月影物語
第二章 絡みし糸 ―― (2)
硯から筆を上げ、真っ白な半紙の上へ移動させると、ぽとりと黒い滴が垂れた。少し墨を付け過ぎたらしい。あまりにも単純な過ちに思わず雅臣は舌打ちした。
「珍しいね。内賀君らしくない。」
隣から掛けられた声に振り向くと、陽子が笑っていた。陽子の目の前に置かれた半紙には女の子らしい柔らかな字が並んでいる。
「今日はちょっと調子が悪くて。」
雅臣は半紙を新しいものに変えながら笑い返した。陽子の言う通り、半紙に墨を落とすのも、その後の舌打ちも自分らしくない。明らかに集中力を欠いているし、焦っている。原因は問うまでもない。アズマから目を離すまいと決意した側から、移動教室でアズマと離れてしまった上、問題のカグヤがアズマと一緒にいる。まだ時間はあるはずだが、安心はできない。不安ばかりが膨れ上がり、雅臣は冷静に考えることができなかった。
「大月さんのことが気になるの?」
陽子の言葉に、雅臣は驚いて顔を上げた。
「内賀君、春宮君と大月さんが一緒にいるのを嫌がってるみたいだったから、もしかして内賀君は大月さんのこと好きなのかなって。今朝、望ちゃんとも話してたの。違ったかな?」
陽子が遠慮がちに話し、思いも掛けない解釈に雅臣は瞬きした。
「まさかそんな風に思われてるとは思わなかったなあ。」
自分がアズマに焼きもちを焼いているだなんて、女の子はどうにも恋の話が好きらしい。
「そっか、やっぱり違うよね。ごめんね、私の勝手な思い込みで……。」
慌てて陽子が言い、雅臣は笑みを見せた。
「良いよ、面白い話だったから。」
そう陽子に言い、雅臣は新しい半紙に文鎮を載せる。陽子の解釈は正しくないが、雅臣がアズマとカグヤの接触を好ましくないと思っていることは事実だった。アズマに直接釘を刺した他はできる限り内心を隠して来たつもりだったが、陽子はそれをたった一日で見抜いたらしい。陽子の気配り上手な性格はその観察眼と深い洞察力に支えられているのだろうと雅臣は改めて感心した。
あるいは、自分自身が予想以上に焦らされているのか……。先ほどの自分らしくない行動といい、知らず知らずの内に隙ができているのかもしれない。落ち着いて冷静に対抗策を練る必要があった。自分が慌てていては奴らの思うつぼになってしまう。
――奴らに渡すわけにはいかない、絶対に。
雅臣はゆっくりと息を吐き、新しい半紙に力強く一画目を引いた。
課題作品を仕上げて提出すると、雅臣は二時限目終了のチャイムが鳴る前に教室を出た。手早く片付けをして他の生徒よりも一足早く出て来たから、図書館や視聴覚教室の並ぶ五階の廊下は人気もなく静かだ。
まずはアズマと話がしたい。きちんと話して真剣に対策を練らなくてはならない。
決意を固めながら五階から二階へと下りた。二年三組の教室は四階だが、まだ二時限目終了のチャイムも鳴っていないから、アズマもまだ美術室にいるだろうと考えた。ざわつく教室よりも校舎の端にある美術室の方がじっくり話ができるだろう。そう考えながら美術室へ向かう廊下を曲がろうとした時、雅臣は突然飛び出してきた誰かとぶつかった。
「っと……。」
そのまま突き飛ばされそうになるのを何とかこらえて見下ろすと、ぶつかってきた相手は無言で顔を上げる。
「望ちゃん。」
雅臣は相手の名前を呟き、息を呑んだ。雅臣を見上げた顔は不安に溢れ、潤んだ瞳からは涙が零れている。
「ごめんなさいっ。」
雅臣が事情を尋ねるよりも早く、望は雅臣を押し退けて階段を駆け下りて行った。望の来た方向から察するに、美術室で何かあったのだろう。アズマとカグヤのことも気になるが、望を放っておくわけにもいかない。雅臣は素早く予定変更を決断すると、望を追って階段を駆け下りた。
望は一気に一階まで駆け下りて体育館へ続く渡り廊下へ出たらしい。雅臣は望を探しながらゆっくりと体育館裏へ回った。
「望ちゃん。」
体育館裏のアスファルトに、望は膝を抱えてしゃがみ込んでいた。微かに聞こえる嗚咽と共に肩が小刻みに上下する。
「望ちゃん? 何があったの?」
雅臣は望の隣にしゃがみ込み、できるだけ穏やかに問い掛けた。望は俯いたまま嗚咽を漏らす。
「アズマと何かあった?」
雅臣の問いに望の肩がピクリと動いた。
「わた……し、私……。」
嗚咽の合間に望が漏らす。雅臣は黙って望が続きを話すのを待った。しばらくして落ち着いた望が口を開く。
「アズマが大月さんと……してるの、見ちゃった。」
望は涙に濡れた顔を上げ、動揺を振り払うように勢い良く立ち上がった。無理矢理に作られた笑顔が痛々しい。残酷と知りつつも雅臣は望に尋ねないわけにはいかなかった。
「アズマと大月カグヤが何をしてたって?」
焦りから、自然と口調が厳しくなる。望が不安そうに視線を彷徨わせた。望自身がそれを口にしたくないという以上に、雅臣やアズマに対して気を遣っているようにも思える。陽子は勘違いの解釈を望と共有していたようだから、望も雅臣がカグヤを好きだと思い込んで気にしているのかもしれない。
「二人は何をしてたの? 言って。」
一呼吸置いて、雅臣はもう一度穏やかに望に尋ねた。
「キス……してた。」
望は躊躇いがちに視線を地面へ向けたまま呟く。
「あの、でも、あのね。アズマは雅臣君のことすごく大事に思ってるから、だからえっと……。」
やはり望は、雅臣がカグヤを好きだと思い込んでいるらしい。望自身も二人がキスをしているところを見てショックを受けているはずなのに、自分のことよりも雅臣とアズマの友情にひびが入るのではないかということを気にしているのだから、ずいぶんなお人好しだ。望の精一杯の強さと優しさが雅臣の焦る気持ちを緩める。
「望ちゃんは優しいね。」
雅臣は思わず手を伸ばして望の頭を撫でていた。望は顔を上げ、驚いた表情で雅臣を見る。
「大丈夫だよ。何だか陰山さんにも誤解されてたみたいだけど、僕は大月さんのことはなんとも思っていないし、アズマと大月さんのことでアズマを恨んだりもしないから。」
雅臣が微笑み掛けると、望は逆に不安そうな表情を見せて俯いた。雅臣がアズマとカグヤの仲に反対しないとなれば、望一人が苦しむことになる。
「心配してくれてありがとう。でも、僕は大丈夫だから、今、僕が望ちゃんの力になれることはあるかな? 僕で良かったら話を聞くよ。」
雅臣は望の頭を撫でながらゆっくりと言った。望はしばらく躊躇ってから口を開く。
「私、アズマのことが好きだった。ずっと好きだったの。」
望は俯きながら小さく漏らした。アスファルトにぽたりと雫が落ちる。ぎゅっと握られた拳は小刻みに震えていた。一つ安心を得たところで、自分自身に関わる不安を思い出したのだろう。
「うん、知ってる。望ちゃんは誰よりもアズマのこと見て来たもんね。アズマも分かってるよ。アズマも望ちゃんのことを大切に思ってる。大月さんとのことは、たぶんアズマの真意じゃない。後でちゃんと話を聞こう。」
望が再び声を上げて泣き始め、雅臣は泣きじゃくる望をそっと胸に抱き寄せた。
「僕は望ちゃんの味方だよ。大丈夫。アズマは絶対に君を裏切らない。」
しばらくの間、望を雅臣の胸で泣き続けた。
――この子は強い。でも、まだ目覚めてはいない。
望を抱きながら、雅臣は安心と不安が入り混じった気持ちを感じた。胸に感じる温かさに強く使命を意識する。既に影は動き出している。こちらも早く態勢を整えなくてはならない。奴らに全てを奪われる前に、もう二度と悲劇を繰り返さないために。雅臣自身の大切なものを守り抜かなくてはならない。
「雅臣……?」
ふっと聞こえた声に、雅臣は振り返った。アズマが呆然と立ち尽くしている。反射的に雅臣は望の身体を引き離した。
「そういうことか。」
アズマが引きつった笑みを見せて呟く。何をどう誤解されたのかは明らかだった。
「アズマ、違うんだ。僕は……。」
「何が違うんだよ、見たまんまじゃないか。」
アズマが笑う。望がアズマとカグヤの関係に動揺し、今度はアズマが雅臣と望の関係に動揺している。どちらも誤解が発生しているのは明白だが、まさか自分が誤解の原因を作り出すことになるとは雅臣は思っていなかった。魂が目覚めていれば生じることのない誤解だが、状況を甘く見ていたのは失態を通り越して致命的だ。
「アズマ、あのね……。」
「勝手にしろよ。俺には関係ないことだから。」
アズマは望の言葉を遮り、体育館の陰に姿を駆け出した。望がその場に崩れ落ち、身体を震わせてしゃがみ込む。確実に状況は悪化していた。
「ごめん。アズマには僕がちゃんと話すから。」
雅臣は一瞬躊躇った後、望を残してアズマを追った。渡り廊下まで来ると、アズマが拳を握り締めて立っている。背を向けたままではあるが、そこで立ち止まったということは、雅臣が追いかけて来るのを知って話をしようとアズマも考えていたからだろう。
きちんと話せば誤解は解ける。そう考えて、雅臣は一息吐いてからゆっくりと口を開いた。
「アズマ……僕は望ちゃんとは何もないよ。ただ望ちゃん、アズマと大月さんが一緒にいるところを見てずいぶん動揺しているみたいだったから、少し話を聞いてたんだ。望ちゃんが好きなのはアズマだし、早く望ちゃんにアズマの気持ちを伝えてあげた方が良いと思う。アズマの気持ちが分かったら、望ちゃんもきっと安心する……。」
「そんなに望のことが心配かよ。」
滑り良く口をついた言葉は低く抑えた声で遮られた。アズマがゆっくりと振り返る。
「そりゃあ、僕にとっても望ちゃんは幼馴染みだし、アズマは親友なんだ。あんなに動揺している望ちゃん、放っておけないよ。」
雅臣が答えると、アズマは不満そうな表情のまま俯いた。じっと地面を睨み付け、何か考え込んでいるらしい。
「アズマ?」
「だったら……そんなに言うなら、お前が望を慰めてやれば良いじゃないか! お前ら二人が付き合えば良いんだ。きっとお似合いだよ。優等生のお前なら、俺みたいに望を不安にさせることだってないだろうからな!」
顔を上げたアズマは雅臣に向かって一気に叫ぶと校舎の中へ掛けて行った。
「アズマ!」
雅臣は慌ててアズマを追いかけようとしたが、急に誰かに手首を掴まれて立ち止まる。驚いて振り返ると、宇野が笑みを浮かべて立っていた。
「宇野……どうしてお前が。」
宇野は雅臣の問いには答えず、雅臣の手を掴んだままゆっくりと雅臣の正面へ回り込む。
「失策だったな、内大臣。いや、それともここは東宮傅と呼ぼうか?」
先を塞ぐように雅臣の前に立つと、宇野は雅臣に顔を近付けて囁くように言って笑った。
「そうか。やはりお前だったのか、右大臣。」
雅臣は宇野の手を振り払い、苦々しく唇を噛む。
「久しぶりの再会だろう? もう少し喜んでくれたって良いと思うんだがね。」
宇野の口調が僅かに変わった。
「私は再会したくありませんでしたから。」
答えながら、雅臣は顔を背ける。丁寧に変わった口調は決して敬意の表明ではなかった。心理的な距離を取り、相手に付け込まれないための防衛策だ。冷静に、相手に主導権を渡すわけにはいかない。
「ずいぶん嫌われたものだな、私も。」
宇野は視線を横へ向けながら笑う。視線を逸らしても視界の端にはしっかりと雅臣の姿を捉えていて、警戒を解いてはいない。ぴりぴりとした緊張感があった。
「あなたの行為は殿下に対する裏切り行為。私がそれを許すとでも?」
「内大臣のお前が陛下を裏切っても東宮に付くとはね。だが、報われんな。愛しの殿下も月の力も、いずれ我々のものになる。楽しみに待っているがいい、我々の繁栄をな!」
宇野は高らかに笑った。
「殿下はあなた方の言うなりにはなりませんよ。」
雅臣は宇野を睨み付けながら言った。
「それはどうかな? お前は奴の何も分かっちゃいない。優等生のお前には劣等感に苛まれながら辛苦を舐めてきた奴の気持ちなんて分からないだろう。せいぜい無駄に足掻くが良い。力は我々のものだ。」
宇野は不敵な笑みを見せると、捨て台詞を残して校舎の奥へ消えた。
「殿下は強い人です。」
雅臣は自らに言い聞かせるように呟き、拳を握る。今は信じて待つしかなかった。二人の魂が目覚めるまで、雅臣にできるのはただ守ることだけだ。二時限目の終了を告げるチャイムがやっと鳴り始めた。