月影物語
第三章 古の契り ―― (1)
昼休み終了のチャイムが鳴るまで、アズマは階段に腰を下ろして宇野と雑談に興じていた。いつの間にか話題は漫画やゲームへと移り、ずっと苦手に感じていた宇野と意外にも趣味が合うことに気付く。アズマは心地好い気分で宇野と肩を組んで教室へ戻った。
教室へ入り、真っ先に雅臣の姿が目に映る。雅臣は席に座ったままクラスメートの男子生徒と楽しそうに話していた。
「ありがとな、ノート。五限の内に写して返すから。」
雅臣と話していた男子生徒は手にしたノートを掲げて自分の席へと戻って行く。同時に、五時限目を担当する国語教師が教室へ入ってきて、教室内はざわついた。
「何してるんだ? お前らも席に着け。」
ほとんどの生徒が席に着いても入り口に突っ立ったままのアズマと宇野を認めて、国語教師が声を掛ける。同時に、雅臣が振り返った。アズマは雅臣の視線から逃れるように、我に返って席に着く。
「また、後でな。」
宇野は笑顔でアズマの肩を叩き、自分の席へ戻って行った。
国語教師が説教染みた前振りを語り出して授業が始まる。アズマは机の中から教科書を取り出しつつ、ふいに湧いた負の感情の原因を辿っていた。
雅臣が不安そうに向ける視線が怖くて教室から逃げ出したのに、自分のいないところで雅臣が笑っていることを不快に思う。雅臣が貸したノートはたぶん六時限目の数学のものだろう。問題集を解く宿題を忘れたクラスメートが優等生の雅臣の解答を写して手早く仕上げようと考えたに違いない。
他人のノートを写して宿題を仕上げることを一々咎めるつもりはない。ただ、アズマが気に食わなかったのは雅臣がクラスメートにノートを貸したということだ。
夏休みが終わる三日前、約一ヶ月ぶりに夏休みの宿題の存在を思い出したアズマは頭痛に襲われながら雅臣に相談を持ち掛けていた。今、国語の教科書の陰でせっせとノートに何かを書き込んでいるクラスメートと同様、アズマも七月中に宿題を仕上げていた雅臣のノートを写させてほしいと頼んだのだ。半ば冗談ではあったけれど、雅臣はアズマの請願に即答した。
「駄目だよ。宿題は自分でやらなくちゃ。ちゃんと考えて解かなきゃいつまで経っても力が付かないよ? 今からやって間に合うか分からないけど、一刻も早く取り掛かることだね。」
そう言って雅臣はアズマからの電話を一方的に切ったのだ。雅臣の言うことは尤もだったから、その後アズマは必死で問題集を解いた。翌日、訪ねて来た雅臣は答えをそのまま写すことは許してくれなかったが、解き方を教えてくれ、何とかアズマは宿題を仕上げることができた。そのことについてアズマは雅臣に感謝している。しかし、雅臣はアズマには写させなかったノートを他のクラスメートには写させてた。それも、先ほどの二人のやり取りを見る限り、とても快く。
――なんで俺は駄目であいつは良いんだよ。
心の中で呟くと同時に、アズマは手にしていたシャープペンを握り締めた。自らの呟きに対する答えがアズマの意思に反して脳裏に浮かぶ。
もしかしたら雅臣はアズマが宿題を仕上げられなければ良いと思っていたのではないか――。
幼い頃からずっと、雅臣は優等生だった。幼馴染みとして常に側にいたアズマは必然的に劣等生になる。アズマとて特別に出来が悪かったわけではない。学校の成績なら普通よりは良く出来る方だったが、母からは口癖のように言われ続けた。
「あなたももっと雅臣君を見習って……。」
少し良い成績を取れば「雅臣君が教えてくれたおかげね。」だ。母だけではない。望からも同じようなことを言われた記憶がある。
雅臣が優秀なことは事実だし、それが雅臣自身の努力に支えられていることも知っていたから、雅臣のことは尊敬していた。比較されることも仕方がないと思っていたし、雅臣と比べて自分が劣っていることは分かっていた。雅臣を超えたければそれなりの努力しなければならないということも……。
本気で雅臣に勝とうと試みたこともある。試験前の一週間、ゲームもテレビも漫画もやめて、精一杯に勉強した。苦手な英語で九十五点という自己ベストを記録して喜んだのも束の間、雅臣は百点満点で学年トップ。不可能を悟るにはそれで十分だった。
全力を出し切って勝てないのなら、八割の力しか出さずに負ける方が良い。ゲームもテレビも漫画も十分に楽しめば良い。雅臣を見習えという母だって、アズマが雅臣を越えることを期待してはいないのだ。
「雅臣君と比べて……。」
そう小言を言われ続けるポジションで何も不自由はなかった。望にせっつかれながら登校して、「しょうがないなあ、アズマは。」と呆れたため息を漏らされる。それが自分の役割なのだと思っていた。そう思って納得するしかなった。
でも、もし、もしもそれが押し付けられた役割だったとしたら……?
――自分は雅臣の引き立て役として利用されている。
自ら導き出した結論にアズマは震えた。
アズマと雅臣の隣にあって、望は二人を比較しながら見ていただろう。優等生の雅臣君と劣等生のアズマ、そう望は記憶しているに違いない。ずっとそれで良いと思っていた。しかし、もし雅臣が望を好きだとしたら話は少し変わってくる。
――人の好さそうな顔して虎視眈々と機会を窺ってる。そういう奴だよ、内賀雅臣は。
宇野の言葉がふと脳裏に甦る。
雅臣は頭が良い。それは疑いようのない事実だ。だから、もし雅臣が望を好きなら、どうすれば良いかはすぐに考え付くに違いない。そして優柔不断のアズマと違い、雅臣ならするべきことが分かれば素早く決断して実行に移すこともできるだろう。便利な引き立て役が側にいることにさえ気が付けば……。
あまりにも捻くれた発想だとアズマは思う。醜い劣等感を剥き出しにしている自分に心底辟易したけれど、一度心に浮かんだ考えは容易には消え去らなかった。
「春宮君。」
ふっと耳元に響いた声に、アズマは隣へ顔を向ける。カグヤが前を示すように首を動かし、アズマを正面を見た。
「春宮、次、読んでみろ。」
教壇に立つ国語教師がアズマを睨み付けている。慌てて教科書を捲るが、すっかり自意識に埋没していたから「次」がどこだか分からない。
「ここ、ここ。」
隣でカグヤが教科書を開き、段落の頭を指差していた。慌てて同じページを開き、読み始める。ある程度読み進めたところで、国語教師は他の生徒を指名した。
「ありがと。」
声には出さず、カグヤに向いて口だけを動かす。カグヤは微かに頭を下げて微笑み、アズマも笑顔を返した。不思議な安堵感を感じ、アズマは束の間の平穏を取り戻す。
考えなければ良い。雅臣のことも望のことも。宇野の言う通り、自分が好きなのはカグヤだと思えば醜い劣等感や嫉妬心に悩まされることはない。
――大月カグヤが好きだ。
教科書に目を落として俯きがちなカグヤの横顔を眺めながら、アズマはそう自分に言い聞かせた。とくんと心臓が打ち、心は優しく温かい。カグヤは文句なしに可愛くて、これが恋なのかもしれないと思うと心地好かった。
四時限目が終わり、アズマは素早く席を立つ。雅臣に話し掛けられることを避けるため、雅臣のことを考えることやめるため、自分の中の劣等感と嫉妬心を消し去るために、今は雅臣とも望とも距離を置く必要があった。
「さっきの話の続きだけどさ……。」
アズマが雅臣の代わりに話し相手として宇野を選んだ。以前感じていた宇野に対する苦手意識は昼休みの内に吹き飛んでいたから、今のアズマにとって最も信頼できる人間は宇野だ。雅臣や望のこと、カグヤのことを相談できるのも宇野だけだが、それ以外にも趣味の一致を発見して、アズマは急に宇野に対して親近感を抱くようになった。少なくとも今に限っては、雅臣よりも信頼できるし、一緒にいて居心地が良い。
六時限目が始まるまで、宇野と話しながら雅臣を視界の端に捕らえると、雅臣は先ほどノートを借りていたクラスメートと楽しそうに話していた。アズマが徹底的に雅臣を避けたから、これ以上接触を図ろうとしても無駄だと悟ったのかもしれない。
自ら雅臣を避けておいて、雅臣が自分から離れていくことを不満に思うのはなぜだろう。再び自意識に沈み始めた自分をアズマは慌てて引き上げた。今は何も考えない。それがアズマの出した答えだった。
六時限目終了後、アズマは昨日に続いて再び「一緒に帰ろう。」と声を掛けて来たカグヤと共に家路に着く。宇野にも声を掛けたが、部活があるからと断られた。
「遠慮せずに二人仲良くラブラブで帰ってください。」
宇野は去り際にそう言い残し、アズマは思わず赤面する。それでも、そう言われたことをどこかで嬉しく思うのは本気でカグヤを好きになったからなのかもしれない。
昨日は雅臣や望、陽子も一緒だったが、今日は雅臣も望も一緒に帰ろうと声を掛けては来なかった。
「雅臣君、一緒に帰ろう。」
アズマがカグヤと共に教室を出ようとした時、望は明るい声で雅臣にそう声を掛けていた。
「望ちゃん、春宮君は?」
不自然さを感じたのか、陽子が望に尋ねる声も聞こえたが、アズマは望の答えを聞くことなく教室を離れる。望の答えを聞くのが怖かった。望が自分ではなく雅臣を選ぶという事実が、内心認めてはいても、目の前に突きつけられることにはまだ耐えられそうにない。
「それでね……。」
カグヤと並んで帰りながら、アズマはカグヤに京都の学校について尋ねていた。当たり障りのなく話題にできそうなものが他になかったからだが、楽しそうに話すカグヤを見ているだけでアズマは十分幸せだった。身体がほんの少し触れるだけで心臓は高鳴り、カグヤの笑顔に全身が熱くなる。望と一緒にいる時とは違う感覚で、これこそが恋なのだとアズマは改めて確信した。
「ねえ、春宮君は運命を信じる?」
アズマがぼんやりとカグヤを見つめていると、突然カグヤがアズマの顔を覗き込む。
「え?」
「私は信じてる。春宮君は私の運命の人よ。」
そう言って笑ったカグヤは素早くアズマに口付けし、青信号が点滅し始めると同時に横断歩道を駆けて行った。鼓動は急激に速くなり、息苦しささえ覚える。アズマは駆けて行くカグヤの背中を見つめながら美術室の時と同じだと思った。ただ一つだけ違ったのは、それが決して不快ではなかったということだ。
――慣れだよ、慣れ。慣れればああいう感覚が気持ち良くなるんだ。
全てが宇野の言う通りに進んでいる。
「これで良いんだ。」
呟きながら、アズマは胸を押さえた。こんなにも胸が苦しいのはきっと恋をしているからだ。
翌朝、アズマはいつも以上に慌しい朝を迎えていた。というのも、いつも迎えに来るはずの望がいつまで経ってもやって来なかったからだ。早く起きろと口うるさい母も望が来ることを時計代わりにしていたらしく、テレビのワイドショーに夢中ですっかり時間を忘れていたらしい。
「ついに望ちゃんにも愛想尽かされちゃったんじゃないの?」
何も知らない母の一言に深い意味があるはずもないが、出掛け際の一言はアズマにとって最も聞きたくない言葉の一つだった。アズマは「いってきます。」も言わずに玄関を飛び出し、思い切り扉を閉める。この苛立ちは寝坊をして遅刻しそうだと慌てているからだと言い訳をしながら、ふと何気なしに外廊下の手摺から顔を覗かせて下を見下ろし、アズマは息を呑んだ。
マンションの入り口で、望と雅臣が話していた。何を話しているのか声までは聞こえないが、望が雅臣に向かって笑顔を見せる。同時に、望が雅臣の腕を取って歩き出した。雅臣は驚いた表情を見せて二、三歩よろけたが、すぐに望と並んで歩き出す。アズマはじっと二人を目で追い掛け、ふいに雅臣が振り向きそうになったことに気付いて慌ててその場にしゃがみ込んで隠れた。
「ほら、やっぱりこうなるんじゃないか……。」
頬を伝う生温かい液体を拭いながら、アズマはゆっくりと立ち上がる。カグヤが好きだ。だから雅臣と望がどうなろうと自分には関係ない。早く学校へ行ってカグヤに会えば、こんなもやもやした気持ちはすぐに消えてなくなるだろう。
――春宮君は私の運命の人よ。
カグヤの笑顔を瞼の裏に思い描きながら、アズマはゆっくりと歩き出した。もう少し時間を置けば、平気な顔してダブルデートだってできるだろう。今はただ、時間が欲しい。
それからおそよ二週間、アズマは雅臣とも望とも口を利かなかった。代わりにアズマは宇野やカグヤと行動を共にすることが多くなり、一方で、雅臣と望が親密そうに二人で話し込んでいる場面を目撃することもあった。
そんな不自然な状況を当たり前のように感じるようになった頃、変化は起きた。カグヤと共に下校していつも通りに交差点で別れた直後、アズマは雅臣に呼び止められた。
「アズマ。」
雅臣から声を掛けられること自体久しぶりで、雅臣を避けるということをすっかり忘れていたアズマは反射的に振り返っていた。振り返って後悔したが、雅臣はアズマの反応を待つことなく話し始める。
「今夜八時、いつもの公園に来い。」
雅臣の表情は硬く、雅臣らしくない命令口調だった。
「いきなり何だよ?」
アズマが顔を顰めると、雅臣は乱暴にアズマのネクタイを掴んで引き寄せる。
「八時に公園だ。絶対に来いよ、いいな?」
低く抑えた声には怒気が含まれていた。カグヤが転校して来たその日にも似たような状況になったが、雅臣の声はその時以上に力強い。アズマは返す言葉もなく、一方的に要件を告げた雅臣がその場を立ち去ってもしばらく、その場を動くことができなかった。
呼び出されたのだから、何か話があるのは確かだろう。まさか殴り合いの取っ組み合いをするために呼び出されたとは思えない。雅臣は肉弾戦よりも頭脳戦を好むタイプだ。喧嘩騒ぎで優等生の経歴に傷を付けたくもないだろう。望との恋人宣言でもするつもりなのかもしれない。
雅臣と望のことを考えるとまだ少し嫌な気持ちになったけれど、カグヤや宇野と付き合うなかでだいぶ気持ちは落ち着いてきた。恋人宣言でも婚約発表でも何でもすればいい。その方が自分もきっとすっきりする。
そう考えて、アズマは夕食を済ますと家を出た。呼び出し先の公園はアズマが幼稚園に入る前から雅臣とよく遊んでいた場所だ。小学校の頃は木陰に秘密基地を作り、中学、高校と学年が上がってからも日が沈むまでくだらない話をしたり真剣に語り合ったりする場所だった。この一週間は立ち寄ることもない場所だったけれど……。
アズマが公園に着くと、雅臣はこちらに背を向けてベンチに腰掛けていた。
「何の用だよ。」
ぶっきらぼうにアズマが声を掛けると、雅臣がゆっくりとベンチから腰を上げた。
「僕とアズマと、それから望ちゃんについて話がしたい。」
ゆっくりと振り返った雅臣は真っ直ぐにアズマを見つめる。突き刺すような視線にアズマは圧迫感を抱き、ごくりと唾を飲んだ。