ここち

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月影物語

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第五章 輪廻解放 ―― (1)

 昨晩、アズマが公園から逃げるように去って行ってから、雅臣はずっと後悔し続けていた。せっかく得た話し合いの機会を生かすことができなかった。それどころか、今回のことでアズマは雅臣に対して更に不信感を強めたかもしれない。
 まだ目覚めていないアズマは東宮の記憶を持たない。東宮とは全く別の人格なのだ。それは十分承知していたはずなのに、ふと浮かぶ東宮の面影に心はひどく揺り動く。落ち着いて着実に事を進めなければならないのに、気は焦るばかりだった。もうずっと昔のことなのに、昨日の事のように思い出せる前世の記憶が恐怖を生む。
 また失うのではないか。自分は何一つ守ることができないのではないか。
 自分の無力さに対する後悔が頭から離れない。
 鮮血の飛び散るあの惨状が何度も瞼の裏に甦り、結局一睡もできぬまま、雅臣は朝を迎えた。カーテンを開けると、明るい日射しが目に飛び込んで来る。窓を開けると爽やかな風がするりと部屋の中に滑り込んできた。あの朝と同じ匂いがする。
 不意にぎゅっと胸を締め付けられるような痛みに襲われ、雅臣はカーテンを掴んだままうずくまった。
「殿下……。」
 縋るように呼び、カーテンを強く握り締める。
 必死になってもがけばもがくほど、事態は悪化の一途を辿っていた。まるで蜘蛛の巣に掛かった蝶のようだ。
 前世の記憶を取り戻した時から、このような事態が生じることへの予感はあった。前世の記憶を取り戻したからには、そこに何が意味があるに違いないのだ。
 カグヤが転校して来て、すぐにこれだと直感した。カグヤの凛とした声があまりにも右大臣家の姫君に似ていたからだ。カグヤが必要以上にアズマとの接触を求めたために、疑いはすぐに確信へと変わった。
 あの頃、右大臣家の姫君が東宮へ熱心に文を送り続けていたことは度々東宮からの返事を届けに行った自分が誰より良く知っていたし、その目的も明白だった。再び現世に甦った魂が東宮を求めるだろうと想像することは容易い。更に、清涼殿で帝が月の力について口にした時に右大臣もその場にいたことを思い出せば、カグヤの狙いが東宮自身である以上にその魂に秘められた月の力であり、そしてその背後に右大臣がいるであろうという考えに至る。
 こうなることは分かっていた。だからこそカグヤを警戒し、アズマにカグヤに近付かないよう忠告した。自分の役割は分かっているつもりだった。今度こそ、東宮の魂はかぐや姫と結ばれなくてはならない。二人が無事に結ばれるよう見守るのが自分の役目だと思っていた。前世で為し得なかったことを今度こそ為さなければならない。同じ過ちを繰り返すわけにはいかなかった。
 それなのに……。
 宇野とカグヤは既に動いている。アズマは今日、宇野の家に遊びに行くと言っていた。奴らにとっては計画を実行に移す絶好の機会だ。もう時間がない。
 また失うのだろうか。また何もできぬままただ見守ることしかできないのだろうか。
 ふらふらと立ち上がるも、身体が重い。雅臣は倒れ込むようにベッドに横になった。眠っている場合ではないのに、瞼は重く瞳を覆う。いつの間にか雅臣の意識は遠のいていた。
 久しぶりの安らかな眠りだった。ぐっすりと眠り込み、ふと目を開くと雅臣は薄紅色の部屋の中にいた。悪夢なしに目覚めるのは久しぶりだ。ぼんやりと天井を見上げたまま少しずつ脳を覚醒させ、ふと部屋が薄紅色をしていることの意味に気付き、雅臣は飛び起きた。窓から西日が射し込んで白い部屋を夕日色に染めているのだ。雅臣は半日も眠り続けたことになる。
 自らのあまりにも大きな失態に全身の血の気が引いた。今日、アズマは宇野の家へ遊びに行っているはずなのだ。今日、宇野とカグヤは今日中に事を起こすことは間違いなく、雅臣は宇野とカグヤに半日もの時間を与えてしまった。もう手遅れかもしれない。雅臣は役立たずな自分を呪いたかった。一体自分は何のために前世の記憶を取り戻したのだろう。再び苦しみを味わうためだと言うなら神はあまりにも無慈悲だ。
「姉上、私はどうして……。」
 雅臣は縋るように天井を見上げたが、誰も何も答えてはくれなかった。
 不意に玄関の呼び鈴の鳴る音がした。どうせ母が出るだろうと雅臣はぼんやり天井を見上げ続ける。階下でばたばたと音がして、間もなく声が掛かった。
「雅臣ーっ。お友達よー!」
 名前を呼ばれ、雅臣は立ち上がる。
 ――誰だろう。
 山ほどの不安と微かな希望を抱いて、雅臣は玄関へ下りて行った。扉を開け、門前に見慣れた顔を認めて、はっと息を呑む。
「アズマがどこにいるか、知ってる?」
 望は微笑んで問い掛けた。雅臣はゆっくりと頷いた。
「それなら今すぐ案内して。今ならまだ間に合う。行きましょう、東宮殿下の元へ。」
 望の言葉に、雅臣は反射的に口元を覆う。視界が滲み、嗚咽が漏れた。
「かぐや姫……。」
 雅臣がやっとの思いで漏らした言葉に、望は力強く頷いた。真っ直ぐに雅臣を見つめるのは全てを分かっている目だ。
「さあ。あなたの役目を果たして。」
 雅臣は大きく頷き、零れ掛けた涙を拭うと玄関を飛び出した。望を連れて宇野の家へと向かう。最後の最後に起死回生の好機を得た。
 ――まだ間に合う。
 いつの間にか恐れや不安は消えていた。自分の役割を果たし、同じ過ちは決して繰り返さないという強固な信念だけを持って、雅臣は真っ直ぐ宇野の家へ駆けた。
 呼び鈴も押さずに門をくぐり、玄関を入る。扉には鍵が掛かっていたはずだが、望が触れるだけで扉はいとも簡単に開いた。月の都の人の力を目の当たりにして、雅臣は驚きつつも真にかぐや姫の目覚めたことを実感して安堵する。
 玄関を入ると、望が正面の階段を指し示す。もうアズマの居場所が分かっているのだろう。雅臣は頷いて、階段を駆け上がった。
「右の部屋に。」
 望の声に従い、階段を上り切った雅臣は思い切り右手の扉を開く。
「アズマ!」
 部屋の隅のベッドの上に、カグヤとアズマの姿があった。
「どうして……ここに?」
 アズマがぼんやりとした表情で問う。まだ東宮の魂が目覚めてはいないのだろう。
「何とか間に合ったみたいだね。」
 雅臣はほっと肩の力を抜き、アズマに近付いた。あくまでも雅臣の口調で話し掛け、これ以上、アズマの警戒心を刺激しないよう気を遣う。
「何をしに来た!? 邪魔はさせんぞ!」
 ばたばたと階段を上がる音と声に振り返ると、宇野が部屋の入り口で崩れ落ちていた。望がそっとその肩に触れている。これも月の都の人の力なのだろう。
「本物のかぐや姫は望ちゃんだ。彼女は目覚めたよ。もうこれ以上お前たちの好きにはさせない。」
 雅臣は真っ直ぐ宇野を睨み付けて言う。
「く……何をしているんだ、朔姫! 早く東宮と結んで月の力を奪うんだ!」
 身体は動かずとも、口だけは達者に動かして宇野は叫んだ。視線を戻すと、カグヤがアズマの手首を掴んでいる。
「無駄だよ。本物のかぐや姫が目覚めた以上、君たちに抗う術はない。」
 今度はカグヤに向かって警告した。少しでも不審な素振りを見せればすぐに二人の間に入ってアズマを守る。雅臣は十分に警戒しながら二人を見つめた。
「何をしている! 諦めるんじゃない。もう少しで、あと少しで月の力が手に入るのだぞ!」
 宇野が再度声を上げるが、カグヤの手はアズマから離れてぶらりと垂れる。
「朔姫!」
 宇野はしつこく叫び続けるが、カグヤにこれ以上の戦意はないようだった。これでもう大丈夫だとほっとしたのも束の間、突然、アズマがカグヤの隣に腰を下ろしてカグヤの両肩を抱き寄せた。
「アズマ……!?」
 突然のアズマの行動に雅臣は慌てる。アズマはまだ目覚めていない。もしアズマが本気でカグヤに想いを寄せているのだとしたら、話はややこしくなるばかりだ。
「もう、良いだろ? 俺には何がなんだかさっぱり分からないけど、こんな三文芝居はもう十分だ。」
 アズマは穏やかな表情でカグヤを見つめながら呟く。
「もう大丈夫だ。」
 アズマは優しくカグヤに囁いた。その表情はかつてかぐや姫への思いを語った東宮とあまりにも似ていて、雅臣の不安は大きくなる。
「アズマ、これはお芝居じゃないんだ。」
 何とかしてアズマに状況を悟らせなくてはならない。いや、一刻も早く東宮に目覚めてもらわなければ……。
「君は望ちゃんと結ばれなくちゃならない。アズマも望ちゃんもずっと待ち続けたんだ。お互いにずっと想い続けてやっと再び巡り会った。僕はもうこれ以上悲劇を繰り返したくない。」
 心の底からの願いだった。
「分かってる。」
 アズマはカグヤの肩から手を離して立ち上がる。
「だからこそ、ここで終わりにしなくちゃならない。もう十分だよ、内大臣。」
 アズマが柔らかく微笑み、雅臣ははっと息を呑んだ。懐かしい東宮の面影がはっきりと見て取れる。
「殿下……。」
 そう呼び掛けた瞬間、アズマはふらりと身体を後方へ揺らした。
「アズマ!」
 反射的に駆け寄り、アズマの身体を抱きかかえる。顔の前に手のひらを掲げ、呼吸が正常であることを確認した。どうやら単に気を失っているだけらしい。雅臣がほっと息を吐くと同時に、背後から声が聞こえた。
「全く、余と同じでこの男もなかなかの頑固者だな。おかげで一向に外へ出られなかった。」
 振り返った雅臣は息を呑む。いつの間にか雅臣の背後には一人の男が立っていた。黄丹の袍に身を包んだその姿は、紛れもなく、かつて雅臣が東宮傅として補導した皇太子だった。

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