ここち

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君に託して


 梅雨の長雨が続いている。俺は、日没後の薄明かりの中、母と共に帰宅した。玄関先で線香臭い制服に塩を振り掛け、自室へと戻る。
「何考えてんだよ、あの馬鹿。」
 後ろ手に扉を閉めた後、俺はため息混じりに呟いた。
 学校帰り、あいつは無謀にも、サッカーボールを追いかけて車道へ飛び出した小学生を助けようとして、青信号を直進して来たトラックに撥ねられた。孝行息子の最初で最後の親不孝にあいつの両親は憔悴しきっていたけれど、俺は最期までお人好しを貫いた間抜けな幼馴染みに苛立つばかりだった。
「何か考えてたわけじゃないよ。勝手に身体が動いちゃったんだ。」
「ああ、そうかよ。」
 独り言に返って来た言葉に呆れながら返事をした後、俺は初めて自分の部屋に自分以外のものがいることに気が付いた。
「や、元気?」
 俺の独り言に答えたそいつは、部屋の真ん中に正座をし、片手を顔の横まで上げて、にこやかに尋ねる。俺はしばらくぽかんと口を開けたままその場を動くことも、声を発することもできなかった。目の前に、死んだはずのあいつがいた。先程通夜の席で目にしたばかりの黒い額縁に収まった写真と同じ笑顔があった。
「……冗談、だろ?」
 俺は額を押さえて、その場にへたり込んだ。確かに、死んだあいつとは幼馴染みで親友だったけれど、訃報を聞いて涙一つ流さない俺が、幻覚を見るほどに精神的に弱っているとは思いたくなかった。
「あれ、どうして落ち込むの? 幽霊でも会えて嬉しいとか言わないの?」
 あいつの幻覚は一つの音も立てず、いつの間にか俺の足先で膝を揃えて俺の顔を覗き込んでいる。
「幽霊?」
 顔を上げて呟きながら、俺はあいつの身体が透けていることに気がついた。音もなく一瞬で移動するというのは人間業ではないし、確かに幽霊らしい雰囲気は漂っている。俺はこれまで自分に霊感があるなどと思ったこともなければ、幽霊の存在を信じるほどオカルト好きでもなかったけれど、目の前のあいつが、自分の精神がおかしくなったゆえの幻覚だと言われるよりは幽霊の方がましだと思えた。
「実はちょっとやり残したことがあって、このままだと成仏できそうにないから、和真君に頼もうと思って。僕のお願い、聞いてくれる?」
 あいつは生前と同じ笑顔で、生前にはなかった苛立ちを与える口調で告げた。
「俺がその願いを聞いたら、お前は成仏するんだな?」
 幽霊の存在を信じるつもりはないが、少しでも早くこの異常事態が終了することを願って俺は聞き返した。
「うん。願いは一つだけ。ある人に僕の言葉を伝えてほしい。」
 あいつはにっこり笑って答える。
「何だよ、それ。せっかく幽霊になってんだから、自分で言いに行けばいいだろ?」
 俺は、幽霊だか幻覚だか分からないものと会話をしている自分に呆れながら、いい加減に返した。
「自分で言えるならそうしたよ。だけど、僕の姿が見えるのも声が聞こえるのも、生前に僕と親しかった人で、僕が選んだ一人だけ。僕が選んだのは和真君。両親には頼みにくいことだったから。というわけで、一つよろしく。和真君が願いを叶えてくれないと僕は成仏できなくて、和真君のこと呪っちゃうから。」
 あいつはにこりと笑って恐ろしいことを言う。俺は、幽霊と同じく呪いも信じてはいなかったけれど、脅迫の気配を帯びたあいつの笑顔は妙な威圧感を伴っていた。
 生前、いつもへらへらと笑って俺の後ろを追いかけていたあいつからは、感じたことのない威圧感だ。そもそもあいつが俺に頼みごとをするということ自体、幼稚園以来の付き合いがありながら一度もなかったことのように思う。
「で、誰に何を伝えるんだよ?」
 幽霊でも幻覚でも、それがあいつの最初で最後の頼みなら、一つくらい聞いてやっても罰は当たらないと俺は半ば諦めの境地に達して尋ねた。
「僕の好きな人に愛の告白を。」
 あいつは微笑を浮かべながら真面目な口調で言う。
「はぁ!?」
「ずっと告白したかったんだ。トラックに撥ねられた時はやっと告白の決心がついてその人のところへ行くところだったんだ。途中で死んじゃったけど。」
 あいつは自分が死んだことを道で転んだくらいの軽さで口にした。
「せっかく決心したのに伝えられないままって心残りでしょ? だから、どうしても伝えたくて。」
 あいつは毛羽立ったカーペットに指先を這わせながら、俯きがちに言う。
「お前さ、死んでから告白しても意味ないんじゃないか? あの世とこの世で遠距離恋愛って無理があるぞ。」
 俺が眉をひそめながら言うと、あいつは顔を上げて笑った。
「付き合いたいわけじゃないんだ。伝えたいだけだから。」
 明るい笑顔は優しさを帯び、切なさを零す。先に視線を逸らしたのは俺の方だった。
「その好きな人って誰?」
 ため息と共に承諾の返事を吐き出して、俺はあいつの頼みを引き受ける決心をつける。
「今日はもう遅いから、明日、僕と一緒に来て。日曜日だから、和真君のスケジュールも空いてるよね。」
 あいつは改めて嬉しそうな笑顔を見せると、肯定を前提とした口調で一方的に告げ、俺の返事を待つことなく消えた。俺の目の前にはいつも通りの自分の部屋があるだけだった。

 翌日、一向に止まない雨の中、俺は表通りを歩いていた。俺の隣では、あいつが傘も差さずに数センチ空中に浮いた状態で平行移動をしているのだが、通りを歩く人は何ら驚く素振りを見せない。あいつの言う通り、あいつの姿が見えるのは俺だけらしい。
 俺はあいつを視界に入れないよう気を配りながら、黙ってあいつの指示通りに歩いた。あいつの存在に気付かない人々が、すれ違いざまにあいつの身体をすり抜けていくのを見るのが気持ち悪く、あいつと会話をすれば、俺は独り言の多い変人の扱いを受ける。家を出てすぐにも、俺は近所のおばさんから同情と哀れみに満ちた視線を受け取っていた。
 あいつは毎日通学で使っていた駅へ向かってゆっくりと平行移動していく。俺は行き先も告白の相手もまだ知らされていない。さすがに我慢しきれなくなり、ポケットから携帯電話を取り出して耳に当てた。
「それでお前、どこに行くつもりなんだよ。」
 携帯電話で話す振りをしながらあいつに話し掛けたが、あいつは真っ直ぐ前を見つめたまま答えない。
「おい、答えろよ。俺はお前に聞いてんだぞ、祐一。」
 俺が若干声を荒げて言うと、あいつはきょとんをした表情でこちらを向いた。
「ああ、そっか。てっきり電話してるのかと思った。」
 あいつはポンッと手を打って笑う。
「どうでもいいから質問に答えろ。」
 正面から歩いて来る女性が今にもあいつの身体をすり抜けそうなことに気付いて、俺は慌てて視線を逸らすと電話口に向かって言った。
「もうすぐだよ。和真君も知っている場所だから。」
 そう言うとあいつは若干速度を上げて、俺の右斜め前の視界に入り込んだ。気持ち悪い現象を目撃しないよう、俺は慌ててあいつを追いかける。
「あそこだよ。」
 駅前の交差点に出ると、あいつが言った。うっかり追い抜いてしまったあいつを振り返ると、あいつは目の前の信号が青であるにもかかわらず立ち止まっている。あいつが指差した先には小さな花屋があった。降りしきる雨に霞んでよく見えないが、車道を挟んだ向かいの店先では女性の店員が接客している。
「あの花屋? かわいい店員なんかいたっけ?」
 駅前の花屋の前は俺も毎日のように通っていたけれど、あの店にあいつの好きな人がいるとは思わなかった。生前、あいつは何度も学校帰りにあの花屋に立ち寄って花を買っていたけれど、お店に出ているのはいつも三十代半ばの奥さんだった。ランドセルを背負った女の子に「お母さん」と呼ばれているのをあいつと一緒に目撃した記憶もある。確かに美人だが、あいつが人妻と不倫をするとは思えなかった。俺もあいつも高校生になったばかりで、婚姻可能年齢にすら達していない。
 確かにあいつは、母親が花好きだからと言って頻繁に学校帰りに花を買って帰るマザコン少年だが、子持ち主婦を相手にするというのはいくらなんでも無理がある。まさか小学生の娘の方でもないだろう。店先で見た女の子はまだランドセルに潰されそうな大きさで、本気で恋愛対象にしたらそれは犯罪だ。
「伝えてくれるだけでいいんだ。僕が彼女を好きだったこと。」
 あいつは穏やかに微笑んで言った。
「だから、誰に?」
 俺は苛立ちを覚えながら聞き返す。
「彼女に。」
 あいつは再びゆっくりと花屋の店先を指差した。視界を霞ませていた雨が弱まり、店先で客を見送っている店員の顔がはっきり見えた。やはりいつもの奥さんだ。客は着物姿のお婆さんで、お婆さんが店先を離れてもあいつの指先は動かない。あいつの指は、間違いなくあの子持ち店員を差していた。
「冗談だろ!?」
 俺は携帯電話を持った手を下げたまま叫んでしまった。いつの間にか信号は赤へと変わっていて、信号待ちの人々が一斉に俺を振り返り、俺は慌てて携帯電話を耳に当てる。
「彼女って、今、接客してたあの人か? お前、あの人が子持ちだって知ってるだろ?」
 俺は声を低くして聞いた。
「うん、知ってる。小学二年生の娘が一人いるけど、三年前に離婚してて今は独身。」
 あいつは俺の知らない情報まで冷静に伝える。
「いくら離婚してるからって、下手したら母親になりそうな年齢だろうが。」
 店先でにこやかに花の様子を気に掛けている女性の姿を見つめながら、俺は顔を引きつらせずにはいられなかった。
「それでも好きなんだ。」
 あいつは穏やかに言葉を紡ぐ。
「そんなに親しかったのか? あの人と。」
「お店のお客さんとしてちょっと雑談をしたことがあるくらいかな。」
 俺の問いにあいつは微笑を絶やすことなく答えた。あいつの目は真っ直ぐに優しく店先に立つ女性を見つめている。
「そんなんじゃ、向こうはお前のことなんか全然覚えてないかもしれないじゃないか。ただの客としての付き合いしかなかったんだろ?」
「うん。だからこそ伝えたいんだ。彼女の記憶の片隅に、少しでも僕が残ればそれでいい。」
 俺の沈んだ声に、あいつは力強く答えた。
 ――理解できない。一体あの子持ち主婦のどこがいいのかさっぱり分からない。
 それでも、一度引き受けた以上、ここで引き返すわけにはいかなかった。むしろさっさと願いを叶えて、とっとと成仏してもらいたい。俺は一刻も早くこの超常現象と別れたかった。
「とにかく俺は、お前が好きだったってことをあの人に伝えればいいんだよな。」
「うん。よく制服姿で花を買いに来た高校生って言ったら分かると思うから。」
 あいつの台詞は相手があいつの名前すら知らないことを前提としているが、あいつはそれを全く問題としていないらしい。俺はあいつの楽天的な笑顔に返す言葉もなくため息を吐いた。信号が赤から青へと変わり、俺は携帯電話をポケットにしまうと横断歩道を渡る。後ろからあいつのついて来る気配がした。花屋の手前で足を止め、俺はゆっくり深呼吸する。本来、告白をすべき本人がにこにこと笑っていて、第三者であるはずの俺が緊張しているなんて不思議というより腹立たしい。
 俺は軒下で傘を閉じ、意を決して店内に踏み込んだ。
「すみません。」
 店の奥で花に水をやっていた女性に声を掛ける。
「いらっしゃいませ。」
 女性は笑顔で歓迎の言葉を吐き、水差しをレジの脇に置くと、エプロンで手を拭きながらこちらへやって来た。
「えっと……。」
 俺はどう切り出すべきなのか助言を求めようと側にいるはずのあいつを探したが、前にも後ろにも姿が見えない。
「プレゼントですか?」
 女性は俺の目の前までやって来て微笑み掛ける。
「いや、えっと、俺は友達の代理で……。」
 視線を合わせづらいのは、間違っても目の前の女性が思いのほか綺麗だったからではない。単に、親友の妙な頼みについてどう切り出したらいいかが分からないのだ。
「あ、もしかして、そのお友達ってよくうちでお花を買ってくれた子? よく二人一緒にお店の前を通ってたでしょう。」
 女性はぽんっと手を打って嬉しそうに顔をほころばせた。
「お、覚えてるんですか。」
「もちろんよ。あなたはお花には興味ないみたいだったけど、彼は学校がお休みの日も一人でお店に来てくれて、うちの大切なお客様なんだから。いつも朝夕、二人揃ってお店の前を通るから、あなたの顔も覚えちゃった。」
 女性はくすくすと笑う。女性があいつを覚えていたと知って、あいつは喜んでいるに違いない。俺も嬉しかったが、それ以上にあいつの説明に苦労せずに済むと思うと安心した。
「あの、俺、そいつに頼まれて……。」
「切花でいいかしら? そうねえ、今の時期だとお薦めは……。」
 女性は俺の言葉が終わらぬうちに、辺りを見回して花を選ぼうとし始める。
「ち、違うんです。俺は花を買うためじゃなくて、あいつの代わりにあなたに伝えたいことがあって来たんです。」
 俺が慌てて女性を制すと、女性はきょとんとした表情で振り向いた。
「その、あいつはあなたのことが好きで、それを伝えてくれって頼まれました。」
 俺は視線を逸らそうと俯きながら話す。
「本当はあいつが自分で伝えるべきことなんですけど、事情があって俺が代わりに。あいつもできるなら自分で伝えたかったと思います。だけど、それはもう無理だから。」
 ――もう無理だから。
 そう口にした瞬間、突如として、あいつの死が実感となって湧き上がった。あいつはもう自分の気持ちを伝えることさえできないのだ。あいつは俺の前で生前と同じように笑っているのに、好きな人の前に姿を見せることもできず、俺があいつの気持ちをこの人に伝えたら、俺の前からも消えてしまう。あいつが俺に託したものの大きさに、身体が震えた。
 もっと上手に、もっときちんとあいつの気持ちを伝えてやりたいと思ったのに、言葉が出てこない。あいつが言うべき言葉を指示してくれればいいのに、あいつは俺が店内に入ってから全く姿を見せていなかった。
 突然の告白に驚いたのか、女性はただ黙って俺の前に立っている。
「俺も最初は冗談だろうって思いました。年齢が違いすぎるし……。だけど、あいつ本気だったんです。本当にあなたのことが好きで、化けて出るくらい……。」
 潤い始めた瞳を伏せて話すうちに、思わず余計な一言を付け加えてしまった。
「いや、えっと、とにかくあいつは本気であなたのことが好きで……。」
 俺は慌てて誤魔化しながら、俯いたまま同じ言葉を繰り返した。幽霊に頼まれたなんて伝えたら、話が嘘くさくなってしまう。なんとかしてあいつの真剣さを伝えたかったが、俺は話を真実らしくするための情報を何一つ与えられていなかった。あいつがこの女性のどこを好きだったのか、いつから好きだったのか、何も知らされていないのだ。俺はそれ以上続ける言葉を見つけられず、沈黙するしかなかった。
「ありがとう。」
 耳元で響いた声に顔を上げると、目の前で女性が微笑んでいた。
「伝えてくれてありがとう。」
 二つの声が僅かにずれて耳に届く。目の前の女性の声と、背後からそっと俺の肩に手を置くあいつの声だった。
 ――今までどこに隠れてたんだよ。
 あいつを思い切り罵りたかった。本来無関係な俺が力を尽くしているのに、本人は傍観しているだけなんてあまりにもずるい。
「本当に、ありがとう。」
 あいつが穏やかに囁き、肩が軽くなった。あいつの気配が消えて、俺の瞳から生温かい液体が溢れて頬を伝う。突然、涙を零した俺を見て、女性が戸惑いの表情を浮かべた。俺は慌てて顔を伏せ、涙を拭う。
「少し待ってて。」
 女性は優しく言うと、俺の側を離れて切花の並んだガラスケースへと向かった。たくさんの花の中から迷わず一本を抜き取り、持って来る。
「これを持っていってくれる? もしも届けられるなら、彼に……。」
 差し出された一茎には、淡いピンク色の花がいくつも付いていた。花に詳しくない俺はその花の名前を知らなかったけれど、ベルのように膨らんだ形は可愛いと思える。
 俺は小さく頷き、花を受け取った。花を胸の前に抱えて顔を上げると、女性が微笑んでいた。あいつがこの人を好きになった理由が少しだけ分かった気がした。
「本当に、ありがとう。」
 女性の笑顔に、あいつの笑顔が重なって見えた。
 店を出ると、いつの間にか雨は止んでいた。雲間に夕焼け色の空が見える。水たまりが西日にきらきらと輝いて、綺麗だった。
 俺は、預かった花をあいつの棺に収めたくて、そのままの足で告別式会場を訪ねた。
「あら、風鈴草。」
 俺が持って来た花を見て、あいつの母親が呟く。
「いい花ね。あの子も好きだった花よ。花言葉は《感謝》だったかしら。」
 ――ありがとう。
 女性の返答は天国のあいつに届くだろうか。あいつはその返答を喜ぶだろうか。
 ――こちらこそ。
 あいつなら、そう言って笑いそうな気がした。

《了》


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