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月影物語

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第四章 背負いし宿命 ―― (3)

 その後、朔姫は何度か東宮へ文を書いたものの、気のある返事はなかなかなく、文の内容は桜が美しいとか紅葉が美しいとかそんな季節の移り変わりを愛でる話ばかりになってしまった。それでも右大臣は、朔姫が東宮と文のやり取りを続けていることを大いに喜び、朔姫もたあいのない文のやり取りを楽しんでいた。
 東宮への文を書いては、返事が来るのを楽しみに待つ。今日来るかと思って来ないとその夜は憂鬱で、文が届いた日は穏やかな気持ちで床に就くことができた。
「涼しくなりましたね。」
 内大臣が朔姫に声を掛ける。今日もまた、内大臣が東宮からの文を届けに来ていた。東宮からの文は内大臣を介して朔姫に届けられることが恒例となっている。右大臣が東宮からの返事を受け取りに御所へ赴いたこともあるのだが、不幸にも、それは決まって東宮が内大臣に文を託した後だった。
「ええ、おかげで先日、うちの者は数人揃って体調を崩してしまいました。料理の得意な女房が倒れてしまって、三日間妙な味の粥ばかり食べていたら余計にみんな体調を崩してしまって……。」
 朔姫はくつくつと笑いながら話す。気持ちの高揚に合わせて自然と声も高くなった。
「それは大変でしたね。私も気を付けましょう。」
 内大臣は相変わらず柔らかな声で答える。穏やかな声音に包まれ、朔姫は春の陽射しの中に居るような心地好さを感じた。内大臣の前では不思議と安らぎを感じる。
 内大臣が東宮からの文を届けに来るたびに交わされる会話は東宮からの文と同様、当たり障りのない季節の話がほとんどだったが、その会話の時間は少しずつ長くなっていた。今日は日暮れまで話し続け、内大臣が腰を上げると同時に、ばたばたと大きな足音が響く。屋敷の中をこんな風に走り回る人間は一人しか居ない。主である右大臣だけだ。
「どうして貴様がここにいる!?」
 右大臣は今にも内大臣の胸倉を掴み上げそうな勢いで叫んだ。
「東宮殿下からの御文をお届けに……。」
「だったら文だけ届けてとっとと帰れ! 毎回毎回、一体私の娘に何の用だ!? 何を企んでいるのか知らんが、娘を誑かしてどうこうしようと思っても無駄だぞ。娘は東宮妃になるのだからな!」
 右大臣は内大臣が言い終わらぬうちに捲くし立て、それから甲高く笑い声を上げる。内大臣は困ったように肩を落としていた。
「それはおめでたい話ですね。姫君のような聡明な姪ができるのなら私も大歓迎です。」
 内大臣はあくまでも落ち着いた声で返す。端から右大臣の自慢も見栄も相手にする気はないらしい。
「……分かったぞ!」
 全く挑発に乗ってこない内大臣に苛立った様子で唇を噛み締めた後、右大臣は声を上げた。
「自分に娘がいないから、うちの娘を手懐けて東宮妃にして娘を通じて次の帝を思いのままに操って政を進めようと考えているのだろう!」
 右大臣は内大臣を指差して叫んだが、朔姫は父親のあまりの幼稚さにため息を漏らす。その計画はそっくりそのまま右大臣自身の計画に違いなく、今ので右大臣はすっかり手の内をばらしてしまった。尤も、この程度の計画は既に広く知られていることに違いなく、今更隠すまでもないのかもしれない。年頃の娘を持つ貴族は誰もが皆同じようなことを考えている。
「それは良いお考えですね。参考にさせて頂きます。」
 内大臣はあっさりと右大臣の攻撃をかわすと、軽く会釈をして右大臣とすれ違った。
「に、二度と来るんじゃないぞ!」
 右大臣は内大臣の背中に向かって叫び、内大臣はゆっくりと振り向いて口を開く。
「私は東宮殿下のご命令で姫君に文をお届けに参っただけです。もし私の来訪がお気に召さないのであれば東宮殿下に私に文を託さぬようお申し出ください。」
 内大臣はあっさりそう言い切ると静かに庇を歩いて行った。右大臣は口を噤んだままわなわなと拳を握り締めて震えている。東宮には既に何度も文は自分が取りに行くと申し出ているはずなのだが、東宮は文が書き上がるなりそれを内大臣に託してしまって、右大臣の願いはなかなか叶えれずにいた。右大臣はそれを一刻も早く返事をしたいという朔姫に対する東宮の愛情の表れと解していたが、文を届ける使者が常に内大臣であることは大いに不満だった。文を誰に届けさせるかなんて大したことではないが、東宮が大事な文を内大臣に預けるのは東宮が内大臣を信頼している証拠であるし、右大臣が内大臣は信用できないから自分に預けてくれなどと言えるはずもない。
 内大臣の言は右大臣には東宮を説得する力がないことを前提とした皮肉であると同時に、朔姫を手懐けて東宮妃とするまでもなく、内大臣は次の帝となる東宮の信頼を十分に得ているという主張でもあった。
 右大臣が正面から吹っかけた争いを内大臣は軽々とかわしてしまうのはいつものことだったが、争う気がないという意思表示は右大臣を勝負と相手とすら見ていないということでもある。
「生意気な奴だ。どこの馬の骨とも分からん奴が我々一族に楯突くなど!」
 右大臣はしつこく呟きながら地団太を踏んだ。どこの馬の骨とも分からんと言うのは、内大臣が下流貴族の出であるからだろう。姉が入内して帝に寵愛されるようになってから、内大臣もその才覚を認められて重用されるようになったが、元々の地位は右大臣家からすれば遥か下の貴族の端くれだった。それが若くして内大臣の地位を得、帝の重用されているのだから、右大臣に限らず由緒正しい一流貴族を自負する者たちの反感を買うのも無理はない。
 長年の働きで評判はだいぶ上がっているようだが、右大臣だけは朔姫が物心付いた時から内大臣に対する評価を全く変えていない。いつも穏やかな内大臣と直情的な右大臣ではそもそも性格が合わないのだろう。事あるたびに対立し――そしてそれは大概、右大臣が一方的に争いを吹っ掛けたことに始まり――朔姫は日々内大臣の悪口を聞かされて育ってきた。これまでだってその悪口を全てその通りに信じてきたわけではないが、実際に内大臣と話せば話すほど、内大臣が右大臣の語るような生意気な鼻持ちならない人間とは思えなくなる。今では右大臣が内大臣の悪口を言うたびに右大臣の幼稚さに頭が痛くなるくらいで、そろそろ娘として一言忠告しなければならないのではないかと朔姫は思っていた。尤も、それをすれば娘を溺愛している右大臣は娘の反抗に三日は寝込むに違いない。
 以前、北の方が亡くなって間もない頃、朔姫は一度だけ右大臣と大喧嘩をしたことがあった。喧嘩の原因が何だったのかはもはやよく覚えてはいないが、その時に朔姫が吐いた暴言のために、右大臣は一週間床に伏し続けた。最愛の娘が自分に反抗にしたことに傷付いてしまったらしい。さすがに心配になって八日目に朔姫が謝罪の意を込めた歌を贈ると、右大臣は何事もなかったかのようにすぐに足取り軽く朔姫の部屋を訪ねてきたのだが、一時は本当に病人のようだったと聞く。当時、妻を亡くして意気消沈していたせいもあろうが、その後、右大臣が子離れできたとも思えなかった。
 罵詈雑言を尽くして内大臣を罵り続けた右大臣は、間もなく悪口の言葉も思いつかなくなったのか、静かに口を閉じた。
「それで、東宮殿下の御文には何と書いてあったのだ?」
 すっきりした表情で御簾を潜ると、何事もなかったかのように几帳の前に腰を下ろして朔姫に問う。
「御所では梔子がえも言われぬほど美しく咲いているそうです。」
 朔姫は忠告の言葉を飲み込み、端的に答えた。せっかく落ち着いた右大臣に余計な忠告で再び怒りを思い出させたくはない。
「それだけか?」
「はい。私に見せられないのが残念だと。」
 朔姫は笑う。御所の梔子を見せたいと言わずに見せられなくて残念だと言うのは、朔姫を御所に招くつもりはないという遠回しの表現だった。
「だったら、今度その素晴らしい梔子を見に行きたいとお返事しなさい。いや、いっそ一つ枝を折り取って持って来て下さいと言った方が良いだろうか。それとも我が家の梔子も素晴らしいから見に来て欲しいと書こうか。」
 右大臣とて返事に込められた意味に気付いていないわけではないのだろうが、強気に圧し続けるつもりらしい。右大臣の性格からすれば当然の考えだが、文を書くのはあくまでも朔姫であるのに、まるで自分が文を書くような口ぶりで返事の内容を考えている右大臣が朔姫にはおかしく思え、朔姫は女房と顔を見合わせつつ、几帳の陰で小さく笑った。
 子煩悩な父との会話も、内大臣とのたわいのない会話も、東宮との文のやり取りも、朔姫にとって幸せな一時に変わりない。この先もずっと穏やかな日々が続いて行くのなら、たとえ東宮妃になれなくとも自分は幸せだと朔姫は思った。

 転機が訪れたのは中秋の名月の翌日。それはまさに青天の霹靂だった。
 ――東宮の急死。
 第一報は、右大臣の帰宅と共に内容を変えた。
「まさか自ら命を絶つだなんて。全てが台無しだ!」
 どしどしと思い足音を響かせてやって来た右大臣はどすんと几帳の前に腰を下ろすなり声を上げた。
「自ら命を断ったってどなたが?」
 朔姫が驚いて聞き返すと、右大臣はしまったというように表情を変える。しばらく答えに迷った後、右大臣は開き直った表情で口を開いた。
「東宮さ。あの男、御所で自分の喉を掻っ切った。どうかしてる。」
 右大臣は左右に首を振りながら言い、朔姫は右大臣のあまりにも衝撃的な言葉に息を呑む。
「どう……して? どうして東宮殿下が!?」
 思わず声を荒げて問い返すと、右大臣は唇を噛みながら息を漏らした。
「あの男は帝に隠れてかぐや姫と契りを結んでいたのだ。私の娘に気があるような素振りを見せながらかぐや姫と!」
 右大臣は拳を膝へ打ちつけ、怒りを露にする。東宮を「あの男」と呼ぶくらいだから、右大臣がかなり感情的になっていることは間違いなかった。娘が軽んじられたことへの怒りに、東宮が自分が口説き損ねたかぐや姫と結んでいたことへの怒りも混じっているらしい。尤も、朔姫からすれば東宮は端から朔姫に気のある様子など微塵も感じさせてはいなかったのだが、文のやり取りが続いていたというだけでも右大臣にとっては気のある素振りとなるのだろう。文が途絶えれば礼儀を知らぬと罵るに決まっているのに、文を送り続けても最終的に右大臣の思い通りの結果に至らなければ同じように罵るのだ。朔姫は右大臣の相変わらずの幼稚さに呆れたが、そんなことを一々追及している場合ではなかった。
 東宮が噂のかぐや姫と結んでいたということは朔姫にとっても驚きだったが、そのことに傷付きはしなかった。東宮が自分を思っていないことは分かってしたし、どんなに熱く思いを伝えても上手くかわして当たり障りのない返事を返してくる東宮の文を見て、他に思う人がいるのではないかと言うことは薄々感じていた。その相手が右大臣の父や帝さえも虜にしたかぐや姫というのなら、負けたことも致し方ないと思える。月の都の住人だというかぐや姫が相手では端から勝負にならなかったと言って良い。
 問題は、東宮が自害したという事実だ。帝がかぐや姫に格段の思いを寄せていることは朔姫の耳にも入るほど周知の事実となっていたし、父親の――しかも時の帝の――思い人を横取りしたと言うことが体裁を欠くのは言うまでもない。しかし、かぐや姫は帝のお召しを受け入れぬまま月に帰ってしまって、結局、かぐや姫は帝と結ばなかったのだから、東宮がかぐや姫と結ばれていたからと言ってそれは東宮が自害しなければならないほどのことだろうか。
「東宮殿下はどうして……?」
 朔姫は、ぶつぶつと文句を口にし続けている右大臣に問い掛けた。右大臣なら東宮が自害した理由をもう少し詳しく知っているに違いない。真相が聞きたかった。結局、恋には発展しなかったものの、東宮は何度も文を交わした相手だ。亡くなったと聞けば寂しくもある。
「かぐや姫が東宮に宛てた文が帝の元へ届いたのだ。それで東宮がかぐや姫と契りを結び、その際にかぐや姫から月の力とやらを譲り受けたことが分かったのだ。帝は二人がその力を使って帝を亡き者にしようとしていると考えたようだ。」
 右大臣は低く抑えた声で囁く。
「それは本当ですの?」
「真偽は知らぬが、何ら言い訳をせずに自害したのだ。事実と認めたに等しい。おかげで内裏の中は大騒ぎだよ。東宮と内大臣に謀反の疑いが掛かったと思ったら、東宮が自害だなんて……。」
「え?」
 右大臣の話の中に新たに登場した人物に驚き、朔姫は聞き返した。
「内大臣に謀反の疑いが掛かったってどういうことですの?」
「東宮傅として年中側にいたんだ。かぐや姫と東宮のことも知っていた。奴も共犯だったということだよ。奴が失脚するだけなら大喜びするところだが、東宮に謀反の疑いが掛けられて自害だなんて、私の計画は台無しだ!」
 右大臣は大袈裟に頭を抱えて嘆く。
「東宮が自害して、内大臣はどうなりますの?」
 朔姫はごくりと唾を呑み込んで、恐る恐る尋ねた。
「帝は東宮の自害について緘口令を敷かれたよ。東宮と内大臣の謀反の件も含めてな。謀反の罪に問われた本人が死んでしまったんだ。帝も事を荒立てずに内々に処理したいと考えたのだろう。」
 緘口令が敷かれているにもかかわらず、あっさり全てを語っている右大臣に呆れながらも、朔姫はこの迂闊な父親に感謝する。
「奴が公に処分されることはないだろうが、将来はないな。奴にとっての唯一の後ろ盾だった東宮もいなくなったのだから、下級貴族に逆戻りだ。」
 右大臣は意地の悪い笑みを浮かべ、朔姫は右大臣の悪態に小さくため息を漏らした。それでも、内大臣が無事であることを知ってほっと胸を撫で下ろす。謀反となれば内大臣とて流罪は免れない。内大臣の地位は失うことになるだろうが、無事であってくれればそれだけで良い。
「問題は左大臣だ!」
 ふと思い出したように、右大臣は頭を抱えながら叫んだ。
「奴の娘が皇子を産んでいるからな。そいつが次の皇太子になるのだろうが、そうなれば益々奴は力を得、私の立場は弱くなるばかりだ。ああ、何てことだ! こんなことになるなら、東宮なんか放っておいてお前をさっさと入内させておくべきだった。」
 右大臣は頭を抱えたまま独り言を続ける。
「東宮があんな馬鹿なことをしなければ、まだ私の力で何とかできたものを……。せっかくの申し出を断りおって……。」
 右大臣は苦々しく唇を噛み締めた。その後も右大臣はぶつぶつと文句を呟き続けていたが、朔姫には何の話だか良く分からなくなってしまった。きっとややこしい政の話なのだろう。
 朔姫はそれ以上は何も問わずに黙っていた。東宮が自ら命を絶ったことへの驚きと悲しみを抱きながら、内大臣の柔らかな声を思い出す。会いたいと思った。
 その夜、朔姫は内大臣がいつものように東宮の文を持って現れることを夢に見た。

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