方的に続けて笑う。アズマは視線を逸らしたまま宇野の腕を振り払い、無言で宇野に踵を返した。
「純情だねえ。でも、竹本さんはそんなお前の気持ちに応えてくれるのかな?」
美術室を飛び出ずアズマの背に、宇野が冷たく言葉を向ける。不穏な空気に追い立てられるように、アズマは薄暗い廊下を駆けた。