ここち

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月影物語

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第三章 古の契り ―― (2)

 「お前と俺と望の話? お前と望が付き合うことになりましたって報告かよ?」
 アズマは笑いながら雅臣に返す。緊迫した空気に息が詰まりそうだった。
「違う。それは有り得ない。」
 雅臣ははっきりと言い切った。アズマを見つめる視線は微動だにせず、アズマは耐え切れずに視線を逸らす。
「有り得ないって何だよ。俺に遠慮してるとか?」
 口端を上げて笑おうと努めたものの、絞り出した声は震えていた。雅臣が望と付き合うという事実は決して愉快ではなかったけれど、雅臣が自分に遠慮して望のことは何とも思っていないと言い張るなら、それは一番の屈辱だ。もしも望が雅臣のことを想っているなら、その気持ちを邪魔することだけはしたくなかった。望が笑っていればいい。たとえその笑顔が自分に向けられるものではないとしても、アズマにはそれで十分だった。望がいつも笑っていられるように……それが幼馴染みとしての自分の役目だとずっと思っていた。
「望ちゃんを幸せにできるのはアズマだけだよ。」
 雅臣の口調は淡々と変わらない。雅臣の言葉はあまりにもアズマの実感とかけ離れていた。望を泣かせたのは自分で、この一週間、一言の言葉さえ掛けず、仲直りのきっかけを探そうとしている雅臣さえ無視していた自分のどこに望を幸せにする資質があると言うのだろう。迷惑ばかり掛けて、傷付けて、自分で自分に嫌気が差しているというのに、他人を幸せにすることなんかできるはずもない。
 アズマがじっと俯いたまま黙っていると、雅臣がため息混じりに口を開いた。
「アズマは前世や運命なんて話は嫌いかもしれないね。」
 突然、話題が変わったことに驚いて、アズマは顔を上げる。
「僕も君が自然と目覚めるのを待つつもりだった。でも、もう時間がない。君は一刻も早く真実を知る必要がある。悲劇を繰り返さないために。」
 雅臣は真っ直ぐアズマを見つめていた。今度は視線を逸らすことができなくて、アズマはただ問い返す。
「どういう意味だ……?」
「すぐには信じられないかもしれない。でも、きちんと聞いて欲しい。」
 雅臣はアズマの問い掛けには答えず、念を押すように間を置いて、それから再びゆっくりと口を開いた。
「望ちゃんはかぐや姫の生まれ変わりだ。」
 雅臣の口から出た予想外の言葉にアズマは息を呑んだ。
 ――かぐや姫の生まれ変わり。
 この言葉は、確か前にもカグヤの口から聞いたことがある。しかしその時「かぐや姫の生まれ変わり」と言われたのは望ではなくカグヤだった。いずれにしてもふざけた話だが、カグヤもあれ以来、「運命の人」と言う他にはおかしな御伽噺をすることはなかったから、忘れていた。いや、忘れようとしていたのだ。雅臣や望とのことで混乱していた上に、馬鹿げたお芝居にまで付き合いたくはなかった。それに、美術室でカグヤに対して覚えたあの恐怖は、やはり恐怖であったように思えて、思い出すことが怖かった。
 嫌な予感がする。あの時の恐怖が甦ると同時に、不安が脳裏を駆け巡った。雅臣はこんなふざけた冗談は言わない。これが冗談でないとすれば何なのか。事実としてはあまりにも受け入れがたい話だが、アズマは何か得体の知れない物に自分が巻き込まれてしまったように感じた。風が吹き、草むらから聞こえていた虫の声がぴたりと止まる。東の空に昇る月は明るく辺りを照らしていたが、空気は重く、不気味だった。
「そしてアズマ、君は唯一かぐや姫と契りを交わした人間なんだよ。かつて平安京に生きた魂が再び現世で出会い、結ばれる。これは必然だ。僕の役割はその必然が邪魔されることのないよう二人を守ること。僕と望ちゃんが付き合うなんて有り得ない。もう一度言うよ? 望ちゃんを幸せに出来るのはアズマだけだ。」
 何がなんだかさっぱり分からなかった。なぜカグヤと雅臣が似たような、しかし明らかに異なる御伽噺を語るのだろう。かぐや姫の生まれ変わりとかぐや姫と愛し合った男の生まれ変わり――それに一体どんな意味があるのだろう。
「大月も似たような話をしてたよ。」
 アズマの言葉に、雅臣は一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに落ち着いた様子で視線を落とした。
「そう。」
「大月は自分がかぐや姫の生まれ変わりだって言ってた。俺は大月の運命の人だって。」
 不気味な空気に飲み込まれないように、アズマは一言一言をしっかりと雅臣へ向けて紡ぐ。
「それで、アズマは彼女の話を信じたの?」
 言葉と共に向けられた雅臣の視線はあまりにも冷たかった。ぞくりと悪寒を感じ、アズマは一度言葉を飲み込む。
「信じてない。お前の話だって、かぐや姫の生まれ変わりだとかそんなのふざけてる。御伽噺じゃないか。」
 アズマがやっとの思いで声を上げた。
「そう言うだろうと思ってたよ。」
 そう言って雅臣は微笑み、アズマが予想外の反応に驚くと、すぐに真剣な表情を見せた。
「でも、これは御伽噺じゃない。信じられないかもしれないけど、現実だ。尤も、大月カグヤが君にした話は正しくない。順を追って話そうか。ずっと昔、平安京で何が起きたのか、そして今、何が起きているのかをね。」
 雅臣は柔らかく微笑む。その微笑はあまりにも自然で、嘘を言っているとは思えなかった。一瞬感じた柔らかな空気に懐かしさを覚えながらも、アズマは得体の知れない不安に焦っていた。
「少し長い話になる。座らないか?」
 雅臣はそう言ってベンチに腰を下ろす。ベンチの右半分はアズマのために空けられたのだろうが、アズマは黙ったままその場に立っていた。腰を下ろしてしまったら、不気味な御伽噺の世界から二度と抜け出せなくなるような気がする。
 雅臣は振り返って立ったままのアズマに困ったような微笑を向けると、諦めたようにため息を吐いた。膝の上で両手を組み合わせ、アズマに背を向けたままゆっくりと言葉を紡ぎ始める。長い長い御伽噺の始まりだった。


 平安京は内裏の東――東宮御所の一室で、元服したばかりの皇太子が二人の東宮学士から儒学の講義を受けていた。そこへ衣摺りの音を響かせながら、一人の男が現れる。
「進んでおられますか。」
 男は柔和な笑みを浮かべて皇太子に問い掛けた。
「ああ、ちょうど良いところに。こんなに天気の好い日に本ばかり読んでいるなんてもったいないと思っていたところなんだ。内大臣もそう思うだろう?」
 皇太子――東宮はぱたりと書物を閉じ、文台に身体を預けながら東宮傅を務める内大臣へ声を掛ける。嬉しそうな声を上げる東宮とは対照的に、内大臣は顔を顰めながら口を開いた。
「お言葉ですが、殿下。昨日も同じことを申されて講義を中断なさいました。あまりわがままを申されるから、なかなか講義が進まないと学士が嘆いておりますよ。」
 内大臣はため息混じりに言って腰を下ろす。東宮は不満そうな顔を見せ、その背後で微苦笑を浮かべている学士を振り返った。
「漢文は好きではないのだ。意味が分からぬ。」
 東宮は書物のページを捲りながらため息を漏らす。
「だからこそ学んでいらっしゃるのでございましょう。」
 内大臣の言葉に、東宮が不満そうに内大臣を睨み返した。
「もうすぐ紅葉の季節でございますね。」
 内大臣は学士と顔を見合わせた後、仕方なく、東宮の関心を引きそうな話題を口にする。しかし東宮は機嫌を損ねたままで、短い返事を返しながら手持ち無沙汰に書物を捲り続けた。漢書を読み続けることに本当に飽き飽きしているらしい。わがままな東宮も決して出来が悪いわけではなく、歌を詠ませればその教養の程は存分に知れるのだが、どうにも漢書には興味がないらしく、東宮傳を任された内大臣としても頭の痛いところだった。
「十日もすれば小倉の紅葉が見頃だそうです。お出掛けになられますか。」
 内大臣の言葉に東宮がぴくりと身体を動かした。
「紅葉狩りは好きだ!」
 東宮は勢いよく書物を閉じると、嬉しそうな顔を見せて声を上げる。
「その代わり、それまでの十日間はしっかり学士の言うことを聞いて勉学に励まれてください。」
 今にも部屋を飛び出して行かんばかりの東宮を諌めるように、内大臣は静かに、しかしはっきりと付け足した。提示された条件に、東宮が不満そうに顔を顰める。喜びに水を差された気分なのだろう。
「十日の内に学士が定めた量を読みこなせなければ、小倉へお連れするわけには行きません。私も東宮傳として陛下に申し訳が立たなくなります。紅葉狩りに出掛けたければしっかり学んでください。分かりましたね。」
 内大臣は有無を言わせずそう東宮に告げると立ち上がり、二人の学士に会釈を返してその場を離れた。東宮が文句を言いながらも二人の学士に甲高い声で十日で読まなければならない量はどれくらいかと尋ねる声が聞こえて来る。根は真面目だから、一度その気になればしっかりこなすはずだ。
「全く、世話の掛かる……。」
 内大臣は嬉しそうに微笑んだ。
 内大臣の予想通り、それから内大臣が東宮を訪ねるたびに東宮は二人の学士と共にせっせと漢書を読んでいた。慣れてくれば進度は次第に速くなる。
「漢文も少し面白くなってきたところだ。」
 そう言って屈託なく微笑む東宮に、内大臣は亡き姉の影を見た。都中に噂されるほどの美貌を持ち、高い知性と教養を持った姉は内大臣の自慢だった。尤も、姉弟であっても、女性が男性に顔を見せることはなく、成人してからは几帳を挟んで話をするだけだったが、姉と同じ温かな雰囲気を持つ東宮の容貌を見れば、その母たる姉の美しさは疑いようがない。
 その美貌と知性から、入内した姉は帝に寵愛され、その命と引き換えに東宮を産んだ。内大臣にとって東宮は甥に当たり、東宮からすれば内大臣は叔父になる。内大臣、そして東宮傅という地位を与えられたのは、自身の漢書に関する知識が高く評価されたのはもちろんだが、帝の寵愛した女の弟だったことも少なからず有利に働いたに違いない。決して高い地位を望んではいたわけではなかったが、内大臣として、また東宮傅として敬愛する姉の側に、またその姉の忘れ形見である東宮の側にいられることは幸せだった。
 約束を交わして八日目、内大臣が東宮を訪ねると、東宮は内大臣の姿を認めるなり飛び上がるように立ち上がった。
「言われた分は終わったぞ! 小倉山へ行こう!」
 内大臣は耳をつんざくような声に驚き、ふらつきながら腰を落とす。
「本当に終わられたのですか?」
 着物の裾を直しながら、内大臣は文台の上の書物へ目をやった。
「ここからここまで、ちゃんと読んだ!」
 東宮は文台の前へ座り、書物の数ページを指に挟んで示す。ずいぶんと薄っぺらいのが気になって、内大臣は学士を見遣る。学士は困ったような笑みを返し、内大臣はため息を吐いた。きっと東宮が説得したのだろう。学士は十日分の読書量をだいぶ少なく見積もったらしい。
「十日でこれだけですか。」
 内大臣は呆れながら書物を捲る。
「ちょうど難しいところだったんだ。なあ?」
 東宮は内大臣の手から書物を奪い返し、学士へ同意を求めた。学士二人は困ったような笑みを返す。全くもって二人共東宮に甘い。一つ苦言を呈してやらなければと思いつつ、内大臣は自身の甘さを思い出す。
「ちゃんと言われた分は読んだんだ。小倉山へ行こう!」
 東宮は内大臣の着物の袖を掴みながらしつこく迫った。学士が定めた量と言ったのは自分であるし、約束が果たされたことに違いはない。ここで駄目だと言う理由はなかった。
「仕方ありませんね。」
 内大臣がため息混じりに返すと、東宮は満面の笑みを浮かべる。
「陛下にもお話して出発の日を決めましょう。出発までにその書物を読み終えてください。ちょうど紅葉も見頃になるでしょうから。」
 内大臣がそう言いながら立ち上がると、東宮は不満げに内大臣を見上げた。
「私は同じものを五日で読み終えましたよ、殿下。」
 そう笑顔で言い残し、内大臣は東宮へ背を向ける。東宮は何も言わなかったが、子供らしい負けず嫌いの精神を発揮して、明日にも「読み終えた!」と自慢げに語るだろう。それまでに、内大臣はご褒美の小倉行きの手はずを整えなくてはならない。
「姉上も紅葉がお好きだったな。」
 庭の片隅に色づき始めた葉を見つけ、内大臣は足を止めた。東宮の成長に合わせて、昔を懐かしむ思いが強くなる。この間、東宮元服にあたって加冠した際も感慨深くあった。最近妙に懐古的になるのは年を取ったせいかもしれない。
「まだまだ隠居するわけにはいかないよ。」
 内大臣はそう独りごちながら東宮御所を後にした。

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