月影物語
第四章 背負いし宿命 ―― (2)
朔姫は脇息にもたれながらぼんやりと考え込んでいた。右大臣である父の命で、東宮殿下へ文を書かなくてはならないのだが、なかなか良い歌が閃かない。年頃になった東宮の噂は、父はもちろん、女房の口からも毎日のように聞かされているが、聡明で素晴らしいお方だということだ。
東宮へ文を書くのは父の命があったからだが、朔姫自身、誰もが素晴らしいと褒めちぎる東宮に興味があった。何しろ、次の帝となるお方だ。帝の后となれるのならこれほど光栄なことはないし、その帝が噂通りの美しく聡明な男なら、これ以上の結婚はないだろう。
「朔姫、文は書けたのかっ。」
ばたばたと大きな音を響かせて現れたのは、朔姫の父である右大臣だった。几帳越しでも慌しく走る音と大きな声ですぐに分かる。尤も、来客なら女房が先に取次ぎをしてくれるはずだから、真昼間にいきなり部屋を訪ねてくる人間はほとんど父の右大臣に限られていた。
「まだですわ、父上。東宮殿下に差し上げられるような良いお歌が浮かびませんの。」
朔姫が答えると、右大臣はどさりと几帳の前に腰を下ろす。
「ふむ、ならば私が少し考えてやろう。もみじ葉の燃ゆる思いに焦げし身は袂を濡らす雨にも冷めず。」
右大臣はすらすらと詠んだが、朔姫は几帳越しに顔を顰めた。趣味が悪いというわけではないが、込められた思いはあまりにも強烈だ。
「初めての御文ですのに、少しばかり想いが強過ぎます。」
朔姫はできるだけ穏やかな口調で言った。
「想いは強い方が良いのだ。相手は東宮殿下なのだ。毎日どれだけの文が東宮殿下に届くと思う? その中でこれだと思わせるには強い印象を残す強い思いを込めた文を送った方が良いに決まっている。どれだけ東宮殿下を思っているかを……。」
右大臣は拳を握り締めながら熱く語る。朔姫は小さくため息を吐き、隣に控えている女房と顔を見合わせた。右大臣の言が熱いのはいつものことだ。その思いの強さで朔姫の母を手に入れ、政にも熱心に取り組んで今の地位を得たのだから、それ自体は決して悪いことではない。ただ、少し事を急ぎ過ぎる傾向が右大臣にはあった。
この間も、唐の商人から買った火鼠の皮衣をかぐや姫に贈ったのだが、本物かどうか確かめるまえに代金を支払って張り切ってかぐや姫の家へ持参し、結局、偽物だと分かって大損して帰ってきた。
色好みと評判の右大臣が美人と噂のかぐや姫に熱を上げることも致し方ないことだが、亡き母を想うと朔姫の心情は複雑だ。父である右大臣が世の美しいと噂される女性に文を贈り、家へ出入りするのは構わない。それでも、もし右大臣が新たな后をこの邸へ迎え入れ、それが朔姫にとっても母となるのだと思うと少しばかり抵抗が生じる。唐の商人にも騙され、かぐや姫にも笑われ、内大臣である父が大いに恥を掻かされたことは朔姫にとっても屈辱だったが、これでかぐや姫が北の方として邸へ迎え入れられることはなくなったのだと思うと、朔姫はほっとした。
「とにかく早く文を書いてしまいなさい。出来が悪ければ何度でも書けば良いのだ。お前が東宮と結ばれれば、私も東宮の義父になる。いずれは帝の義父だ。いつまでも左大臣や内大臣の好き勝手にはさせんぞ。あの者共め、姻戚の立場を利用して帝や東宮にいいように吹き込んで私の邪魔ばかりしておる。お前が東宮の后となればすぐに奴らの化けの皮を剥いでやるぞ!」
右大臣はぶつぶつと呟き、拳を握り締めながら勢い良く立ち上がる。結局、右大臣は愚痴を零しに来ただけなのだ。ばたばたと音を立てながら現れたその時から、機嫌が悪そうなことは分かっていた。きっとまた政の話で左大臣や内大臣と意見が分かれでもしたのだろう。朔姫には政のことは良く分からなかったが、話を聞く限りでは、必ずしも左大臣や内大臣が間違っている場合だけではないようで、単なる八つ当たりとして彼らの名前が出てくることも少なくないようだった。
「全く、お前だけが私の希望の光だよ。お前は母に似て美しいし、頭も良い。きっと東宮のお気に入りになれるぞ。」
ふっと内大臣の口調が柔らかくなる。
「きっと父上のご期待に応えて見せます。」
朔姫が微笑えみながら返すと、右大臣は満足そうに踵を返して静かに母屋を去って行った。怒りはだいぶ納まったらしい。右大臣が朔姫を訪ねてくる時はいつもそうだ。不機嫌な様子で現れて、いつの間にか機嫌を直して帰って行く。右大臣自身、この効果に気付いているからこそ、度々朔姫を訪ねるのかもしれない。亡き妻が残した一人娘として、朔姫は十分に父の愛を感じていた。帝の義父の地位を手に入れるためと言っても、東宮との結婚が朔姫にとっても悪いものではないことは確かで、だからこそ、右大臣も熱心にこの結婚を進めようとしているのだ。
間もなく、朔姫は硯箱を取り出して文を書き始めた。父のためにも、自分自身のためにも、立派な文を書き上げて東宮の関心を買わなくてはならない。噂の東宮はどんな人だろう。わくわくと想像を巡らしつつ文を綴ると、言葉は思いの外あっさりと溢れてきた。
書き上がった文を女房に託す。返事の来るのが楽しみだった。
東宮からの返事は、思いもかけない形ですぐに朔姫の元へ届いた。
「姫様、東宮殿下からの御文が届きました。」
女房の声に、朔姫は思わず顔を綻ばせる。一日で返事が届いたことは、そう悪くない反応だろうと期待が募る。
「それで、御文は?」
几帳の中へ姿を現した女房に朔姫は問い掛けるが、女房は困った顔をして見せ、届いた文を朔姫に渡そうとしない。
「どうしたの?」
「実は、御使いの方がぜひ姫様にご挨拶申し上げたいと……。」
女房の言葉に、朔姫は顔を顰めた。いくら東宮の使いと言っても、使いは使いだ。右大臣の娘である姫君が下級役人に会うはずもない。庇へ上げるのだって普通では考えられないことだった。
「お断り申し上げて。今日は体調が優れないからと。」
朔姫はきっぱりと女房に告げる。朔姫が想いを文に認めたのは東宮のためであって、東宮の遣いの下級役人のためではない。
「しかし、その御使いの方が内大臣なのですが、それでもお断り申し上げますか。」
女房の言葉に、朔姫は驚いて目を瞬かせた。内大臣と言えば父の右大臣にも匹敵する高級官人だ。そんな人が使いとして東宮からの文を朔姫に届けるためだけにやってくるとは考えづらい。
「それは本当に私宛の御文なの? 父上に御用があるのではなくて?」
朔姫は女房に聞き返した。
「いえ、私も二度ほど確かめましたが、姫様にご挨拶したいのだと……。」
朔姫はしばし女房を顔を見合わせる。父の政敵でもある内大臣が東宮からの文を持ってやって来るだなんて、何か裏があるに違いなかった。
「分かったわ。お通しして。」
朔姫は決意と共に女房に告げる。仮に内大臣が何か企んでいるのだとしても、話をすれば逆に相手の企みを見抜けるかもしれないと朔姫は考えた。内大臣の企みが分かれば、父のために少しは役に立つこともできるかもしれない。朔姫は姿勢を正して内大臣を迎えることにした。
間もなく、内大臣が庇に現れ、口を開いた。
「突然お訪ねしてご迷惑でしたでしょうか。」
柔らかな声が響く。朔姫は几帳の隙間から更に御簾を隔てた向こう側に内大臣を見た。微笑を湛えて真っ直ぐにこちらを見つめている。尤も、御簾越しで更に几帳を隔てているのだから、明るい向こう側から暗い部屋の中の様子はほとんど分からず、内大臣に朔姫の姿が見えるはずはない。
「東宮殿下がお返事はすぐにお届けした方が良いだろうと私に御文を託されました。お父上にもお世話になっておりますので、姫様にはきちんとご挨拶申し上げるようにとも仰せつかっております。」
柔らかな声には何の企みも感じられなかった。内大臣が庇に現れてから、腰を下ろして口を開くまでの動作を見ても、洗練された上品さが窺える。いつもばたばたと大きな音を立ててやってくる右大臣の父とは大違いだ。もちろん、あれは機嫌が悪い時の身内の前に限った行動なのだろうが、そのことを差し引いても、内大臣の所作には一目を置くべき高貴さがあった。
「まさか内大臣がわざわざ御文をお届けくださるとは思いもよりませんでした。」
朔姫はほっとしつつも警戒心を解くことなく返す。
「こちらは丁度、御所からの帰り道でしたから。」
内大臣は穏やかな口調で言った。特に何か裏があるような話ではない。
「でも、東宮殿下からの御文を私にお届けくださって、もし東宮殿下と私が結ばれたら、私に東宮殿下を取られて寂しく思われるのではありませんこと?」
探りを入れるつもりで、朔姫は内大臣に尋ねた。暗示しているのは、朔姫と東宮が結ばれれば政権の要を右大臣家に取られることになるということだ。内大臣は一瞬言葉に詰まった様子だったが、すぐにくつくつと笑った。
「私は男ですから、東宮殿下と結婚はできませんので。」
上手くかわされたと朔姫は思う。
「でも、内大臣の姫君も東宮殿下をお慕いされるんじゃないかしら?」
朔姫はより核心に近付くよう問い直したが、今度は間髪入れずに内大臣が笑いながら口を開いた。
「姫様、私はまだ独り身でございます。」
内大臣の答えに、朔姫はぽかんと口を開けたまま返事もできない。
内大臣の声は父よりは多少若そうに聞こえるものの、内大臣の地位にある以上はそれなりの年になってはいるはずだった。内大臣の地位にあって未だに独り身とは尋常ではない。
「結婚なさらなかったの? これまで一度も?」
「はい、一度も。」
朔姫の問いに、内大臣は照れたように笑った。
「女の人がお嫌い?」
素朴な疑問として、朔姫は内大臣に質問を重ねる。日頃、右大臣の父から愚痴ばかり聞かされているせいでどんな嫌な奴だろうと思っていたが、こうして言葉を交わす限りでは嫌な感じは全くしない。むしろ穏やかな声に心惹かれ、御簾越しではっきりとその顔を見ることができないのが残念だとさえ思った。
「いえ、そう言うわけではないのですが……。」
内大臣は困ったように語尾を小さくする。
「まあ、もったいない。」
純粋な感想だった。御簾越しではあるものの、内大臣の見目形にどうしようもない欠陥があるとは思えない。そんな噂を聞いたこともない。
内大臣の姉は、既に亡くなられてはいるものの今の帝の后で、東宮の叔父に当たる。今は亡き帝の后もとても美しい人だったと聞くし、東宮の噂もある。この二人の血縁である内大臣なのだから、美しいのが当然だ。
すっかり忘れていたが、もし朔姫が東宮の后となれば、内大臣は朔姫にとっても親戚の一人となる。そうなればもっと近くで内大臣と言葉を交わすこともできるかもしれない。ふと朔姫の心臓は速い鼓動を打ち始めた。
「あまり長居をしてもご迷惑でしょうから。」
内大臣の言葉で朔姫は我に返る。
「もう少しお話をしていらしても良いのに……。」
反射的に内大臣を引き止める言葉が漏れていた。
「ご迷惑でなければ、また改めて参ります。お父上にもよろしくお伝えください。」
内大臣がそう言って立ち上がる。
「ええ、伝えます。」
朔姫は自らの軽率な言動を恥じつつ、静かに答えた。内大臣は会釈を返し、来た時と同じように静かに庇を歩いて行く。朔姫は東宮からの文を文台の上に載せたまま、しばらく物思いに耽っていた。
「どうして父上はあんなにも内大臣を嫌っているのかしら。」
これまで父から山ほど聞かされた内大臣の悪口を思い出しつつ、そのどれもが今話をした内大臣には相応しくないような気がして、朔姫は首を傾げながら東宮からの文を検めた。
文には歌が一首。会ったこともない朔姫の美しさを称えつつ、自分には相応しくない、もっと他に素晴らしい人がいると告げている。要するに、朔姫の文は東宮の関心を買うのに不十分だったらしい。
わざわざ内大臣を使いにしてまで届けさせるくらいだからと期待していたのだが、内大臣が言ったように、単に帰り道になるからついでにと頼んだだけか、あるいは右大臣の娘と言うことで気を遣って少しだけ特別扱いをしてくれたということに過ぎないのかもしれない。いずれにしても、今後に期待できるような内容の文ではない。
「おい、奴は何をしに来たんだ!?」
ばたばたと音を立てて、右大臣が駆け込んで来た。
「どうされたんです、お父様。」
朔姫はため息を吐きつつ、右大臣に問う。
「どうしたって今、表で奴の、内大臣の牛車を見たぞ。しかもお前に用があって来たそうじゃないか。一体奴がうちの娘に何の用だ!?」
右大臣は興奮した様子で腰も下ろさず捲くし立てた。
「落ち着いてください、父上。内大臣は私に東宮殿下からの御文をお届けくださっただけです。父上によろしくと。」
朔姫は冷静に答える。
「文? 東宮殿下からの? 何で奴が届けに来るんだ!」
右大臣は怒ったように声を上げた。
「内大臣は東宮傅でもあらせられますから。御所からお帰りになる通り道だからと東宮殿下から頼まれたのだとおっしゃっていました。」
「奴め、何を企んでいるんだ。」
右大臣は一向に内大臣に対する敵意を取り去ろうとはしない。思い込みの激しさは人一倍なのだろう。
「それで、東宮殿下からの文には何と書かれていたんだ?」
怒りを静めた右大臣は我に返って朔姫に問う。
「私の文は東宮殿下の琴線には触れなかったようです。ご興味がないようですわ。」
朔姫が苦笑しながら漏らすと、右大臣はみるみる顔を赤くして不快感を露にした。
「諦めてはならんぞ! 一度や二度くらい断られても強く想いを伝え続けるのが恋というものだ。それに、その文は奴が届けたものだろう? もしかすると奴が途中ですり替えたのかもしれんじゃないか。そうだ、きっとそうに決まっている! よし、今度は私が直接東宮殿下にお届けして、直接返事を貰ってこよう。もう一度文を書きなさい。東宮殿下は和歌がお得意であらせられるから、前回よりも良い歌を詠みなさい。後で私が見てあげよう。」
右大臣は一気にそう言うと、満足した様子で去って行く。いつもの通りだ。作った和歌を右大臣に見せたところで、大して良い助言が得られるとも思わないが、朔姫は再び東宮へ捧げる和歌を考え始めた。
ぼんやりと想い人の姿を夢想するも、意識はすぐに東宮から別の人間へと移ってしまう。脳裏を巡るのは穏やかな声。御簾越しに見た内大臣の姿が脳裏に浮かぶたびに、朔姫の心臓は大きく音を立てた。