ここち

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月影物語

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第五章 輪廻解放 ―― (2)

 「久しぶり……と言うべきかな、内大臣。」
 突然現れた男――東宮は、雅臣に柔らかな笑みを向けた。切望し続けた再会に、全てが昨日のことのように思い出される。
「……殿下。」
 漏れたのは呼び慣れた呼称だった。言いたいことは山ほどあった。後悔と謝罪と疑問と。それなのに、一度に溢れ出た思いは喉で詰まって出てこない。
「いつまでも傍観者ではいられなかったものでね。少し無理矢理だが出て来ることにしたよ。彼は眠っているだけだ。心配要らない。」
 東宮は雅臣の腕の中で眠っているアズマを見下ろしながら言った。
「この男は余とよく似ている。」
 東宮はアズマに視線を落としたまま呟く。雅臣は黙って東宮の言葉を聞いていた。東宮が現れると同時に凛とした空気が辺りを支配して、身動きが取れない。それは決して不快なものではなかったが、抗い難い静かな冷たい空気だった。
「頑固で、干渉と束縛が嫌いだ。だから、余はなかなか外へ出してもらえなかった。自分の人生を他人に操られるのが嫌なのだろうが、それは余の本意でもない。」
 東宮は柔らかな笑みから決意へと表情を変え、視線を上げるとともに背筋を伸ばして振り返る。
「さあ、早く全てを終わりにしよう。」
 東宮は真っ直ぐに望を――かぐや姫を見つめていた。
「殿下!」
 向けられた背中がふいに遠ざかっていくような感覚を覚え、雅臣は反射的声を上げる。
「一体、何をなさるおつもりですか!?」
 アズマの身体を抱えたまま、雅臣は立ち上がり掛けて身を乗り出した。また失ってしまう、東宮が再び自分の元から去って行ってしまう。置き去りにされる恐怖に全身を縛られたような痛みを感じた。
「過ちを正したいのだよ。責任を果たさなければならない。」
 東宮が振り返って見せた笑みが雅臣を不安にさせる。あの時も、東宮は別れ際に微笑んだ。雅臣は度々東宮の微笑に込められた真意を図りかねたが、決して深くは訊ねなかった。語らないということ――それが東宮の答えなら、その意思を尊重したいと思ったからだ。しかし、今はその方針を貫いたことをひどく後悔している。訊ねるべきだった。きちんと訊ねて話をするべきだった。
「私にはまだ殿下にお聞きしたいことがあります。」
 強い口調で言った雅臣に、東宮はため息交じりに返す。
「分かっているさ。端から全てを語るつもりだ。内大臣には一つ話しておきたいこともあるからな。」
 そう言った東宮の表情は、いたずらを閃いた子供のように変わった。元服前のわがままな皇太子がしばしば見せた表情だ。不意に見せられた懐かしい表情に、雅臣は驚くと同時に込み上げる愛しさに息を止めた。
「ずっと内大臣に教えられるばかりだったが、余にも少しは教えられることがあるのだよ。」
 一人前を気取る子供は雅臣に向かってそう告げた後、ゆっくりカグヤを振り返る。カグヤが俯いて視線を逸らすと、東宮は笑みを零しながら望へ目配せした。
「少し長い話になるが、あの時私が何を考えていたか、何を望んでいたのか、全てを話そう。」
 瞳を閉じ、東宮は静かに切り出す。雅臣はずっと心の中に残っていた思いが解放される期待と不安から、無意識の内にアズマの手を握っていた。静かに東宮の言葉を待つ雅臣の前で、古の都が隠した真意は解け始める。


 ぼろぼろになって駆け込んできた内大臣が母屋を離れた後、東宮は改めてかぐや姫の文に目を落とした。東宮と契りを結んで月の力を託した後、そのことを月の都で罪に問われて俗世へ下り、竹取の翁の下で暮らすことになった経緯が説明され、大堰川での初めての夜から東宮が絶えず信じ続けてきたかぐや姫の想いが確かに記されている。幸せだった。東宮は瞳を閉じ、文を胸に抱いて微笑む。
 かぐや姫が自分と同じように変わらず自分を想い続けてくれたことが嬉しかった。記憶以外の唯一の証がここにある。東宮には十分過ぎる確かな証だった。
「殿下。」
 突然掛かった女房の声に、東宮は顔を上げる。
「右大臣様より至急の御文が届いております。」
 女房は東宮の前に姿を現すことなく、几帳の下からそっと文を差し入れた。東宮が文へ手を伸ばすと同時に、女房が素早くその場を離れる衣摺りの音が聞こえて来る。内大臣が駆け込んできて、異変が起きたことはとっくに邸内には知れているはずだった。内大臣との会話が耳に届いていれば、事態の深刻さは女房も察しているだろう。謀反人の仲間と看做されないために女房が距離を置くのも無理はないと考えたが、東宮は自らの中に芽生えた疑心に気付くと頭を振った。
 東宮は文を手に取り、こんな事態の最中に届いた右大臣からの文を訝しがりながら開く。謀反の罪を着せられた人間との交流など、右大臣にとっては利になるどころか害にしかならないはずだった。慌てて書いたらしく、所々に誤字を含む文章は読みづらい。
 帝の決断を知ってから書いたのだろうが、読み進めるうちに東宮は頭を抱えた。右大臣が娘である朔姫に度々東宮への文を書かせ、政の実権を握るための種にしようと目論んでいることは重々承知していたが、この事態までも利用して交渉を試みるほど執念深い男だとは思っていなかった。内大臣を筆頭に、東宮の周りには政よりも学問に関心の強い学者気質の男が多かったからだ。
「機転が利くと言うべきかな。」
 東宮は右大臣からの文を見ながら笑う。
 右大臣の文の内容は明快だった。東宮の無実を主張して帝と交渉してやろうと言うのだ。もちろん、無条件に味方するという親切心ではない。条件は、東宮がかぐや姫から譲り受けたという月の力を右大臣に渡すことだ。月の力と右大臣の地位があれば、その後は全て安泰だという楽観的な予想も添えられている。
 右大臣の力を信じないわけではないが、右大臣の口添えで帝が簡単に考えを変えるとは思えなかった。それで帝が妥協するなら、東宮を謀反に問うなんてことは端からしなかっただろう。
 帝の決断が単なる気の迷いではないことは東宮にはよく分かっていた。帝の嫉妬にはだいぶ前から気が付いていたのだ。幼い頃は毎日のように顔を合わせていた父は、滅多に顔を見せなくなり、いつの間にか距離を取るようになった。たまに宴の席で顔を合わせた際に向けられる言葉には望まない含意があり、刺すような視線を感じることも度々あった。帝が東宮とかぐや姫との契りに気付くずっと前、帝が竹取の翁の家のかぐや姫に関心を持つ以前のことだ。
 嫉妬の理由も察しは付いた。最高位にある者としての孤独。
 最愛の妻を亡くし、当初はその忘れ形見である息子が寂しさを紛らわす役割を担っていた。だからこそ、帝はその息子に皇太子の地位を与えて寵愛した。その後、その息子が自らの寂しさを増やす原因になろうとは思いもしなかったに違いない。
 東宮が成長するにつれ、臣下の多くは次の帝である東宮へ近付き、帝から離れていった。それは決して東宮の本意ではなかったし、東宮自身、自らを取り巻く大勢の貴族たちに戸惑ってもいた。彼らは力のある者へ寄り、ひとたび力を失えば躊躇いなく離れていく。心から信頼して気持ちを打ち明けられる相手ではない。幼くして、東宮も現実を悟っていた。そして、自分もいつか帝となって同じ孤独を味わうようになるのだろうと。ただ、東宮には一人だけ信じられる人間がいた。東宮が物心付く前から、東宮傅として側で支え続けてくれた内大臣だけは決して自分を裏切らないだろうと確信できた。謀反の罪に問われてもなお東宮を守ろうとした男だ。東宮の確信は正しかったと言える。
 しかし、帝にはそんな風に信頼できる人間がいない。いや、帝にもいたはずなのだ。決して私利私欲では動かない誠実な臣下が確かにいた。それを奪ったのは自分だと東宮は感じていた。
 内大臣は本来、帝の側近だ。内大臣が東宮の叔父であるがために東宮傅を兼任することになったが、その以前から内大臣は公私に渡って帝を支える存在だった。それなのに、内大臣の忠誠心と愛情に甘え、帝から大切な人を奪ってしまった。
 帝から向けられる敵意以上に、東宮は帝が見せる悲しそうな表情が苦しかった。何とかしたかったが、どうにもできなかった。熱心に愛情を注いでくれる内大臣を無下にはできなかったし、東宮にとっても内大臣は必要な支えだった。
 だから、帝がかぐや姫に関心を持った時、東宮は内心ほっとしてもいた。かぐや姫なら帝の寂しさを癒せるのではないか、そんな期待があった。帝がかぐや姫と文を交わすようになって、帝の執心に呆れている者がいることも知っていたが、帝の表情に次第に明るさを取り戻して行くことが東宮には何より嬉しかった。かぐや姫が帝の心を変え、いずれは自分と帝との関係も変わって行くと思っていた。
 こんな形になると考えもしなかったのは予測が甘かったとしか言えない。昔、内大臣に忠告された言葉を思い出す。
「殿下も少しは人を疑うことを覚えなくてはなりませんよ。」
 呆れながらそう口にした内大臣は、最後に「尤も、私は殿下のそういう愚直さは嫌いではありませんが。」と付け足した。その一言に甘えて、今回の事態を引き起こす羽目になった。自分だけの問題なら諦めるしかないが、内大臣までも巻き込みたくはない。もし内大臣が自分と同じく謀反の罪に問われるなら、かぐや姫が月へ帰った今、帝は再び独りになってしまう。もし自分が謀反の罪に問われるなら、せめて内大臣を帝に返したかった。
 そもそもの原因は自分にあるのだと東宮は思う。帝のことも、朔姫と内大臣のことも。
 東宮は文台の上の文に視線を落とした。返事を書こうと広げていた朔姫からの文だ。
 内大臣に返事を届けるよう頼み、次に朔姫から届いた文には内大臣への伝言が添えられていた。文を送り、内大臣に使いを頼めば頼むほど、朔姫の文は内大臣への伝言と内大臣の話の割合を増していく。これは一体誰に宛てた手紙なのだろうと首を傾げたくなるほどだったのだが、内大臣からすれば娘ほどに年の離れた朔姫は意識の範囲外だったのだろう。内大臣はいつまで経っても朔姫に対して東宮への求婚者という以上の関心を示さなかった。
 仮に関心を抱いていても、東宮への求婚者である朔姫に対して想いを寄せるなどとんでもないと忠誠心に篤い内大臣は考えたに違いない。朔姫の父である右大臣の意向を考慮に入れても、到底叶う想いではなかった。その困難さを分かっていたからこそ、東宮は右大臣の申し出を適当に聞き流してしつこく内大臣に朔姫宛の文を届けさせ続けたのだが、効果は上がっていなかった。東宮が存在する限り、朔姫の内大臣への想いは叶わない。かと言って、かぐや姫と契りを結んだ自分が代わりを務められるわけでもないのだ。
 帝からも、朔姫からも自分の存在が内大臣を奪っている。ずっと前から分かっていたことだ。
 自分が東宮の地位を退けば、右大臣の関心は失せるだろうし、内大臣は東宮傅ではなくなるだろう。しかしそれだけでは、内大臣を謀反の罪から救うことはできないし、朔姫の想いが叶うこともなければ、帝の孤独も変わらない。もし、全ての問題を解決する手段があるとすれば、まず何より帝の心を変えなくてはならない。
 かぐや姫が東宮に教えたこと、かぐや姫が帝に教えようとしたこと。それをはっきりと帝に分からせなくてはならない。そのために東宮が取れる手段はたった一つしか思い浮かばなかった。
 ――原因を取り除くしかない。
 決意が固めた東宮は姿勢を正して筆を執り、帝と内大臣へ宛てた文を認める。時間は限られていた。急いで二通の文を書き上げると、東宮は右大臣からの文を思い出して、それを千切った。この文が帝の目に触れれば、右大臣までもが罪に問われかねない。細かい紙片は硯へ落とせば、真っ黒に染まって文の内容を確認することはできないだろう。
 全ての準備を整え、立ち上がった東宮は背後に飾られていた壺切の剣を取った。代々皇太子の護剣として受け継がれ、東宮も立太子の際にこれを譲り受けたものだ。代々受け継がれてきた護剣を自害に使うことには躊躇いもあったが、他に使えるものがない。
 背筋を伸ばし、剣を目の前に掲げて深呼吸した。決心は揺らいでいない。恐怖はなかった。瞳を閉じ、ふと瞼に映った姿に東宮は再び目を開いた。
「かぐや姫……。」
 心が揺れた。こんな決断をかぐや姫は喜んではくれないだろう。きっとかぐや姫は失望するに違いない。帝として世を治める役目を自ら放棄するのだから、逃げ出したと思われても仕方がない。事実、自分は逃げ出そうとしているのかもしれない。
 ――秋風にあへずちりぬるもみぢはの、ゆくへさだめぬ我ぞかなしき。
 言い訳がましいとは思いながら、かぐや姫への文を書いた。歌を一首だけ。込めた思いをかぐや姫は理解してくれるだろうか。例え理解してもらえなくても、東宮はやはり人の世に生きる者だ。叶わぬ想いは出会った時から予感していた。それでも、かぐや姫が月の都で罪に問われることを覚悟して東宮と契りを結んだその想いを信じ続けることで、俗世を離れ、かぐや姫に近付けると思っていた。
 これが本当に正しい道なのか分からないが、他に選択肢はない。
 東宮は再び剣を手に取ると、決心の揺らがぬうちに自らの首を掻っ切った。それが身体の痛みなのか、心の痛みなのかも分からぬままに、東宮の意識は深い闇の中へ吸い込まれていった。

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