月影物語
第三章 古の契り ―― (5)
東宮御所に着き、内大臣は門前で転がり落ちるように馬を乗り捨てた。血相を変えて飛び込んできた内大臣に御所を警護する者たちが驚きの表情を見せる。内大臣は案内を待つことなく邸宅内へ足を踏み入れた。鬼気迫る表情の内大臣を誰一人止めようとはしない。
「殿下!」
内大臣が姿を現すと、さすがの東宮も驚いた表情を見せた。
「どうされたのです? そんな格好で……。」
東宮が驚くのも無理はない。乗りなれない馬に乗ったせいで着物はだいぶ着崩れていたし、冠もどこかに落としていた。とても貴族の姿ではない。
「これを……。」
内大臣は握り締めていた文を東宮に差し出した。東宮は恐る恐る文を受け取り、開いて見る。文に目を通した東宮は穏やかな微笑を浮かべ、それから内大臣に向き直って尋ねた。
「これをどうして?」
「かぐや姫が帝への文と共に中将へ預けたそうです。帝もその中身をご覧になりました。」
内大臣の言葉に東宮の表情が変わる。
「そう、陛下は怒られたんだね?」
文に目を落としながら東宮が静かに尋ねた。
「はい。殿下の廃太子を決定され、謀反の罪に問うと……。」
「そうか。」
東宮はそれ以上何も尋ねなかった。
「逃げましょう、殿下。帝も冷静になればきっと分かってくださいます。それまで少しの間……。」
内大臣の誘いに、東宮は首を振った。
「ここから逃げ出すなら流罪とそう変わりはしないよ。良いじゃないか、久しぶりにゆっくり旅ができるとでも思えば。」
顔を上げた東宮はそう言って笑う。
「しかし……。」
「文を届けてくれてありがとう。でも、内大臣もこれ以上謀反人などと一緒にいてはいけないよ。」
東宮は内大臣の言葉を遮って笑った。東宮の言は内大臣を巻き込まないためなのだろうが、もう遅い。むしろ自分の方が謀反人だと言い掛けて、内大臣は黙った。自分のために内大臣までもが罪に問われたと知れば東宮は心を痛めるに違いない。もしかしたら、東宮は内大臣がこんな格好で現れた時点で全てを悟っていたのかもしれないが、東宮に謝罪を口にするような機会を与えたくはなかった。
「少し独りにしてくれないか。かぐや姫に返事を書きたいのだ。」
東宮は穏やかに笑う。
「では、私は外で人払いを。」
暗に「待っている」と伝えたつもりだった。東宮はゆっくりと頷き、内大臣はその場を辞する。
内大臣が庇へ出ると、急に外が騒がしくなった。内大臣を追って、あるいは謀反に問われた東宮を捕らえに、官吏がやって来たのだろう。内大臣は彼らを迎える覚悟で、渡殿に腰を下ろしてあぐらをかいた。
間もなく、数人が連れ立ってどすどすと大きな音を響かせながらやってくる。内大臣の姿を目に留めて、彼らは警戒するように立ち止まった。
「そこを通してもらおうか。」
野太い声で彼らの一人が内大臣に声を掛ける。服装からしても、体格からしても彼らは武官だ。文官の内大臣が一人で立ち向かえるような相手ではない。
「通るだけで良いのか? 私を捕らえることは勅命だろう?」
内大臣は笑った。この状況で内大臣が笑ったことを何か特別な策でもあると疑ったのかもしれない。武官たちは対応を決めかねた様子で顔を見合わせる。
「素直に降伏すれば命までは取らぬ。」
武官は刀に手を掛けながら一歩一歩内大臣へ近付いてきた。丸腰の文官一人にずいぶんな怯えようだ。
腹を据えた内大臣が笑いながら怯えた武官と問答を繰り返している時、ふと母屋から物音が響いた。反射的に内大臣が立ち上がって母屋へ駆け、武官たちもそれに続く。
「殿下!」
母屋を覗き、内大臣は絶句した。
文台から硯箱が落ちている。黒い染みが床に広がり、そこに赤い液体が流れ込んで不気味な色を映していた。内大臣は一つの予感を持って赤い液体の発生源へ目を遣ると、東宮が喉元から鮮血を流して倒れていた。既に事切れていることは明らかだ。手にはしっかりと刀が握られ、東宮は自ら命を絶ったのだ。
内大臣はそっと東宮へ近付き、文台に残された文に気付いて手に取った。武官たちは衝撃的な光景に動くこともできず、立ち尽くしたまま、誰も内大臣を咎めようとはしない。
内大臣と帝、そしてかぐや姫へ宛てられた三通の文があった。内大臣への文にはこれまでの感謝が記され、帝への文には内大臣がどんなに優秀な官吏であるかが記され、決して謀反を企んだりはしていないとただ内大臣の無実だけを訴えていた。自らの罪については一切触れず、最後に言い訳を連ねることを拒んだのだろう。
かぐや姫への文は歌が一首のみ記されていた。
――秋風にあへずちりぬるもみぢはの、ゆくへさだめぬ我ぞかなしき。
「どうして……。」
文を持つ手が震え、耐え切れずに目から零れた雫で文字が滲む。
東宮はずっと愛した人を思い続けていた。ただ思い続けていただけだった。かぐや姫が最後に東宮へ文を書いたのは、その東宮の思いに答えるためだったろう。それなのに、それが全てを狂わせた。何が、どこで間違ったのか、内大臣には分からなかった。
左大臣の計略か、帝の嫉妬か……違う、違うのだ。原因はどれでもなく、全てのことが原因だった。内大臣もまた。
亡き姉に代わって守るはずだった最愛の甥を失い、自らの不甲斐なさと無力さを恥じる。内大臣は手にした文を強く強く握り締めた。
長い長い物語を雅臣は時に懐かしそうに、慈しむように、そして悲しそうに語った。
「歴史にも物語にも残らなかったけれど、これこそが真実だ。かつて君は東宮であり、僕は内大臣として東宮傅として君の側にいた。そして、どういうわけか僕らの魂は再び現世に甦り、こうして巡り会った。僕は二度と同じ過ちを繰り返したくない。今度こそ二人は結ばれなくてはならないんだ。」
ベンチから腰を上げた雅臣が決意の眼差しでアズマを見つめる。雅臣の思いは感じた。悲しい物語に同情心も湧く。それでもアズマはその物語に自分自身が関わっているのだという実感は湧かなかった。ましてや自分が東宮であるなど……。
「ちょっと待てって。一体どうしたら庶民の俺が皇太子殿下になるんだよ。生まれ変わりだか何だか知らないけど、俺の家は天皇家とは縁もゆかりもない一般ピープルなんだ。それこそ有り得ない話だろ?」
アズマは笑い飛ばした。雅臣には悪いが、頭がおかしくなったとしか思えない。馬鹿と天才は紙一重などと言うが、真面目な雅臣はうっかり怪しい新興宗教にでもはまってしまったのかもしれない。雅臣の話もカグヤの話も、全部どこかの怪しい占い師か新興宗教の教祖が作り上げた御伽噺に違いない。
「魂は血筋で受け継がれるものじゃないよ。それに、歴史から消された東宮の血は今の天皇家には続いていない。東宮の魂は確かに君の中にあるんだよ、アズマ。」
雅臣は真面目な表情を崩さず、はっきりと断定する。
「冗談もそれくらいにしろって。俺は東宮なんかなじゃない。平安京だとかかぐや姫だとか、そんなのは全然知らないんだ!」
アズマは声を荒げた。ベンチに腰を下ろさなかったのは自ら選んだことだったが、立ったまま長話を聞いたせいで疲れていた。これ以上妙な話を聞かされて混乱させられるのは御免だ。
「今はまだ思い出せないだけだよ。いずれ、近いうちに君も望ちゃんも全てを思い出す。そうしたらアズマにも僕の言っていることは分かるはず……。」
「どうしてお前に俺が東宮だって分かるんだよ? いつからお前は超能力者になったんだ!?」
アズマは雅臣が言い終わらぬうちに返した。
「分かるよ。僕は君が生まれた時から側にいたんだ。だから分かる。君は東宮だ。」
雅臣の口調は優しかった。懐かしむような柔らかい表情をアズマに向ける。その表情は幼馴染みとしていつも側にいた雅臣のものと同じだったけれど、そこに込められた思いはそれよりもずっと重いような気がした。
「何なんだよ、お前も大月もわけの分からないことばかりだ。二人でつるんで、俺をからかおうって魂胆か?」
アズマは震える声を絞り出して雅臣を見つめ返す。雅臣の目に敵意は感じなかったけれど、それでも素直にその言葉を信じる気にはなれなかった。頭の中で二学期が始まってからの出来事がぐるぐると渦巻いて、もはや何が何だか分からない。
「違う。僕は奴らとは違う。」
雅臣はアズマの言葉を強い口調で否定した。
「奴ら?」
アズマは眉を顰めて聞き返す。アズマが口にしたのはカグヤのことだけだが、雅臣の口ぶりではカグヤの他に少なくとももう一人同じような人間がいるということになる。
「大月カグヤは宇野と謀って君の魂に眠る月の力を狙ってる。大月カグヤはもちろん、宇野が最近急にアズマに近付いたのもそのせいだ。彼らの魂もかつては平安京の住人だった。」
雅臣の口から出たもう一人の名に、アズマは呆れた。雅臣が執拗に最近アズマが親しくしている人間を敵と見なすのは嫉妬でもしているのだろうか。アズマが混乱と迷いの中で見つけた居場所を奪い、孤立して自分のところへ戻ってくるのを待っているのかもしれない。
雅臣が潔く望とのことを認めるなら、全てを水に流して仲直りしても良いと思っていた。それなのに、雅臣の口から聞けたのは壮大な物語といい加減なほら話だ。あまりの幼稚さに雅臣をずる賢いと形容した宇野の言葉を改めて否定したくなった。
呆れるアズマを前に、雅臣は更に詭弁を続ける。
「大月カグヤと宇野は東宮がかぐや姫と契りを結んで得た力をアズマと結ぶことで手に入れようと考えているんだ。でも、そうなれば東宮の思いもかぐや姫の思いも踏みにじられる。僕はもう……。」
痛切な表情で語る雅臣の言葉を耐え切れなくなったアズマが遮った。
「それが何だって言うんだよ! 東宮とかぐや姫の話なんか今の俺には全然関係ない話じゃないか。俺が誰と付き合おうと俺の勝手だ!」
そう叫んで踵を返したアズマの腕を雅臣が掴む。
「信じて、アズマ。僕はアズマの味方だ。東宮とかぐや姫の思いはアズマと望ちゃんの思いと同じなんだよ。」
雅臣の切実な視線に射抜かれながらも、アズマはその言葉を信じようと言う気にはならなかった。
「もう大月カグヤには近付くな。宇野にもだ。二人が目覚めるまで待ちたかったけど、もう時間がない。先に目覚めた奴らは動き出してる。このままじゃアズマも望ちゃんも傷付くだけだ。アズマが結ぶべきは望ちゃんだ。大月カグヤじゃない。」
必死に訴える雅臣に向かって、アズマは微かな笑みを見せる。
「あいにくだけど、俺は自分の付き合う相手は自分で選ぶよ。今、俺が好きなのは望じゃなくてカグヤだし、宇野を信頼してる。お前よりもだ。」
アズマが静かに、しかしはっきりと告げた言葉に、雅臣の顔が青ざめた。
雅臣とのことも望とのことも、そしてカグヤのことも、一変した生活に困り果てていたアズマの唯一の相談相手が宇野だった。話してみれば趣味も合い、不思議と会話は弾んでほっとする。今のアズマにとって宇野は大切な居場所だった。それを否定されることは腹立たしい以上に馬鹿げたことだ。
「茶番はこれくらいにしてくれないか。明日、早いんだ。宇野の家でゲームをする約束だからさ。」
アズマは冷たく笑って腕を掴んでいた雅臣の手を引き離した。呆然とアズマを見返していた雅臣はふと我に返った様子で、慌ててアズマの腕を掴み直す。
「宇野と一緒にいたら駄目だ! あいつは力を狙ってる。もう少しすればアズマにも分かるはずだ。いや、今だっておかしいと思ってるんじゃないか? これまで大して仲も良くなかったのに急に近付いてきた。」
雅臣の目に企みの色が見えたような気がした。
「おかしいのはお前の方だ。俺は宇野を信頼してる。他人の友達を侮辱するなんて、お前も偉くなったもんだな!」
雅臣の手を振り払い、アズマは叫んだ。もう二度と裏切られたくないという強い恐怖は、いつの間にかもう二度と信用しないというと強い決意に変わっていた。
バランスを崩して倒れる雅臣に背を向け、アズマは公園の入り口へ駆ける。
「申し訳ありませんでした!」
突然背後から響いた声に、アズマは驚いて立ち止まった。人気のない夜の公園で、声の主が雅臣だということには疑いようもないが、耳に届いた言葉はあまりにも不自然だ。アズマはゆっくりと振り返り、息を呑んだ。
雅臣が頭を地面へ着けて土下座をしていた。
「申し訳ありませんでした、殿下。これまでの数々のご無礼をお許しください。ただ私は殿下を、殿下とかぐや姫をお守りしたいのです。どうか、どうか私を信じてください。私に時間をください。」
切実な言葉を綴る雅臣は頭を下げたまま決して顔を上げようとはしない。どうしてかアズマの瞳からは涙が零れた。目の前にいる雅臣は雅臣であって雅臣ではない。毎日のように一緒に遊んで笑い合った幼馴染みではない。
謝罪の言葉が聞きたかったわけではなかった。ましてや頭を下げて欲しいなんて思ってもいなかった。ただ願ったのは元の通りにまた三人で、望も一緒に三人で笑い合えたら……。
「どうして……どうして親友のお前が俺に頭を下げるんだ!」
頭を下げたままの雅臣に向かって叫び、アズマは踵を返して公園を走り出る。呼び止める声は聞こえなかった。