ここち

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月影物語

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第三章 古の契り ―― (3)

 日もとっぷりと暮れて月明かりが夜道を照らす頃、小倉山での紅葉狩りを堪能した東宮一行は京への帰路を辿っていた。
「こんなにも遅くなるとは思いませんでしたよ。」
 内大臣がため息混じりに漏らす。行啓の予定が遅れてたのは、決して内大臣の計画に誤りがあったからではない。京の外へ出ることに浮かれた東宮が度々馬を止めて寄り道をしたせいだ。日暮れまで紅葉を楽しみ、同行した内大臣はとばっちりを食らったのである。京へ戻ってからも陛下のお叱りを受けることは間違いないと思うと頭が痛い。
「良いではないか。物の怪でも出てきそうだ。」
「ご冗談はよしてください。」
 東宮の言葉に、内大臣はぶるりと身体を震わせた。ふと牛車が止まり、涼やかに川の流れる音がする。
「この川は何て言うのかな?」
 東宮は牛車の窓を開けて外を覗きながら呟いた。川面に満月が映っている。
「大堰川でしょう。」
 内大臣が答えた。
「ここで休憩するのだな。良いところだ。」
 そう呟くなり、東宮は牛車の外へ飛び出す。小倉山を離れてからこれでもう三度目だ。窓の外に面白そうな物を見つけては、東宮は牛車を止めて寄り道をする。御者には東宮が「止めろ」と言っても決して牛車を止めないよう念を押したはずだが、今、牛車を止めたのは急に用でも足したくなったのだろうか。
 内大臣は頭を抱えつつ、牛車を降りた。東宮が危なっかしい足取りで川原へ下りてゆく。
「危ないですよ。」
 内大臣は御者にしばらくここで待つよう声を掛け、東宮の後を追い掛けた。好奇心旺盛なのは良いが、危なっかしくて仕方ない。
「あれは何だろう?」
 東宮がひょこひょこと跳ねながら流れの側の柳の木へと近付いた。
「綺麗な衣だ。初めて見る。」
 東宮は柳の枝を見上げながらぼんやりと呟く。内大臣も側へ寄って見、息を飲んだ。透けるような薄布は月明かりの下で七色に輝いている。
「誰のだろう?」
 東宮は首を傾げ、それからゆっくりと辺りを見回した。こんな時間だ、辺りに人影はない。
 ――ぴしゃん。
 水の跳ねる音を聞いて、東宮と内大臣は視線を川へと向けた。川の真ん中に何かが――いや、誰かがいる。東宮はゆっくりと川へ近付き、内大臣もその後を追う。ふいに東宮がぴたりと足を止め、その後ろで内大臣も立ち止まった。
 川の真ん中で白い肌を輝かせ、一人の女が振り返る。夜、月明かりのみの薄闇の中で、女の周りは神々しいほどに輝いていた。
「これは……失礼を。」
 内大臣は慌てて視線を逸らし、東宮も照れたように振り向く。
「こんな夜中に水浴びですか。」
 背を向けたまま、東宮は女に問い掛けた。水を掻き分ける音が次第に近付き、女の凛とした声が響く。
「私の衣を取って頂けますか。」
 柔らかな声に、東宮は月明かりの下でもはっきりと分かるほど頬を赤く染めた。内大臣に対応を尋ねるように視線を向ける。
「きっとあれのことでしょう。」
 内大臣が柳に掛かった衣を指差してやると、東宮はうんうんと頷き、小走りに柳の本へ駆けて行った。枝に掛かった衣を手に取り、こちらへ戻ろうと振り返った東宮はそのまま一回転する。目のやり場に困った様子で、東宮は後ろ向きになって一歩一歩ゆっくりと歩いて来た。その様子があまりにもおかしくて内大臣が思わず笑みを零すと、後ろで女の笑う声も聞こえた。
「これで良いのだな?」
 東宮はやっとのことで元の場所へ戻ると、背を向けたまま肩越しに女へ衣を差し出す。
「はい。ありがとうございます。」
 女の声に、東宮が心底ほっとしたような表情を見せた。
「もうこちらをお向きになっても平気でございますよ。」
 間もなく女が言い、東宮がゆっくりと振り返る。内大臣もそれに続いてそっと顔を後ろへ向け、驚いた。輝く衣を身に纏った女は美しく、この世の者とは思われないほどだった。
 感嘆の息を漏らしながら、内大臣は狐にでも化かされているのではないかと我が目を疑い、東宮は恍惚とした様子で目の前の女を見つめる。
「お会いできて光栄です、殿下。殿下のような方がお世継ぎであらせられれば、この世も悪くはならないでしょうね。」
 女は東宮に向かって微笑んだ。
「余が東宮と知っていたのか。」
 東宮が驚いて聞き返すと、女はそっと東宮の顔を包み込むように両手を伸ばす。
「存じておりますとも。殿下は高貴な魂をお持ちです。そして清らかな心も……。」
 東宮はしばし女と見つめ合い、それからはっとした様子で内大臣を振り返った。
「少しだけ……二人で話をしても?」
 東宮が遠慮がちに内大臣に尋ねる。どこの者とも分からぬ女と東宮をこんな夜中に川辺で二人きりにするなど、内大臣としても、東宮傅としても、また叔父としても正気の沙汰ではない。
「あなたは聡明な方。」
 内大臣が答えに迷っていると、女が口を開いた。
「天下と少しお話をさせてください。少しだけで良いのです。」
 内大臣は女を見、そして東宮の顔を見、静かに頷く。東宮が女に好意を寄せていることは、それが一時の気の迷いだとしても確かなことであったし、女もまた東宮に好意を寄せているらしかった。どこの者とも分からぬ女ではあったが、神々しささえ感じるこの女はただ者ではない。
 この女に逆らうことは許されぬ心地がして、内大臣は「牛車で待っております。」と告げると東宮と女に背を向けた。川原の土手を上がって振り返ると、東宮と女は柳の下で何やら話し込んでいるらしい。
「さて、朝までに帰れるかな。」
 内大臣はため息混じりに呟くと、川原へ近付かぬよう御者に命じてから牛車に乗り込んだ。
 それから一刻ばかりが過ぎて、御者が不安そうに問い掛けてくる。
「殿下はまだお戻りにならないのですか?」
 長引きそうなことは予想の内だったが、さすがに朝までここで待ち続けるわけにも行かない。女も「少しだけ」と言っていた。一刻は少しと言うには十分過ぎる時間だろう。
「様子を見て来ようか。」
 仕方なく内大臣は牛車を降り、再び土手を下り始めた。柳の木の下を覗くと、東宮が幹にもたれて眠っている。女の姿は既になかった。
「殿下、殿下。」
 東宮の肩を揺すり、内大臣は声を掛ける。東宮に万が一のことがあれば内大臣の責任だ。女と二人きりにしたことは間違いだったかと内大臣が後悔し始めた時、東宮がそうっと目を開いた。
「殿下、大丈夫ですか。」
 内大臣の問い掛けに、東宮はゆっくりと頷く。
「契りを結んだのだ。」
 東宮は恍惚とした表情でそう口にすると、女と過ごした一時を確かめるようにとつとつと語り始めた。

 「名前を聞いても良いか?」
 柳の下で、東宮は女に尋ねる。名前を尋ねることが求婚に当たることを、元服したばかりの東宮ももちろん理解していた。
「私は、月の都のかぐや姫。」
 女は柔らかく答える。それが求婚の承諾に当たることを女――かぐや姫が理解していたのか東宮は知らない。
「月の都とはどこにあるのだ?」
 東宮はかぐや姫に問い掛けた。
「月の都は今も空に輝くあの月にございます、殿下。私は人の世の者ではありません。」
 東宮は空を見上げる。柳の合間に丸い月が輝いていた。東宮は視線を落とし、そっとかぐや姫に身を寄せる。
「かぐや姫。」
 東宮は慈しむようにその名を呼んだ。まだ小さな東宮をかぐや姫は優しく抱き締める。
「これから一緒に京へ帰ってずっと余の側にいてくれぬか?」
 東宮の問い掛けに、かぐや姫はそっと東宮の身体を引き離した。
「私は月へ帰らねばなりません。けれど私は殿下がその清らかな心を持ち続ける限り、いつだって殿下を思っております。その証に、月の力を殿下に託しましょう。殿下はいつか立派な帝になられるでしょう。その時きっと、この力は役に立つはずです。契りを結びましょう、殿下。私は殿下を、殿下は私を思い続けると約束を……。」
 かぐや姫はそっと東宮の顔を両手で包み込み、上向いた唇に優しく口付ける。東宮は夢心地でかぐや姫の胸に抱かれた。

 恍惚として幸せそうな東宮と共に京へ帰り着いた内大臣は、十分な休みを取る暇もなく内裏へ召され、帝のお叱りを受けることになった。
 一体何があったのかと問われたが、月の都の姫と東宮殿下が契りを結ばれましたなんて報告ができるはずもない。紅葉のあまりの美しさに見とれてしまって小倉山を発つのが遅くなりましたと言うのが精一杯だった。
 幸いにして、それ以前から築いてきた信頼のおかげで早々に辞することを許されたものの、東宮傅としての経歴には一つ傷が付いた格好だ。内大臣が改めて東宮に苦言を呈そうと東宮を訪ねると、東宮はぼんやりと庭の池を眺めていた。
「全く、殿下のおかげで私は陛下にお叱りを受けましたよ。」
 内大臣が東宮の隣に腰を下ろしながら愚痴を零す。
「それはすまなかったな。」
 顔を上げて微笑んだ東宮の口調に、内大臣は驚きをもって東宮の顔を見つめた。まだ幼さを残していたはずの顔が急に大人びて見える。目の前に一人の男がいた。
「夕ぐれは雲のはたてに物ぞ思ふ、あまつそらなる人を恋ふとて。」
 ふと東宮が口遊んだ。
「文を書きたいが、どこに届けたら良いのか分からぬ。」
 言い訳のように内大臣へ微笑を向けた後、東宮の目は再び遠くを見る。視線の先には東の空に昇り始めた白い月があった。月の都のかぐや姫を一心に想っているのだろう。
 東宮とかぐや姫を二人きりにしたことが果たして正しかったのか、内大臣には分からなかった。我が手を離れて行く東宮に一抹の寂しさを不安を覚えながら、それでも内大臣は姉に似た東宮の横顔を眺め、微笑する。
「今日は少し冷えますね。」
 内大臣の言に、東宮はゆっくりと頷いた。

 小倉山への行啓から幾年が過ぎ、かぐや姫の噂が都中を駆け巡るようになった。かぐや姫の噂と言っても、東宮が大堰川で女と出会ったという話ではない。竹取の翁の養いたる女がとても美しく成長し、その女の名がかぐや姫と言うのだ。
 噂を聞きつけるなり、内大臣は東宮を訪ねた。もしもそのかぐや姫が東宮の会ったかぐや姫であるなら、東宮はついに長年想い続けた女と再会する機会を得たことになる。
「殿下。」
 内大臣が母屋を覗くと、東宮は多くの文に囲まれ、一つ一つその中身を検めているところだった。文の差出人は東宮に思いを寄せる大勢の女とその親戚である貴族だろう。年頃の東宮の后となるため、あの手この手を尽くして毎日毎日文を送ってくるのだ。
 噂のかぐや姫ほどではないにしても、東宮が母から受け継いだ美貌は多くの人の知るところであったし、次の帝になる者とあらば、貴族としての地位の向上を狙って姻戚関係を築こうという者は少なくない。それはあまり褒められた戦略ではないと内大臣は密かに思い、それゆえ今まで多くの縁談がありながらいずれも断ってきた。地位や名誉ゆえに愛されることも、地位や名誉ゆえに愛すことも内大臣には受け入れがたいことだった。尤も、内大臣自身も姉を入内させて地位を得たと噂される身だ。たとえそれが内大臣の意思でなくとも、偽りだと完全に否定できる状況ではなく、声高に彼らを批判することはできなかった。
「こんなに多いとどれが誰の文だかも分からなくなる。」
 そう愚痴を零しながらも、東宮は一つ一つに丁寧な返事を書く。女を傷付けぬようにと細心の注意を払い、断りの返歌を考えるのだ。縁談を持ちかける貴族には娘を褒めつつも断りを入れ、文武の功績を褒めてやることも忘れない。暴政を振るう者があれば密かに苦言を歌い込んで返す。
 わがままな東宮は本当に立派な青年に成長した。内大臣の姉である皇后の死後に、女御であった左大臣の娘が皇子を産んだために左大臣一族の中には現東宮ではなく自らの身内を帝にしたいと密かに目論んでいるようだが、それを除けば、東宮が次の帝となることに反対する者はいない。左大臣一族が自らの身内が帝となることを望むのは致し方のないことであるし、彼らだって東宮の優秀さを認めてはいるのだ。叔父が一人内大臣の職にいる他は何の後ろ盾もない皇子が宮中はもちろん都中から信頼を得ているのは、その人柄ということに誰も疑いを挟まない。内大臣にとっても東宮は自慢の甥だった。
「余はかぐや姫と契りを結んだがゆえ他の女に会う気はないと申し上げても構わぬかな。」
 返事を書くために筆を取りつつ、ため息混じりに東宮が呟く。
「それは……。」
 内大臣は躊躇いがちに否定の返事を仄めかした。東宮の身分にあるものがどこの者とも分からぬ女と契りを結んだなどと言う話はどうにも外聞が悪い。そう考えて、内大臣は早々に大堰川でのことを人に触れ回らぬよう東宮に釘を刺していた。その女を后にすると言うならまだしも、女はいつの間にか姿を消したとなれば狐にでも化かされたのだと笑い者になりかねない。
「ほんの冗談だ。」
 東宮はふわりと笑った後、筆を置いて内大臣に向き直った。
「それで何の用だ? 何か用があって来たのだろう?」
 東宮の言葉に、内大臣は慌てて腰を下ろす。
「その、かぐや姫のことでございます。京中でずいぶんと噂になっておりますが……。」
「竹取の翁の娘もかぐや姫と言うそうだな。」
 内大臣の言葉を遮って東宮が言った。
「ご存知でしたか。」
「京中で噂になっていることを余だけが知らぬとでも? 女房たちが熱心に話をしてくれたよ。」
 東宮はにこりと笑う。
「そのかぐや姫、もしやあの大堰川での……。」
「そうかも知れぬな。」
 東宮の素っ気ない反応に、内大臣は首を傾げた。この数年、ずっと想い続けてきたかぐや姫がすぐ近くにいると聞けば、東宮は大喜びで会いに行こうと、少なくとも今すぐ文を書こうと言い出すものと思っていたからだ。
「文をお書きになって確かめてみては……?」
 内大臣が恐る恐る提案すると、東宮は声を上げて笑った。
「もし竹取の翁のかぐや姫があのかぐや姫であったとして、もし何かあればかぐや姫が余に文を送ってくる。余は約束の通り、かぐや姫を想い続けるだけだよ。」
 東宮は柔らかく言い、辺りに散らばった文を一つ一つ拾い上げ始める。
「多くの者がかぐや姫に求婚していると聞きますが。」
 内大臣は不安げに尋ねた。このまま東宮が何も手を打たなければ、かぐや姫は他の男の妻となってしまうかもしれない。
「そして多くの者が難題を突きつけられて断られているのだろう? 右大臣までもがかぐや姫のおかげで唐の商人に騙されて大損したそうじゃないか。」
 東宮は文に目を通しつつ笑って返した。
「かぐや姫は殿下をお待ちなのでは?」
 内大臣の言に東宮が微かに顔を顰める。
「余には分からぬ。しかし陛下のお召しさえ断る女だ。余が呼んでも応じまいよ。」
 そう言って微笑んだ東宮の顔ははっきりと愁いを帯びていて、内大臣はそれ以上言葉を返すことができなかった。帝が后にと望む女を東宮が横からさらうわけにはいかない。内大臣が東宮にかぐや姫の噂について話すことを躊躇った理由の一つがこれだったが、東宮も既に自分の立場は悟っているのだろう。
 もっと早く、かぐや姫の噂が陛下のお耳に入る前に東宮の下へ届いていたら、事情はもう少し違ったのかもしれない。そんな内大臣の後悔を察してか、東宮は笑顔で更に付け足した。
「そなたのせいではないよ。余はずっと前から竹取の翁の話を知っていたのだから。余が選んだのだ。かぐや姫を想い続けると。」
 穏やかにそう言った東宮の表情は優しさに溢れていて、それが東宮のかぐや姫への想いなのだと思うと、内大臣は我が甥を誇りに思うと同時に苦しくなる。
「さあ、かぐや姫の話はこれで終いにしよう。このたくさんの文に返事を書かねばならぬ。内大臣も暇なら手伝ってはくれぬか? 余だけでは何年掛かるか分からない。」
 そう言って笑う東宮に、内大臣は笑顔で頷き返した。

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