ここち

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月影物語

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第三章 古の契り ―― (4)

 八月の望月の頃、参内した内大臣は宮中の慌しさに驚いた。近衛少将が二千人ばかりを率いて出陣するらしいが、一体どこで大戦が始まるとでも言うのだろう。首を傾げながら渡殿を歩いていた内大臣の耳に、ふと女房たちの噂話が飛び込んできた。
「かぐや姫が月にお帰りになるのをとめるために二千人も遣わすそうよ。」
「まあ、二千人も。陛下は本当にかぐや姫にご執心なのね。」
 そう言って女房たちは笑い合う。内大臣は反射的に踵を返していた。
 ――かぐや姫が月に帰る。
 竹取の翁の家のかぐや姫が月の都の者であるなら、それが大堰川のかぐや姫と同一人物である可能性は高まるし、東宮にとってかぐや姫に会える最後の機会となるかもしれない。
 かぐや姫が帝のものとならずに月へ帰るなら、東宮が一つ文を書いたところでそれを誰が咎めるだろうか。内大臣は内裏を離れ、急いで東宮へ向かう。
「殿下!」
 内大臣が慌しく母屋へ駆け込むと、東宮は相変わらず文に囲まれて困り果てていた。
「大きな音を立てて走るのははしたないと余に教えてくれたのは誰だったかな。」
 東宮は呆れた様子で内大臣を見上げる。
「殿下、竹取の翁のかぐや姫が月へ帰るそうです。」
「そうらしいね。」
 早口で告げた内大臣に、東宮は落ち着いた様子で返し、新たな文を手にして検める。
「そんな悠長な。よろしいのですか、文をお書きにならなくて。」
「書いているよ、こんなにたくさん。」
 東宮は文台の隣に置かれた文の束を手に、内大臣の目の前へ掲げた。相変わらず頻繁に届く貴族や女たちからの文への返事だろう。
「そうではありません。かぐや姫にです。ずっと想っていらっしゃったのでしょう。」
 内大臣は目の前に差し出された文の束を振り払うと、思わず声を荒げた。思いやりが深いのは良いことだが、他人に遠慮してばかりでは損をするだけだ。
「ずっと想っていたよ。だからこの先もずっと想い続ける。そういう約束だ。」
 東宮は真っ直ぐに内大臣を見つめると笑顔で言った。東宮の決意の表情に、これ以上は何を言っても無駄だということを内大臣は悟る。
「それでよろしいのですね。」
 確認のために内大臣が強い口調で尋ね、東宮は頷いた。
「本当にあなたと言う人は……。」
 内大臣がため息を吐きながら微笑み返すと、東宮も笑う。
「今夜は十五夜だ。共に月見酒といこうか。」
 東宮が持ちかけ、内大臣も快諾した。
 南庭に拵えた池を望む釣殿に酒と肴を運び込み、東の空に浮かぶ月を眺める。いつもなら中秋には宮中で観月の宴が催されるが、今年は帝がかぐや姫の帰郷を阻止するために躍起になっているせいで宴は中止だ。かぐや姫を連れ去る輩のいる月を見て楽しむような心地ではないのだろう。
「綺麗な月だ。大堰川で見た月と少しも変わらない。」
 東宮は杯にそっと口を付け、一口含んで呟いた。内大臣は何と返してよいか分からず、空になった杯に酒を注ぐ。
「さ夜ふけて天の門わたる月かげに、あかずも君をあい見つるかな。」
 月を仰ぎながら東宮が歌う。この機会を逃せば東宮がかぐや姫に会うことは二度とないかもしれない。それにもかかわらず東宮はかぐや姫に会いに行こうとはせず、かぐや姫の故郷である月を見上げてのんびり歌を詠んでいる。帝は兵まで出してかぐや姫が月へ帰るのを阻止しようとしているというのに。内大臣には東宮の真意が分からなかった。
「人の世の者ではないかぐや姫は誰に物にもならぬのだよ。」
 東宮はふと杯を置くと内大臣を見、諭すように呟く。
「人にできるのはただ想い続けること、想われ続けることだけ。余はそれで満足だ。」
 東宮は微笑み、銚子を手に取って内大臣の前に掲げた。内大臣は慌てて杯の酒を呷り、東宮へ差し出す。
「強くなられましたね。」
 内大臣の呟きに、東宮は照れたように笑った。
 そのまま宵の過ぎるまで二人で酒を飲み交わし、酔いの回ったふらつく足取りで内大臣は家へ帰ろうと立ち上がる。
「お気を付けて。」
 東宮が転びそうになった内大臣の身体を支えて微笑んだ。内大臣も笑みを返すが、ふと東宮が空を仰いだ。内大臣がその視線の先を追うと、光の帯がゆらゆらと月に向かって昇って行く。
「かぐや姫でしょうか。」
 内大臣が思わず口にすると、東宮はただ黙って笑みを浮かべながら光の帯を見送っていた。

 翌朝、二日酔いに苛まれている内大臣を慌しく勅使が訪ねて来た。すぐに参内するようにと言う帝からの詔である。
 慌てて仕度を整えて内裏へ駆けつけ、清涼殿へ上がった内大臣は左右大臣を含む公卿の控える物々しい雰囲気に居心地の悪さを感じながら帝の言葉を待った。
「東宮傅としてのそなたに問う。これは一体どういうことだ。」
 帝が差し出した文は官吏の手を経て内大臣へ渡される。内大臣が受け取った文を開いて良いものかどうか逡巡していると、帝が続けて口を開いた。
「かぐや姫の文を預かった中将は朕の他に東宮への文も預かったそうだ。」
 帝の言葉に驚き、内大臣はじっと文を見つめる。
「これを……東宮殿下にお届けせよと?」
 とてもそんな和やかな空気ではないと感じつつ、内大臣はそう問い返すしかなかった。かぐや姫が東宮へ文を送ったことに帝は機嫌を損ねているらしい。いや、単にかぐや姫が東宮に文を送ったというだけではいくらかぐや姫に執心している帝でもここまで怒りはしなかっただろう。帝の息子である東宮に「陛下をよろしく。」と言い置いても帝が腹を立てる理由はない。たぶん、帝はこの文の中身を確認済みで、この文には帝を憤慨させるようなことが書いてあったに違いない。
「中身を検めよ。」
 帝の険しい口調に怯えながら、内大臣は文を開いた。内容は大方、内大臣の予想した通りだ。大堰川での出会いのことに始まり、かぐや姫が再び人の世へ降りた経緯が連ねられ、そしてかぐや姫の東宮への想いが歌に込められ添えられていた。
「東宮はかぐや姫と契りを結び、月の力を授かったそうだな?」
 帝の問いに内大臣は答えない。いや、答えられなかった。
「小倉山へ行啓して帰りの遅くなったあの夜のことだろう? そなたも一緒だったな? その様子では、やはり東宮とかぐや姫のことは知っていたのだろうな。なぜ黙っていた。」
「かぐや姫と言う女に会ったという話は東宮殿下から聞きましたが、何分夜更けのことでございましたので、私は狐にでも化かされたか夢でも見ていらしたのだろうと申し上げました。東宮殿下もそう考えておられたのだろうと思います。」
 内大臣は平伏して帝に申し上げる。
「ほう、そなたは朕がそのような嘘を信じると?」
 帝の言葉に、内大臣は驚いて顔を上げた。内大臣の説明は確かに事実と異なっているが、その後東宮がかぐや姫と一切交流していないことを思えば、嘘と断言できるものでもない。しかし、帝がそれを嘘と断言するからには何か理由があるのだろう。
「かぐや姫と契りを結んだ東宮は、きっとかぐや姫に文を送る朕を見て嘲笑っていたのだろうな。」
 帝の言葉に内大臣は唖然とした。
「そしてかぐや姫から授かった月の力で朕に代わって天下を治めようと、朕を亡き者にしようと考えていたのだろう。」
「まさか!」
 内大臣は思わず声を荒げる。
「全てかぐや姫の文に書いてあることではないか。朕に隠れてかぐや姫と結び、朕を嘲笑っていた。これが許されることか?」
 帝は月へ帰ってしまったかぐや姫を想うばかり、考えを捻じ曲げて東宮に八つ当たりしているとしか内大臣には思えなかった。かぐや姫の文には確かに「いずれ帝となって素晴らしい世を築かれますように」という東宮に対する願いの言葉が記されていたが、東宮がいずれ帝となるのは皇太子なのだから当然のことだ。それを「帝を亡き者にして」と解釈したのは、自分が思いを寄せたかぐや姫が既に東宮と結んでいたということに対する怒りのせいで判断を狂わされているからだろう。
「ご冗談はよしてください。陛下だって東宮殿下のことはよく分かっておいでしょう。東宮殿下はそのようなことは全く考えておりません。陛下の御治世が一日でも長く続くようにと願っておられるのです。」
「かぐや姫は文の他に贈り物も用意してくれたぞ。」
 官吏が帝の前に小さな包みの載った折敷を出した。
「不死の薬だそうだ。朕への文には包まれていなかった。朕の治世が続くことを願うならその薬は朕へ届けられるべきものではないか? これこそ東宮がかぐや姫と共に朕を亡き者にしようと企んでいた証拠だ。」
 内大臣は小さな包みをまじまじと見る。それが不死の薬と言うこと自体、信じられない思いだったが、大堰川で見た神々しい女の姿を思い出し、かぐや姫が月の都の者ならば不死の薬を持っていても不思議ではないと考え直す。
「私にはかぐや姫の真意は分かりかねますが、東宮殿下が陛下を亡き者にしようなどと……。」
 内大臣は再び平伏して繰り返した。放っておいてもいずれ帝の地位は東宮のものとなる。それをあえて謀反を企むなどという危険を冒したところで、一体東宮がどんな利益を得ると言うのだろう。
「それに、東宮殿下がかぐや姫に会われたというのは大堰川での一度きりです。かぐや姫が竹取の翁に養われるようになってから、東宮殿下は一度もかぐや姫にお会いしておりませんし、文の一つだって送ってはいないのです。それだのにどうして東宮殿下がかぐや姫と通じていたなど……。」
 帝はぴしゃりと扇を打って内大臣の言を遮るが、内大臣は怯まず続ける。
「陛下はあんなにも東宮殿下を愛されていたではありませんか。東宮殿下も陛下のご寵愛に答えようと努め、あのように賢く立派に成長なされました。」
 言い切って、内大臣は真っ直ぐに帝を見据えた。
「だから嫌なのだ。」
 帝が呟くように漏らす。
「何です?」
「東宮は若く美しい。そしていずれは私の後を継いで天下を治め、かぐや姫さえ手に入れるのだ!」
 帝が声を荒げた。
「朕は寵愛した后にも先立たれ、かぐや姫も月へ帰ってしまった。それなのに東宮は……皆、東宮ばかり褒めちぎる。内大臣、そなたも朕よりも東宮の方が帝に相応しいと考えておるのだろう?」
 帝は微かな笑みを浮かべて問う。
「そんな……。」
 内大臣は帝の愁いを帯びた表情に東宮を思い出し、強く言い返すことができなかった。さすが親子と言うだけあって、帝の顔は東宮に似ている。愁いを帯びた表情は特によく似ていたが、二人には明らかな違いがあった。
 帝は東宮に嫉妬している。東宮はただかぐや姫を信じて想い続けていた。これは明らかな違いだ。
 もしかすると帝の嫉妬はかぐや姫の事で急に生じたものではないのかもしれない。それ以前から帝が抱いていた思い。亡き妻の形見として東宮を寵愛し、聡明な東宮を最も評価していた帝だからこそ、かぐや姫のことで生じた亀裂は深いのだろう。全てを息子に奪われる……そんな恐怖さえ帝の表情には見え隠れしていた。
「朕はもう決めたのだ。東宮に皇位は譲らぬ。奴を皇太子から廃して謀反の罪に問う。」
 内大臣は一瞬、帝の言葉を理解することができなかった。
「正気ですか!?」
 一呼吸置いて、内大臣は叫ぶ。皇太子を廃されるだけでも大事だが、しばらくすれば冷静になった帝が再び皇太子の地位を戻す可能性もある。しかし謀反の罪に問われるということは、例え皇族と言えど流罪は免れない。無実を主張したところで、帝がこんなにも強く東宮を疑っているなら良い結果は期待できない。
「そなたも東宮に加担したな。同罪だ。」
 帝が笑った。内大臣は返す言葉もなく部屋の中の公卿たちを見遣るが、誰一人内大臣と目を合わせようとはしない。左大臣がふと口元を隠すのが視界の端に映った。隠された口元はきっと笑っているのだろう。自分の身内を皇太子に、そしていずれは帝にと目論む左大臣はこれを好機と捉えたに違いない。かぐや姫の文が真正のものであることはその内容から明らかであったし、これが全て左大臣の計略ということはないだろうが、それだけに事態は不利だった。帝が提言し、左大臣が賛成したとなれば、いくら東宮への信頼が厚いと言っても反対の声を上げる者はいないだろう。
「冗談じゃない!」
 内大臣はかぐや姫の文を握り締めて立ち上がる。
「こんな横暴が許されるものか!」
 内大臣が叫ぶと、帝は静かに口を開いた。
「捕らえよ、謀反人だ。」
 帝の一声と共に、ぞろぞろと官吏が現れる。初めからこうなる予定だったのだ。
「陛下!」
 内大臣が叫ぶが、帝はそっと立ち上がると背を向けて奥の間へと姿を隠す。官吏が腕を掴むが、内大臣は思い切りその手を振り払った。相手は武官ではないから、内大臣の抵抗にあっさりと怯む。内大臣はその隙を突き、靴を履かぬまま庭へ飛び降りた。
「捕らえよ!」
 背後で声を上げるのは左大臣だ。内大臣は一目散に厩へ駆けた。小石を踏んだ足の裏が痛んだが、それに構ってはいられない。ちょうど鞍を載せた馬が厩の柱に繋がれているのを見つけると、手綱を掴んで飛び乗った。辺りの官吏が慌てた様子で声を上げるが、内大臣は馬の横腹を蹴り飛ばすと東宮御所へ向かって馬を駆る。
 ――早く早く早く。
 この緊急事態について一刻も早く東宮と話し合う必要があった。話し合ったところで何の解決も導き出せないだろうと内心分かってはいたが、それでも内大臣は何とかして東宮を守りたかった。

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