ここち

HOME >> 長編・シリーズ小説 >> 月影物語 >>

月影物語

前頁 - 次頁

第五章 輪廻解放 ―― (3)

 「あれは余の賭けだったのだ。」
 東宮は愁いを帯びた表情で微笑む。窓から射し込んでいた西日はいつの間にか途切れ、月明かりへと変わっていた。すっかり夜になっているが、今夜は十五夜。満月は優しく部屋の中を照らしていた。
「余は陛下に……父に昔のように愛して欲しかった。陛下が一人の父親として余の死を悲しんでくれるなら、きっと陛下は全てを理解してくださると思った。内大臣は陛下の下へ戻り、皇太子が陛下の地位を脅かすものではないことも分かってくれるだろうと。」
 東宮はあえて「余が」と言わずに「皇太子が」と言ったのは、東宮の死後、東宮に代わって新たに皇太子となるであろう女御の子を思ってのことに違いない。東宮の死後も、帝の心が変わらなければ、結局、同じことの繰り返しになるのだ。
「そして、余は賭けに勝った。陛下は余のために泣いてくださった。歴史に名が残らぬとも、余は父に愛されたそれだけで十分だった。」
 東宮は涙に瞳を潤ませながらも嬉しそうに笑った。実父との軋轢は内大臣と言う支えがあったとしても、東宮にとって寂しいものだったに違いない。東宮を実の息子のように思い、父親のように接してきた雅臣――内大臣にとって、それは少し残念なことではあったが、東宮の嬉しそうな表情に雅臣も微笑み返した。
「ただ、一つだけ後悔していることがある。」
 そう言って、東宮は顔を顰めた。
「朔姫。余はそなたの大切な人を奪ってしまった。」
 東宮はカグヤに顔を向けるが、カグヤは俯いたまま微動だにしない。
「内大臣が余の後を追うことは余の本意ではなかった。しかし、余は分かっていたのだ。内大臣ならきっと、何があっても余の側にいてくれると。ついて来てくれると信じていたのかもしれない。」
 東宮は悲しそうに雅臣を見下ろした。
「すまなかった。」
 東宮の口から出た謝罪の言葉に、雅臣は大きく首を振る。
「内大臣は余のためにあんなにも尽くしてくれたのに、余は内大臣に何一つしてやれなかった。それどころか余はそなたを苦しめた。」
 東宮は膝をついて腰を落とし、そっと雅臣の頬に手を伸ばした。いつの間にか零れていた涙が東宮の手で拭われる。雅臣は返す言葉もなく、ただ首を振るしかできなかった。謝らなくてはならないのは自分の方なのに、言葉が出てこない。
 本当は、東宮が帝から内大臣を奪ったのではなく、内大臣が帝から東宮を奪ったのかもしれないと思っていた。姉を亡くした悲しみを紛らわすために、姉によく似た東宮を内大臣の方が必要としていたのだ。東宮を自害に追いやったのは自分の不甲斐なさのせいだと思ってきた。
 それが事実だろうと思う。しかし、それを口にすれば東宮は余計に謝罪を重ねるに違いないのだ。そんな風に思わせてしまったのは自分の責任だと。
「朔姫。そなたが世を恨むのはよく分かる。全て余の責任だ。いくら詫びても足りないだろうが、余には他にできることがない。すまなかった。」
 東宮はカグヤに向けて再び言葉を重ねた。カグヤはベッドに腰掛けて俯いたままだったが、煌く液体がぽとりとカグヤの膝へ落ちる。
 朔姫の想いを知った今、雅臣も何か言葉を掛けるべきなのだろうが、何と言うべきか思いつかなかった。内大臣とて朔姫の思いに全く気付いていなかったわけではない。ただ、気付かない振りをしていた。自らの立場を思えば許されぬことだと思っていた。右大臣が自分を嫌悪していることはよく分かっていたし、朔姫だって父を裏切りたくはなかっただろう。しかし、結局、内大臣は俗世の立場に拘泥していただけなのだ。問題解決のために行動を起こす勇気もなくて、現実から目を背けていたかっただけなのかもしれない。
 東宮が自害した後は、朔姫のことに思いを馳せる余裕などなかった。帝の真意を、東宮の真意を知ろうとさえせずに逃げたのだ。朔姫に言葉を掛ける資格もない。
「他にできることがない……だって?」
 不意に発せられた声は笑いを含んで震えていた。東宮が振り返り、雅臣も発生源へ目を向ける。宇野がよろよろと立ち上がり掛けていた。宇野の動きを制そうと望が手を伸ばし掛けたが、東宮が目でそれを止める。
「あるじゃないか。お前にできることが。私が欲しいのは謝罪などではない。月の力だ。それさえ手に入ればお前などに用はない。さあ、朔姫。東宮から月の力を奪うのだ!」
 宇野は足元をふらつかせながら立ち上がると、裏返った声を上げた。カグヤはその声に応じようとはせず、東宮は再び立ち上がって息を漏らす。
「月の力なんてものは元々存在しないのだよ、右大臣。」
 東宮の言葉に、宇野はもちろん、雅臣も驚いて目を見開いた。
「な、何を言っているんだ。そんなことで誤魔化されると思うなよ。かぐや姫からの文にはっきりと書かれていたじゃないか。だからこそ、陛下はお前を謀反の罪に問うたんだぞ!」
 宇野は東宮を指差して叫ぶ。
「確かに、余はかぐや姫と契りを結んで月の力を得た。だが、月の力はそなたの思うようなものではない。月の力とは超俗の心。俗世の利権に囚われず、真実を見抜く力だ。不死の能力でもなければ、身体的な強さでも権力でもない。むしろそれらとは真逆のものだ。」
 東宮の言葉に、宇野はぽかんと口を開けたままどさりと座り込んだ。
「それでもそなたが月の力を望むなら、遠慮なくそなたに譲ろう。しかし、余も結局、この力を使いこなすことはできなかった。」
 東宮は宇野に向かって微笑み掛けた後、望へ申し訳なさそうな表情を向ける。
「月の力が欲しいか?」
 東宮は宇野に問い掛けた。
「そんなもののために……。」
 宇野は左右に首を振りながら呟く。東宮はそれを否の返事と解したのだろう。
「かぐや姫、やはり月の力はそなたに返すべきものようだ。」
 東宮はそっと望へ近付き、申し出た。かぐや姫は黙って頷き、東宮の頬へ手を伸ばす。微笑んで見つめ合う二人を前に、雅臣はやっと救われた気がした。ずっと背負い続けてきた罪の意識は簡単には消えないのだろうが、それでも心はずっと軽くなる。ほっと安堵の息が漏れた。
「さあ、これでもう終わりにしよう。」
 東宮が振り向いて言う。
「ここは我々のあるべき場所ではない。未来は彼らのものだ。」
 東宮の視線がアズマを見、雅臣も腕に抱き続けたアズマを見た。東宮とよく似ているが同じではない。東宮が姉と同じではないのと同様に。雅臣が内大臣の記憶を持ってアズマと関わった時間は決して長くはなかったが、かけがえのない特別な時間だった。雅臣はアズマとの関係を内大臣と東宮の関係だと認識していたけれど、東宮の記憶を持たないアズマは対等な親友として大切な存在だった。それが内賀雅臣の心なのか、内大臣としての心なのか、雅臣にはよく分からなかった。
「お別れですね。」
 微笑みながら、雅臣はアズマの髪を撫でる。ふいに寂しさが込み上げてきた。内賀雅臣はこの先も春宮アズマの側にい続けるだろう。だから、別れを寂しいと思うのは紛れもなく内大臣の心だ。東宮に似ているからではない。
「私は、春宮アズマとしてのあなたを尊敬しています。」
 口の中で小さく呟いた台詞はアズマの耳に届いただろうか。雅臣はもう一度しっかりとアズマの手を握った。
 ――後は任せるよ。
 自分自身――内賀雅臣への伝言を胸に、雅臣はそっとアズマの手を離す。同時に、これまで微動だにせず沈黙を守っていたカグヤが不意に立ち上がった。カグヤはゆっくりと宇野へ歩み寄り、茫然自失の宇野の前にしゃがみ込む。
「父上、もう全て終わったのです。」
 カグヤは微笑み、穏やかな声で宇野に告げた。雅臣が内大臣として朔姫に東宮の文を届けた時と同じ空気だ。朔姫との歓談の時間は、内大臣にとっても確かに心地好い時間だった。
「朔姫……しかし私は……。」
 宇野はカグヤを見上げながら気弱な声を漏らす。
「もういいのです。全ては終わったこと。」
「だが、私はお前に……。」
 宇野の声が動揺に震えている。右大臣とは気の合う間柄ではなかったものの、右大臣に任じられるほどだから政の才能はあったし、愛娘である朔姫を大変に愛していることも知っていた。決して悪い男ではないのだ。
「もう何も言わないで。仕方がなかったのです。私たちが生きたのはそういう時代だったのだから……。」
 そう言ったカグヤは目線を上げて東宮を見た。東宮が微笑み返すと、カグヤはゆっくりと振り向いて雅臣に笑みを見せた。雅臣は戸惑いながらも笑みを返す。カグヤと見つめ合いながら、不意に込み上げてくる想いに気付いて雅臣は一気に表情を崩した。どうして今まで気付かなかったのだろう。こんなにも強く想っていたというのに。
「認めんぞ!」
 突然上がった声に、雅臣はぎょっと目を丸くした。カグヤの背後で、宇野がカグヤの腕を掴みながら雅臣を睨み付けている。
「東宮も月の力もかぐや姫も諦めるが、お前と朔姫のことだけは絶対に認めんぞ! 他はどんな奴でも良いが、あいつだけは駄目だ!」
 宇野はカグヤを抱き寄せながら叫び、雅臣は昔と変わらぬ右大臣の言動に苦笑した。大人気ないとも思うが、それ以上にほっとする。あの頃はまだ毎日が平和で、穏やかに時間が流れていた。
「それはまた……ずいぶんと嫌われたものですね、私も。」
 雅臣が返すが、宇野は真剣な表情で雅臣を睨み続けている。
「お前にだけは娘はやらん!」
 宇野の真剣な表情に、カグヤが笑い声を漏らす。つられるように雅臣もくつくつと笑い、東宮は呆れた様子で肩を竦め、隣の望と顔を見合わせ微笑んだ。宇野だけは最後まで不満の表情を変えず、笑われたことで余計に腹を立ててさえいる。
「さあ、我々は我々のあるべき場所へ戻ろう。」
 東宮の声で宇野と共に立ち上がったカグヤが雅臣に向かって歩いて来た。笑顔で手を差し出され、雅臣はアズマを横へ寝かせてその手を取る。
「な!? 貴様、娘には指一本触れるなと言ったはずだぞ!」
 宇野が声を上げて駆け寄ろうとしたが、東宮は悪戯っぽい笑みを見せて望に目配せし、望がぽんっと宇野の肩へ触れると宇野はその場へ崩れ落ちた。
「わ、私は認めんぞ……。」
 宇野は床へ這い蹲りながらも何とか二人の間へ割って入ろうと手を伸ばす。そんな親心を知ってか知らずか、カグヤは素早く立ち上がった雅臣の両手を取った。最愛の娘の裏切りに、宇野は唖然とした表情を見せ、それでもなお「私は認めんぞ。」と自らに言い聞かせるように呟き続ける。
「かぐや姫。そなたに月の力を返そう。」
 東宮が望の手を取って遠慮がちに申し出た。大堰川で二人を見た時は東宮の方が小さかったのに、今、東宮の方が背が高い。雅臣よりも高いくらいだ。
 ずっと見守ってきた子が成長して自分の元を離れていく。足元に倒れている宇野――右大臣の気持ちが少しだけ分かった気がした。
 雅臣はカグヤを促し、二人揃って宇野の隣に腰を下ろす。宇野は露骨に嫌な表情を見せて雅臣から顔を背けたが、それ以上は何も言わなかった。
「月の力を返す代わりに、一つだけ願いを聞いてくれぬか。」
 東宮が望に問う。望がゆっくりと頷くと、東宮は言葉を続けた。
「彼らの未来を元に戻して欲しい。過ちを繰り返さないために。」
 東宮の言葉に望は再び黙って頷く。東宮が望を抱き寄せ、二人の間から柔らかな光が漏れた。月明かりのような黄色味を帯びたその光は、少しずつ広がって辺りを包む。二人の姿が光の中に消え、間もなく雅臣も真っ白な光に包まれて視界を奪われた。二度と大切なものを失うことのないように、カグヤの手を強く握り、握り返してくる力に安堵する。光は優しく、穏やかだった。

前頁 - 次頁

HOME >> 長編・シリーズ小説 >> 月影物語 >>

Copyright © 2006 Aiko Kiryu. All rights reserved.