月影物語
第五章 輪廻解放 ―― (4)
予てから続く習慣通り、春宮アズマは幼馴染みの望に急かされながら家を出た。マンションの階段を降りつつ、望が母親のような説教をしつこく語るのもいつものことだ。
「だからそういうのが余計なお世話なんだよ!」
逃げるように階段を駆け下りたアズマは、望を振り返りつつそう叫び、マンションの玄関を飛び出した。その瞬間、視界の端に人影が映り、アズマは慌てて急ブレーキを掛ける。
「おはよう、アズマ。」
玄関前で憎らしいほど爽やかな笑みを見せたのは親友の雅臣だ。
「おう。」
アズマが雅臣に短い挨拶を返すと、アズマを追って階段を駆け下りてきた望も外へ出てきた。
「望ちゃんもおはよう。」
「おはよう、雅臣君。」
爽やかな挨拶を聞きつつ、アズマは重い頭を抱えて歩き出した。挨拶を済ませるなり、望は自分のお説教に理があることを示そうと雅臣を懐柔し始めている。
「全く、私と雅臣君が協力してあげなかったら、今頃どうなってたか分かってるの? 感謝してよね。」
ぎりぎりまで夏休みの課題が終わらなかったことを望に責め立てられつつ、アズマは逃げるように歩を速めた。それでも、背後では望が雅臣相手にアズマに対する愚痴を零し続けている。
「ああ、もううるさいなあ。その話何度目だよ!」
いい加減にしてくれと振り向いた瞬間、アズマは曲がり角から飛び出してきた何かとぶつかった。
「きゃっ!」
悲鳴を上げたのはアズマではない。慌てて振り向くと、足元で女の子が一人尻餅をついていた。
「あ、すみません。大丈夫ですか?」
反射的に腰を屈めて尋ねる。女の子の服装はアズマたちと同じ高校の制服だ。
「す、すみません。ちゃんと前見てなかったから……。」
女の子はスカートを払いながら慌てて立ち上がる。同時にひらりと紙切れが地面に落ちた。
「あ。」
女の子が気付いて手を伸ばすよりも早く、アズマは腰を屈めてその紙切れを拾い上げる。描かれているのは手描きの地図らしく、赤い矢印が刺しているのはアズマたちの高校だ。
「ちょっと、何度人や物にぶつかったら気が済むのよ。」
望が呆れた様子でやって来た。
「別に俺は好き好んでぶつかってるわけじゃない!」
アズマはむっとしながら望に返したが、それに言い返そうと口を開いた望の言葉を、アズマと追突した女の子が遮った。
「もしかして、月見山高校の方……ですか?」
女の子は恐る恐るといった様子で尋ねる。
「そう……だけど?」
アズマが返すと、女の子はぱっと表情を明るくした。真っ直ぐ見つめられて、アズマは思わず身体を熱くする。綺麗な長い黒髪と白い肌、軟らかそうな薄紅色の唇が印象的な美少女だ。
「実は、私、今日付けで月見山高校にするんです。昨日の夜にこっちへ着いたばかりで場所が良く分からなくて……一緒に行って頂けますか?」
そう微笑んで問われたら、断る理由はどこにもない。
「もちろん、喜んで。」
アズマが息を吸って答えようとしたところに、横から雅臣が口を出した。
「良かったあ。私、方向音痴で不安だったんです。」
女の子はほっと胸を撫で下ろし、雅臣へ笑みを向ける。あっさりと良いところを奪っていく親友に嫉妬と言うよりも呆れを覚えつつ、アズマは雅臣の笑顔を睨んだ。
「そう。それで君、名前は? 僕は内賀雅臣。これが春宮アズマで、彼女は竹本望さん。」
「私は大月カグヤと言います。」
その場はすっかり雅臣が仕切り、三人は楽しく自己紹介を始める。一応紹介はされているものの、アズマだけがなぜか会話の輪の中に入れない。
「大月さんは何年生?」
「二年生です。」
「何だ、僕らと同じだよ。クラスは決まってるの?」
「はい。三組だと聞いています。」
「うっそ、偶然! 私たちもみんな三組だよ。よろしくねー。」
雅臣と望はあっさりカグヤと打ち解けるが、アズマは蚊帳の外だ。アズマは三人の一歩後ろを歩きながら、談笑する三人を見つめていた。少し仲間外れにされたくらいで怒るほど子供ではない。そもそもこの道は歩道が狭いのだ。四人横に並んで歩くにはあまり相応しくない。
三人の様子を眺めながら、アズマはふと引っ掛かりを覚えた。雅臣と望に囲まれて笑うカグヤの顔に何となく見覚えがあるような気がするのだ。
「な、なあ。あんた、前にどこかで会ったことないか?」
ふっと三人の間に割り込んで、アズマはカグヤに尋ねた。
「ちょっとアズマ、いきなり割り込んできて何そのセンスのない台詞。今時ドラマでも使われないよ。」
望は眉を顰めてアズマに見遣る。
「うるせえよ。でも、本当にどこかで会わなかったか?」
望の介入を一蹴した後、アズマは改めてカグヤに問うた。カグヤはアズマの顔を見ながらしばらく考え込む素振りを見せる。
「ごめんなさい。記憶にないです。」
しばらく考えて、カグヤは左右に首を振った。
「そっか。」
「アズマのことだから、どうせテレビに出てた芸能人に似てるとかそんなんじゃないの? カグヤちゃん美人だし。」
望はカグヤの肩を抱いて言う。
「そんなんじゃなくて、何かもっと身近に……。」
カグヤの顔を見ながらうーんと考え込んだ。望はカグヤを促して先を歩き出すが、アズマは立ち止まったまま考え込む。望に促されて歩きながらも、カグヤは心配した様子でアズマを振り返る。同時にアズマは閃いた。
「思い出した!」
突然上げた声に、望と雅臣も振り返る。
「夢で見たんだ。今朝の夢に出てきた!」
アズマがポンッと手を叩きながら言うと、望は眉を顰めてアズマを睨んだ。
「夢って何よ、夢って。夢が正夢になって運命の出会いとでも言うつもり?」
「何だよ運命の出会いって。でも、これで思い出した。望と雅臣も出てたんだよ、今日の夢。」
ふいにはっきりと蘇った記憶に、アズマは興奮しながら言葉を続けた。
「私も出てたの? どんな風に? どんな夢だったの?」
自分の話が出たことで興味が湧いたのか、アズマの側まで戻って来た望は矢継ぎ早に尋ねる。
「ああ、確か俺が王様だか王子様になってて……。」
「えー、アズマが王子様なのー?」
アズマが夢の内容を語り出すなり、望が不満そうに声を漏らす。
「何か文句があるのか?」
「別にー。ただイメージじゃないなあって思っただけ。それで、私は? お姫様?」
望は退屈そうな表情でアズマの問いに答えた後、一転して楽しそうに質問を返してきた。期待に溢れ、期待を裏切った後のことを考えると半ば脅迫めいてもいる望の態度に気圧されながら、アズマは言葉を選んで正直に答える。
「ああ、確かそんなんだった。でも、何か魔法使いっぽいって言うか……魔女っぽい感じだったかも。」
「魔女? 私が魔女? 白雪姫に毒りんごを食べさせるあの魔女!?」
アズマとしては十分に言葉を選んだつもりだし、決して悪い魔女だとは言っていないのだが、望の中の魔女のイメージは悪い魔女なのだろう。
「いや、違う。何か不思議な力を持ってる感じで……。」
予想以上に望の神経を刺激してしまったことに怯えながら、アズマは慌てて否定した。それでも望は不満そうにアズマを睨んでいる。
「仙女とかそんな感じかな?」
「ああ、なるほど!」
雅臣が横から助け舟を出し、望があっさりと納得した様子で手を叩いた。アズマの言葉は一々曲解して突っ掛かってくるのに、望は雅臣の言葉なら簡単に信用するらしい。
「それで? 雅臣君も出てたんでしょ?」
すっかり機嫌を直した望はアズマに笑顔で尋ねてきた。
「ああ、雅臣は何か俺の家臣……みたいだった。」
望の時とは少し異なる躊躇いを感じながら、アズマは答える。雅臣は夢の中での自分の役割に一喜一憂するような人間ではないが、例え夢の中のこととは言え、親友を自分よりも格下に位置づけることにアズマ自身の抵抗があった。
「それ、絶対逆!」
望が素早く言葉を挟む。この突っ込みに関しては、アズマも望の言うことが尤もに思えた。
「絶対に雅臣君が王子様でアズマが家臣だよ。アズマは王様の衣装より兵隊の格好の方が似合いそうだし。」
望が言い、隣で雅臣がくつくつと笑う。カグヤまで笑うが、兵隊の自分と王子の雅臣を想像するとなんだかあまりにも適役に思えてしまって、笑われたことに文句も言えなかった。
「それで、大月さんは何だったの?」
アズマがむすっとしていると、雅臣が尋ねる。
「ああ、ええと……あれ? 何だったけ?」
先ほどまではっきりと思い出せた夢の中でのカグヤの姿が記憶から消えていた。カグヤの姿を夢に見たという確信は揺るがないのに、夢の内容についての記憶は望や雅臣に語った以上に薄らいでいる。
「ちょっと、まだ寝ぼけてるわけ?」
望が呆れたように零した。寝ぼけているわけではない。今朝、起きてからの記憶ははっきりしている。ただ、今朝見た夢の記憶だけが、つい先ほど確かに思い出した記憶が今は思い出せなかった。以前から、夢の内容を詳細に覚えているタイプではなかった。授業の最後に教師が告げた宿題を授業終了のチャイムと共に忘れてしまうくらい記憶力には自信がなかったから、夢の記憶が一瞬で飛ぶくらいは大して不思議なことではない。それでも、何だか不思議な感覚が心の中に残っていた。
「本当に、もう夏休みは終わったんだから、しっかりしてよね。」
アズマが腕を組んで考え込んでいると、望がドンッとアズマの胸を押した。不幸にも片足に重心を掛けてバランスの悪い状態だったアズマは、望の一撃であっさりと身体を倒す。腕を組んでいたせいで手を突くこともできず、アズマはお尻からどすんとアスファルトの地面に着地した。今日は朝から全くもって運が悪い。
「お前……いい加減にしろよ?」
アズマはアスファルトに座り込んだまま、ふつふつと湧き上がる怒りに拳を震わせた。立ち上がろうにも骨にまで響いた痛みのせいで、すぐには上手く動けない。
「大丈夫?」
雅臣がアズマの顔を覗き込むが、その顔はしっかりと笑っていた。隣にいたんだから、ちょっと気を利かせて身体を支えてくれれば良かったのにと思うが、倒れるアズマを素早く避けてアスファルトまでの近道を用意してくれた親友は彼なりに気を利かせたつもりに違いない。少なくとも二人揃って転倒する二次災害は防げたわけだ。
「ヒュー。相変わらず元気そうだな、バカップル。」
キィッと自転車のブレーキの音が響いたかと思うと、車道の端で宇野貴大が自転車に跨ってこちらを覗いていた。
「ゲッ。」
思わずアズマは拒絶の声を漏らす。
「ゲッとは何だ、ゲッとは! 俺様への無礼と女性を怒らせるような男は本来ならしっかり締めてやりたいところだが、まあ、今朝は新学期初日で俺の機嫌はとても良い。一先ず保留にしといてやる。」
宇野はにやりと笑った。あまりにもらしくない宇野の台詞に、アズマはもちろん、雅臣や望までもが首を傾げる。
「宇野くーん!」
ふと背後から届いた声に、アズマは差し出された雅臣の手を借りつつゆっくりとアスファルトから立ち上がって振り返った。息を切らせながら、陰山陽子が駆けて来る。
「宇野君、速過ぎるよ。」
陽子は宇野の自転車の荷台に手を置きながらはあはあと息を吐く。
「しょうがないなあ、陽子は。」
宇野の口から漏れた言葉に、三人は「え?」と口を揃えて自らの耳を疑った。一体いつから宇野は陽子を名前で呼ぶようになったのだろうか。少なくとも夏休みに入る前は「陰山さん」と呼んでいたはずだ。
「後ろ乗るか? そしたら楽だぞ。」
宇野が笑いながら陽子に言うが、陽子は不満そうに顔を上げた。
「駄目だよ。自転車の二人乗りは危ないって夏休み前に警察署の人が来てお話ししてくれたでしょう。」
学級委員らしく、陽子はしっかりと宇野を窘める。
「ったく、陽子は固いなあ。まあ、そういうところが可愛いんだけど。」
宇野はさっと陽子の腕を掴んで引き寄せると、甘い声で陽子に囁いた。陽子がぱっと顔を赤らめる。アズマはただ呆然と口を開けて二人を眺めた。
「ほら、乗れよ。押してやるから。」
宇野は陽子の鞄を奪い取ると自転車の前かごに載せ、自転車から降りて陽子を促す。
「え? でも……。」
「二人乗りじゃなければ良いんだろ?」
躊躇いがちの陽子を、宇野は有無を言わせず自転車に乗せた。
「お、おい、お前ら……一体いつからそんなに仲良く……。」
アズマはやっとの思いで宇野に尋ね、隣で同趣旨の問いを込めて雅臣と望も宇野を見つめる。
「ああ、こいつが夏休み中にサッカー部の試合を応援に来てくれてさ。その時、俺が軽くハットトリック決めちゃったら大喜びしてさ。あまりにも可愛いもんだから彼女にした。」
宇野はにんまりと笑みを見せ、陽子は照れた様子で俯いた。
「ま、そういうことだから。お前らもせいぜい仲良くしろよ?」
宇野は陽子を乗せた自転車を押しながら駆けていく。至って幸せそうだ。
「あ、お前らも早くしないと遅刻するぞー。」
ふと宇野が振り返って叫んだ。だいぶのんびりと歩いて来たし、通学路の制服姿も数を減らしつつある。二学期早々遅刻するわけにはいかないが、それでもアズマはしばらく呆然と宇野の背中を見送っていた。
「信じられねえ。」
思わず声を漏らすと、隣で望が激しく頷く。
「でも、言われてみると、陽子ちゃんっていつもけっこう宇野君のこと褒めてたかも。」
望にとって、陽子はクラスの中でも比較的仲良くしていた友人の一人のはずだが、それでも陽子と宇野が付き合い始めたことは知らなかったらしい。もし望が事実を知っていれば、とっくにトップ・ニュースとして触れ回っていただろう。
「でも、宇野だぞ?」
アズマは望と顔を見合わせた。
「だけど、宇野君、けっこう人気者だよ? サッカー上手いし、けっこうカッコイイから。」
「それでも宇野だぞ?」
個人的な恨みが積もっているせいもあって、アズマはしつこく繰り返す。アズマの頭には、自信過剰で言動は気障なナンパ男として宇野は記憶されていた。
「あの真面目な学級委員の陰山さんが……有り得ねえ。」
「何? もしかしてアズマ、妬いてるの?」
ふっと望がアズマの顔を覗き込む。
「は? 何に?」
「実は陽子ちゃんのことが好きだったとか。」
望の台詞にアズマは唖然として息を止めた。
「馬鹿言うな! そんなわけねえだろ。」
「えー、でも、陽子ちゃん結構かわいいし、真面目でアズマの好みなんじゃないのー?」
慌てて否定しても、望はしつこく絡んでくる。女の子はどうにも恋の話が好きらしい。
「馬鹿馬鹿しい。」
アズマが望の言葉を一蹴して歩き出すと、望は不満そうに表情を歪めた。
「馬鹿馬鹿しいって何よ? 好きな子いるんだったら私、協力してあげるよ、幼馴染みとして。」
非常に嬉しくない申し出だ。
「お前の協力なんか期待してないからいい。」
アズマは即答して真っ直ぐ歩き続ける。当の本人に協力なんて頼めるはずがない。
「あれ? その発言は好きな子がいるって前提?」
望が嬉しそうにアズマの顔を覗き込んだ。あっさり断ったつもりが、うっかり墓穴を掘ったらしい。
「別にそう言うわけじゃ……。」
慌てて否定するも、すっかり動揺が声と顔に出てしまっているようで、嬉しそうな望の攻勢が始まる。
「照れるな、照れるな。絶対協力するから。」
「余計なお世話だ。近寄るな。」
アズマは足早に歩を進めた。全身が熱い。
「幼馴染みでしょー? ちょっとくらい教えてくれたって良いじゃない? せめてクラスにいるかどうかだけでも。ね? アズマの好きな人ってクラスの人?」
アズマの気持ちを微塵も分かっていないのか、望は無邪気に尋ねてくる。
ふと、チャイムの音が聞こえた。これはまだ予鈴だろうが、ここから学校までの距離を考えると急がなければ遅刻は決定だ。
「ああ、もううるさい! 遅刻するぞ! 雅臣、走ろう! ……って、あれ?」
アズマはチャイムの音を口実に望から逃げ出すことを閃いたが、ふと気が付けば、辺りに雅臣の姿が見当たらない。
「雅臣君たち、何かもう先に行っちゃってるみたい。」
望の呟きに合わせて道の先を見ると、雅臣がカグヤを肩を並べて楽しそうに話しながら歩いている。
「なんか、あの二人、いい感じかも。」
望が嬉しそうに笑った。
「は?」
「よし、決めた! 私、雅臣君とカグヤちゃんのこと応援する!」
望はぎゅっと両手の拳を胸の前に掲げて宣言する。
「応援するって、お前、本人の意思も確認しないで……。」
「そうと決まれば善は急げ! 走るよ、アズマ!」
アズマの話もろくに聞かず、決心を固めた望は二人を追って走り出した。それはむしろ二人にとって妨害行為なのではないかというアズマの不安を余所に、望は至って楽しそうだ。もはやアズマの好きな人についての関心はないらしい。喜ぶべきか否か迷いつつ、アズマは望を追いかけた。
今の状況に不満はない。当分はこのままの関係でいい。当分はこのままの関係が……良い。
――未来は彼らのものだ。
ふっと声が聞こえた気がした。アズマは足を止めて振り返るが、住宅街の静かな道に声の主らしき影はない。
「アズマー!? 早くー!」
望が振り返ってアズマを呼んだ。アズマは手を上げて応え、望の元へ駆けて行く。今日から二学期が始まる。
《了》