ここち

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紅のリアル豚

〜ミニブタ・コポルコの願い〜

 ある日の夕暮れ、都内のとあるマンションの一室で、ミニブタのコポルコは静かにテレビの画面を眺めていました。コポルコの隣では、飼い主のフミエちゃんが豪快に醤油煎餅を齧りながらお気に入りのDVDを観賞しています。フミエちゃんは花も恥らうピチピチの女子大生ですが、独り暮らしであるフミエちゃんのリビングにはコポルコとフミエちゃんしかいないので、フミエちゃんは誰の目も気にすることなく、キッチンからテーブルの脇へ移動させた電気ポットから急須にお湯を継ぎ足し継ぎ足し、味も香りも薄くなった緑茶を啜りつつ、醤油煎餅の小袋をテーブルの上に散らかしていました。
 今日、フミエちゃんがセレクトしたお気に入りDVDは『紅の豚』です。スタジオジブリで宮崎駿監督作品ですが、『となりのトトロ』でも『魔女の宅急便』でもなく『紅の豚』です。『紅の豚』はスタジオジブリの作品で唯一、フミエちゃんがDVDを購入した特別のお気に入り作品でした。というのも、フミエちゃんはイマドキの女子大生一般と違って、ハードボイルド大好きなちょっと変わった女の子だったのです。フミエちゃんはトトロのもこもこでふわふわな可愛さには興味がありません。生意気な黒猫にも夢を持った眼鏡君にも興味がありません。フミエちゃんが興味を持つのは、熱いハートを持った漢だけです。漢と書いて、オトコと読みます。
 コポルコは綺麗好きな可愛いペットとして最近少しばかり人気になっているミニブタですが、フミエちゃんがコポルコを飼うことにしたのは、コポルコが可愛かったからではありません。フミエちゃんが尊敬してやまない『紅の豚』の主人公ポルコと同じ豚だったからです。そもそも、フミエちゃんにはコポルコを飼うつもりはありませんでした。ただ、フミエちゃんが『紅の豚』の大ファンだと知った彼氏のキョウスケ君が誕生日プレゼントにとペットショップで見つけて衝動買いしてしまい、返品するわけにもいかなかったのです。フミエちゃんは、キョウスケ君からのプレゼントに最初は困っていましたが、キョウスケ君が小さいポルコだからコポルコだとプレゼントに名前を付けると、その名前をとても気に入って、コポルコを飼うことに決めたのでした。コポルコは、ポルコが乗っている飛行機と同じ赤い色をしたバンダナを首に巻かれ、とても大事に飼われています。コポルコは、フミエちゃんのことが大好きでした。
 だから今、コポルコはフミエちゃんの隣で、フミエちゃんのDVD観賞を邪魔しないようにぶひぶひ鼻を鳴らすことも我慢して、静かに身体を丸めているのです。
 コポルコにとって自分の名前の由来となった『紅の豚』のポルコを観るのはこれが初めてでした。フミエちゃんとキョウスケ君が――正確には、フミエちゃんがキョウスケ君に『紅の豚』の魅力を一生懸命に語っている場に居合わせたことは何度もありましたが、実際に『紅の豚』を観るのは初めてだったのです。
 フミエちゃんが『紅の豚』を観ると言い出したその瞬間から、コポルコは興味津々でした。ポルコがどれほどカッコイイ漢かと言うことは、フミエちゃんの口から何度も語られていたからです。
 コポルコはフミエちゃんと共にとても楽しく『紅の豚』を観賞していたのですが、ある場面で、とても大きな衝撃を受けました。
「飛ばねえ豚は、ただの豚だ。」
 それがポルコの台詞でした。
 コポルコは飛べません。コポルコは豚です。コポルコは飛ばない豚です。つまり、コポルコはただの豚だったのです。
 フミエちゃんから何度も漢の何たるかを教えられ、小さいポルコとして、漢として生きてきたつもりだったコポルコは、その時初めて、自分がただの豚であるという事実を知ったのでした。その時、コポルコがどれほどのショックを受けたか、分かりやすく説明するなら、それは百ぶひぶひを越えるほどのショックだったと言うことができます。
 『紅の豚』を観終わり、フミエちゃんがDVDを止めて夕食の準備に取り掛かってもなお、コポルコはあまりの衝撃に呆然とテレビの画面を見続けていました。フミエちゃんが自分の分と一緒に用意してくれた夕食――ミニブタ用のペットフードですが――にも、ほとんど口を付けることができませんでした。フミエちゃんは食欲のないコポルコを心配してくれましたが、すぐに、食欲がないのは夕方にフミエちゃんが食べていた醤油煎餅を少しばかり貰ってお腹がいっぱいになってしまったからだろうと思い直したようで、いつものようにお風呂に入ってさっさと寝てしまいました。フミエちゃんは、明日、キョウスケ君とデートに行く予定なのです。
 コポルコもフミエちゃんと共にベッドルームへ入りましたが、ショックから立ち直れずに、フミエちゃんが寝息を立て始めた後、扉の隙間からそっとリビングへ戻りました。リビングの片隅で、コポルコはぶひぶひと泣きました。フミエちゃんを起こさないように気を遣いながらも、ぶひぶひぶひぶひ泣きました。
 コポルコは自分を漢だと思っていました。ポルコのようにフミエちゃんが大好きなハードボイルドの漢だと思っていました。首に巻いた赤いバンダナは漢の証で、他のミニブタとはちょっと違う特別なミニブタなのだと思っていました。
「飛ばない豚は、ただの豚。」
 コポルコは呟きました。飛ばないコポルコはただの豚です。そこまで考えたところで、ふとコポルコは閃きました。
「飛ばない豚がただの豚なら、飛べる豚は何だろう?」
 答えは簡単でした。飛べる豚は漢です。ポルコと同じ、漢です。そしてコポルコは決意しました。
「飛べる豚になって漢になるんだ!」
 飛べさえすれば、豚は漢になれるのです。決意と共に、コポルコはリビングのカーテンの隙間から空を見上げました。その瞬間、紺色の空をきらりと何かが横切ります。それは流れ星というものだと前にフミエちゃんが言っていました。そして、流れ星に向かって願い事を三回唱えると、願いが叶うのだと。コポルコは慌てて願いを唱えました。
「ポルコになれますように、漢になれますように、空を飛べますように。」
 三回唱えた願い事はそれぞれ微妙に違っていますが、意味は同じです。ポルコになりたいというだけでは、もしかしたらお星様はアニメの主人公になりたいという意味だと勘違いしてしまうかもしれません。漢になれますようにと言うのも読みの同じ「男」と間違えられて、ポルコではなくキョウスケ君のようなひ弱なナンパ男になってしまうかもしれません。だから、コポルコはしっかり間違いのないように三種類のお願いの仕方をしたのです。
 一生懸命に願い事を唱えたコポルコが再び空を見上げると、流れ星の姿は既になく、丸いお月様が空の真ん中にぽっかり浮かんでいました。
「お月様、僕もポルコになれるかな?」
 コポルコの問い掛けに、お月様はにっこり微笑んで優しい光を投げ掛けます。コポルコはほっとした気持ちになって、静かにベッドルームへ戻りました。毛布の敷かれたいつもの場所で身体を丸めると、すぐに眠たくなりました。

 翌朝、コポルコはフミエちゃんがキッチンで朝食の準備をする音で目覚めました。ベッドルームを出てリビングへ向かうと、フミエちゃんは慌しくキッチンで動き回っています。少し焦げた匂いがしました。
 間もなく、トーストとベーコンエッグを持って、フミエちゃんがリビングのテーブルへやって来ました。コポルコのペットフードも一緒です。フミエちゃんはコポルコにペットフードを差し出すと、裏側が黒くなったベーコンエッグに齧り付きました。あまり美味しくなさそうです。
 コポルコはペットフードに口を付けました。いつものペットフードですが、とてもお腹が空いていたので、コポルコはすぐに食べ切ってしまいました。フミエちゃんは最初、あまり食事が進んでいない様子でしたが、冷蔵庫から持ってきたケチャップをたっぷりベーコンエッグに掛けると、一気に食べ切ってしまいました。
 食器を片付け終わったフミエちゃんは、再び慌しく動き始めました。洋服選びに時間が掛かっているようです。ベッドルームと玄関を行ったり来たりして、靴や鞄と合わせています。お化粧もしているようですが、フミエちゃんはいつもナチュラルメイクで、お化粧にはあまり時間を使いません。
 フミエちゃんがやっと準備万端整えて、戸締りやガスの元栓をチェックしている時、玄関の呼び鈴が鳴りました。フミエちゃんが玄関に出、コポルコもそっと後をついて行きます。玄関の扉を開けると、キョウスケ君が顔を出しました。
「よっ、準備できてるか?」
 フミエちゃんは一生懸命に服を選んで、チェックのスカートにベロアのジャケットでばっちり決めていますが、キョウスケ君はいつも通りのぼろぼろジーンズに色褪せしたパーカーを着ています。パーカーの下はドクロの絵柄がちょっと不気味なTシャツで、首回りが少し弛んでいます。キョウスケ君は、髪の毛は金色に染め抜き、耳にはピアスもしていますが、服にはあまり気を遣っていないようです。バンドマンのキョウスケ君にはそれなりのこだわりもあるようですが、普通の人にはちょっと理解しにくいこだわりです。キョウスケ君は、大学生の身分を持ちながらもフリーターに近い生活を送っており、お頭の出来はあまりよろしくありませんでした。だからこそ、フミエちゃんに何の確認も取らずに、生き物であるコポルコを衝動買いすることができたのです。
 それでも、キョウスケ君はフミエちゃんのことが大好きで、キョウスケ君はフミエちゃんの大好きなハードボイルドとは真逆にいるひ弱なナンパ男でしたが、フミエちゃんにはキョウスケ君のお頭の出来の悪さ具合がとても面白かったので、フミエちゃんとキョウスケ君は一年前からずっと付き合い続けていました。
「コポルコ、行くよ。」
 フミエちゃんに呼ばれて、コポルコは真っ直ぐにフミエちゃんのところまで駆けました。フミエちゃんに抱き上げられ、フミエちゃんと一緒にマンションを出ます。コポルコはフミエちゃんと共にキョウスケ君の運転する車に乗って、出掛けました。
 辿り着いた先は、多摩川の河川敷です。フミエちゃんの誕生日の頃にはコポルコを衝動買いする余裕があったキョウスケ君も、最近購入したこのちょっとレトロな中古車のせいで、バイトの給料日前となればカップラーメンしか食べない貧乏学生になっていたので、河川敷は二人のデートコースの定番でした。中古車を購入する前から、二人の大学に近いこの河川敷はよくデートコースになっていて、時々、キョウスケ君はここでギターを弾きながらフミエちゃんに捧げる歌を歌うのでした。
 キョウスケ君の歌はあまり上手ではなかったので、コポルコは少しばかり憂鬱になりました。河川敷で延々とキョウスケ君の歌を聞き続けるのは、コポルコにとってあまり楽しい時間ではなかったのです。フミエちゃんも、キョウスケ君の歌は下手だと言っていましたが、フミエちゃんはキョウスケ君の下手くそな歌がなぜか気に入っているようでした。
 コポルコがため息を吐きながら、フミエちゃんに抱えられて車を降りると、河川敷には見慣れないものがありました。
「あれだよ、あれ。すげえだろ?」
 キョウスケ君が河川敷の見慣れないものを指差しながら興奮して声を上げます。その見慣れない物は、赤い大きな風船のようで、風船の下のところには人が数人乗れるほどのかごが付いていました。
「本当に、あれに乗れるの?」
「乗れる、乗れる。真っ直ぐ上に上るだけだけど。金も取られるけど。」
 フミエちゃんの問いに、キョウスケ君がはしゃぎながら答えます。キョウスケ君が川原へ降りる階段を一段飛ばしで下りて行き、フミエちゃんはコポルコを抱えてゆっくりとその後に付いて行きます。
 キョウスケ君が、風船の側に集まっている人たちと話しています。それから、フミエちゃんを振り返り、笑顔で「早く、早く。」と手招きます。フミエちゃんはヒールの高いブーツで歩き辛そうに大きな風船に近付きました。
 キョウスケ君が風船に付いたかごに乗り込みます。フミエちゃんはスカートだったので、かごの隣に階段を用意してもらって、キョウスケ君の手を借りながら、コポルコを抱えたままかごに乗り込みました。キョウスケ君とフミエちゃんの他に、かごにはもう一人、コポルコの知らないオジサンが乗っていました。
「そら、行くぞ。」
 オジサンの合図で、ぐらりとかごが揺れました。フミエちゃんがバランスを崩し、危うくコポルコは落っことされそうになりましたが、何とかキョウスケ君がフミエちゃんとコポルコを支えてくれました。
 コポルコの頭の上では、ゴウッゴウッと炎が音を立てて燃えています。
 ゆっくり、ゆっくり、コポルコの視線が高くなります。風船の周りに集まっていた人たちが少しずつ下に見えるようになりました。そして視界が広がり……。
「すっごーい。」
 フミエちゃんが声を上げました。その隣で、下へと視線を向けたキョウスケ君が青白い顔をしています。
「すごいよ、コポルコ。飛んでるんだよ、私たち。」
 フミエちゃんが言いました。
 ――飛んでる?
 コポルコは辺りを見回しました。家が小さく見えます。遠くに橋も見えます。下には人が黒い粒のように見えます。
 風船の付いたかごは空に浮かんでいました。コポルコは飛んでいたのです。コポルコは飛べる豚になりました。飛べる豚は漢です。コポルコはポルコと同じ漢になったのです。
 コポルコは嬉しくて涙が出そうでした。
「僕も漢だ!」
 コポルコは叫びましたが、ミニブタ語で叫んだので、フミエちゃんやキョウスケ君にはぶひぶひとしか聞こえなかったことでしょう。
 しばし空の上を楽しんだ後、コポルコは再び地上に戻りました。それから、コポルコはフミエちゃんと共にキョウスケ君の運転する車でドライブに出掛け、フミエちゃんとキョウスケ君は途中でマクドナルドのチーズバーガーやサーティーワンアイスクリームのチョコレートミントを食べましたが、コポルコは空を飛べたことが嬉しくて、その後のことはあまりよく覚えていませんでした。ただ、ポルコを飛ばしてくれたかご付きの大きな赤い風船が「気球」と呼ばれるものであることは覚えました。
 フミエちゃんと共にマンションの一室へ帰り着いたコポルコは、いつものペットフードで夕食を済ませると、フミエちゃんがお風呂に入っている間に、リビングのカーテンの隙間から空を見上げました。
 流れ星は見えませんでしたが、やはり丸いお月様が笑っていました。コポルコはお月様にお礼を言いました。
「お月様、僕もポルコになれたよ。」
 お月様は優しい光を返してただじっとしていました。間もなく、フミエちゃんがお風呂から上がって来て、コポルコはフミエちゃんと一緒にベッドルームへ入って眠りに就きました。
 その夜、コポルコは夢を見ました。
 コポルコはポルコと一緒に空を飛んでいました。赤い気球でゆっくり空を上がって行くコポルコの前を、飛行艇に乗ったポルコが横切ります。
「飛べねえ豚は、ただの豚だ。」
 ポルコは親指を立てながらコポルコに向かってニッと笑いました。
「飛べる豚は、漢だ。」
 コポルコも親指を立てて合図を返そうとしましたが、蹄を持ったコポルコは親指を立てることができなかったので、手――正確には前足ですが――を振ってぶひぶひと言いました。
 ポルコと同じ漢になれて、コポルコはとても満足でした。

《了》


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●Novegle対応ページ ◎作者:桐生愛子(きりゅうあいこ)◎カテゴリ:現代◎長さ:中短編◎あらすじ:ペット用のミニブタ・コポルコは、映画『紅の豚』を観て、飛行艇乗り・ポルコの台詞「飛べねえ豚は、ただの豚だ。」に衝撃を受け ……。ハードボイルドを目指す童話風コメディ。

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