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月影物語

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第四章 背負いし宿命 ―― (4)

 朔姫の夢が現実となることはなかった。文の贈り手たる東宮がもうこの世にいないのだから当然のことだが、事件の後は内大臣が朔姫を訪うこともなかった。
 東宮の遺体は荼毘にふされ、陵墓に経が埋められて遺骨は寺に納められる。全ての儀式が済んだその翌朝、東宮の陵墓の前で倒れている内大臣が見つかった。東宮と同じように首筋に刀を当て、鮮血に身を染めてこと切れていた。遺書には歌が一首。
 ――命を受け春芽見守る我ならば枯れし時こそ役は終わらめ。
 内大臣の死はすぐに京中に知れ渡ったが、東宮が急死した時のような混乱は生じなかった。しかし、内大臣の死は東宮の死以上に朔姫の心を乱した。
 理由が分からない。どうして内大臣までもが死を選ばなくてはならなかったのか、朔姫には全く理解できなかった。
 東宮が自害し、内大臣は謀反の罪に問われることはなくなった。事件は終わったはずだった。東宮の自害の報と共に内大臣の無事を聞いた朔姫は心の底から安堵したのだ。一時の騒ぎが沈静化すれば、きっとまた会えると信じていた。再びあの柔らかな声が聞けるのだろうと、たあいもない季節の話に興じて穏やかな時間を過ごせるのだろうと信じていた。願っていた。
 東宮の死を聞いたときには零れなかった涙がとめどなく溢れ、袂は一向に乾かない。朔姫は御帳台に篭って泣き続け、これまで意識の奥に閉じ込めてきた想いをはっきりと悟った。
 東宮からの文を楽しみにしていたのは、東宮の文を届けに来る度に内大臣と話すことができたからだ。内大臣の柔らかな声が好きだった。
 それは朔姫にとって最初で最後の恋だった。
 悲しみから立ち直る暇もなく、事態は急速に悪しき方へと進んでいた。孫を皇太子に立たせた左大臣は力を伸ばし、反対に右大臣は力を失った。亡くなった内大臣に代わって、左大臣が帝の信頼を得るようになり、左大臣は帝の信頼を武器に次々と政敵を排除し始めた。優秀な学者たちが謀反の罪を着せられて次々と流罪になり、政は全て左大臣の思うがままに動く。挙げ句、左大臣は息子にその地位を譲り、太政大臣となった。
 右大臣は辛うじてその地位を保持してはいたものの、実権は完全に奪われ、栄華を極める太政大臣の一族とは反対に、広い邸宅を維持するのも困難になるほど困窮した。そして天災の続いたある年、ついに右大臣は流行り病に罹って倒れてしまった。ただでさえ太政大臣との対立に神経をすり減らしていた右大臣は、床に臥すなり瞬く間に痩せ衰え、手を尽くして看病しても一向に回復の兆しを見せない。
「東宮が馬鹿なことをしなければ、あの月の力を手に入れることができさえすれば……。」
 そう言い残して、右大臣は静かに息を引き取った。
 一人残された朔姫の生活は益々困窮したが、かつて右大臣家と親しくしていた多くの貴族は太政大臣と左大臣の一族によって政の中心から廃されて落ちぶれ、朔姫が援助を求められるような人間は京に残っていなかった。卑しい企みを持った下級貴族の中には、下心たっぷりに近付いて来る者もあったが、朔姫は決してそれらの者に心を許しはしなかった。しかし、次第に使用人を養うことすらままならなくなり、長年仕えた者たちも少しずつ朔姫から離れ始めた。
 ある晩、一人の男が朔姫の休む母屋へ上がり込んだ。朔姫が招いたわけではない。僅かな金品を掴まされた誰かがこっそりと引き入れたのだろう。朔姫には全く見ず知らずの男だった。
 その頃の朔姫は食事も十分にできないほど困窮していたから、僅かな金品のために主を裏切る者がいたとしても、朔姫をその者を責めることはできなかった。彼らにも生活があるのだ。しかし、たとえ落ちぶれても右大臣の娘――一流貴族の姫君としての誇りを捨てることはできなかった。男が几帳を捲って御帳台の中へ入り込む前に、朔姫は万が一の時のためにと隠し持っていた小刀で躊躇うことなく自らの喉を掻っ切った。暗闇に散る黒い飛沫を眺めながら、朔姫は東宮と同じ方法で自害を図ることになった皮肉を笑う。
 右大臣が言い残した通り、東宮が自ら命を絶つ道を選ばなければこんなことにはならなかったのかもしれない。少なくとも、内大臣までもが命を落とすことにはならなかっただろう。全ての元凶は東宮なのだ。
 東宮が朔姫を后に迎えていれば、今頃は右大臣が太政大臣となっていたに違いない。朔姫は東宮御所にあって、側にはきっと内大臣の姿もあっただろう。父の願いは叶い、朔姫も平穏の中に身を置くことができたはずだった。
 全てを台無しにしたのは東宮だ。東宮の決断が全てを変えてしまった。
 朔姫は右大臣の最後の言葉を思い出しながら、独り暗闇の中で息絶えた。


 「私は全てを奪われたの。あなたのせいよ。あなたが私の全てを奪ったの。父上の夢も、あの人も……。」
 ふっとカグヤの手が緩まり、アズマはこほこほと咳き込んだ。
「お、俺は東宮なんかじゃない。それに、お前の話は変だ。」
 アズマが言うと、再びカグヤはアズマの胸元をぎゅっと掴む。
「だ、だって、お前は東宮じゃなくて内大臣のことが好きだったんだろう? それなのになんで東宮妃になりたがる? どうして東宮を求めるんだ。」
 カグヤの手を掴んで抗いながら、アズマは声を絞り出した。
「それが父上の願いだから。あの時、一族の繁栄ためには東宮妃の立場がどうしても必要だった。そして今は、月の力が必要なの。あなたの魂に宿る月の力を手に入れて、一族を再興するのよ。あなたがかぐや姫と結んで手に入れた力、今度は私と結んで私に頂戴。」
 カグヤが笑う。冷たい笑みにアズマは息を呑んだ。身体が強ばって全身の自由が利かなくなる。カグヤは身体をぴたりと当ててアズマを押さえ込んでいた。カグヤの顔が間近に迫り、吐息が掛かる。意識が朦朧として呼吸が速くなった。全身を駆け巡る血が熱い。
 ――奪われる。
 アズマははっきりと危機を悟った。大切なもの、守らなければならない何かが奪われそうになる感覚を確かに感じた。それが何なのかはっきりとは分からなかったが、ただ危険を、絶望を感じた。
 悪寒と吐き気に襲われてアズマが限界を悟った瞬間、バンッと大きな音が響く。
「アズマ!」
 名前を呼ばれると同時に重苦しい空気が軽くなり、アズマは反射的に飛び起きた。カグヤを突き飛ばしてベッドから立ち上がると、部屋の入り口に見慣れた顔がある。雅臣と望が立っていた。
「どうして……ここに?」
 幼馴染みの登場に安堵する一方、驚きと不安に襲われる。望とも雅臣とも、気まずい関係が続いていた。果たして二人が自分にとって救いとなるのか、アズマは確信できなかった。
「何とか間に合ったみたいだね。」
 雅臣はアズマの問いに答えず、微笑を浮かべてゆっくりとアズマに近付いてくる。その表情は見慣れた幼馴染みのものに違いなかったが、アズマにはまだ微笑み返す余裕はなかった。
「何をしに来た!? 邪魔はさせんぞ!」
 ばたばたと音を立てて宇野が部屋に飛び込んで来た。入り口に立っていた望を押し退け、部屋の中央へ駆け寄ろうとするが、望がそっとその肩へ手を伸ばすと、宇野は腰が抜けたようにへなへなと床へ座り込んでしまう。
「本物のかぐや姫は望ちゃんだ。彼女は目覚めたよ。もうこれ以上お前たちの好きにはさせない。」
 雅臣は入り口を振り返って言う。
「く……何をしているんだ、朔姫! 早く東宮と結んで月の力を奪うんだ!」
 宇野はカグヤに向かって必死の形相で叫んだ。アズマには何がなんだか分からない。御伽噺の芝居が続いているようにしか思えなかった。前世の話も月の力も、アズマは未だに信じることができなかった。
 不意にぎゅっと手首を掴まれる。ベッドに腰を落としたままのカグヤが手を伸ばしていた。アズマは一瞬身構えたが、カグヤはアズマの手首を掴んでそれ以上は何もしようとしない。カグヤの目線が雅臣を捉え、そこでアズマは気が付いた。
 あの御伽噺を信じるならば、カグヤの前世である朔姫が思いを寄せた相手は雅臣の前世である内大臣なのだ。
「無駄だよ。本物のかぐや姫が目覚めた以上、君たちに抗う術はない。」
 雅臣の声は冷たくカグヤに呼び掛けた。
「何をしている! 諦めるんじゃない。もう少しで、あと少しで月の力が手に入るのだぞ!」
 宇野が声を上げるが、カグヤの手はそっとアズマから離れてすとんと落ちる。俯いたカグヤの肩は微かに震えていた。カグヤに対する恐怖は既にない。目の前にはただ弱々しい一人の女の子がいるだけだ。
「朔姫!」
 宇野が急くように叫ぶ。アズマはそっとカグヤの隣に腰を下ろし、その両肩に手を置いて抱き寄せた。
「アズマ……!?」
 雅臣が驚いた表情で声を上げる。
「もう、良いだろ? 俺には何がなんだかさっぱり分からないけど、こんな三文芝居はもう十分だ。」
 アズマはカグヤの横顔を眺めながら声を絞り出した。今にも泣き出しそうに潤んだ瞳は、じっと忍ぶように床の一点を見つめている。ぎゅっと唇を噛み締め、拳を握り締めて震えている。
「もう大丈夫だ。」
 アズマはそっとカグヤに囁いた。
「アズマ、これはお芝居じゃないんだ。」
 うろたえた様子で雅臣が言う。
「君は望ちゃんと結ばれなくちゃならない。アズマも望ちゃんもずっと待ち続けたんだ。お互いにずっと想い続けてやっと再び巡り会った。僕はもうこれ以上悲劇を繰り返したくない。」
「分かってる。」
 アズマはそっとカグヤの肩から手を離し、ベッドから立ち上がった。
「だからこそ、ここで終わりにしなくちゃならない。もう十分だよ、内大臣。」
 アズマは柔らかく微笑むと同時に、自分の吐いた台詞に驚く。はっと息を呑む雅臣の姿を捉えた後、突然、視界が揺れてアズマは意識を失った。

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