ここち

HOME >> 短編小説 >>

きつねに嫁入り


(1)  (2)

(1)

 東京都内とは言っても、二十三区内と西の外れの市部では全く環境が異なっている。近年、いくつかの大学が手狭になった都心のキャンパスを郊外へと移転させたことに加え、大型マンションの建築が相次いで開発は進んでいるようだが、開発から取り残された――いや、環境保護の観点から保存された――《裏山》には未だにたぬきが出るし、大学のキャンパス内でリスを見たなんて話さえ聞く。やぶ蚊がうざいと言う点を除けば自然保護には大賛成だし、可愛いリスなら私だって会ってみたい。だから、大切なのは、私の家がそういうのんびりした環境の中にあるということだ。

 緑生い茂る初夏のある晴れた日曜日、私は午前中から大学の図書館にこもって、主観的には勉強をしてきて、客観的にはただ涼んできた。夕風が吹く頃になって、お腹を空かせた私は家へと帰って来たのだが、玄関を開けるなり、どんよりとした空気が私を包む。あまりにも重くて蒸し暑い空気に息苦しささえ感じた。
 窓を開けていたらこんなことにはならない。高台にある我が家は駅からは少し距離があるものの、見晴らしと風通しと日当たりは抜群で、だからこそ、私の両親は三十五年ローンを組んで念願のマイホーム購入を決断したのだ。
 さては、家中締め切ってリビングだけクーラーを入れているな。
 そうと知っていれば何も朝から大学まで足を運ぶ必要などなかったのに、と悔しがりつつ、私はリビングの扉を開けた。一気に涼しい風が全身を包む……はずだったのだが、私の全身を包んでいるのは相変わらず蒸し暑い空気だ。どんよりとした重さは玄関を入った時以上かもしれない。
「ちょっとー、クーラー入れてないんだったら窓くらい開けてよ。」
 私が文句を言いながら部屋の奥を覗くと、両親が陰鬱な表情でリビングのソファーに向かい合って座っていた。これはまずい、と直感的に悟る。
 頭が古く、加えて不器用な父は、家事を手伝うどころか、昨晩だって夜遅くにぐでんぐでんに酔っ払って帰ってきて、今朝は私が家を出る頃になっても二日酔いで頭が痛いと叫びながら寝室でぐうたらしていた。日頃、穏やかな母がついに耐えかねて最近流行りの熟年離婚という可能性もなくはない。いや、でも熟年離婚は早過ぎる。大学生の私はともかく、弟はまだ小学生だ。熟年離婚と言うのは普通、「子供も大きくなったから」という奴だ。小学生の弟に両親の離婚は衝撃的だろうし、この家のローンだってまだまだ残っているはずだ。
 早まっちゃだめだよ、お母さん! と叫ぼうと息を吸い込んだ瞬間、顔を上げた母が先に口を開いた。
「由菜、お父さんが大変なことしてくれたわ。」
 私を見つめる母の表情は真剣だった。
「大変な……こと?」
 首を傾げて聞き返しつつ、私は精一杯に頭を回転させる。母の口ぶりと表情からして、大変なことと言うのは本当に大変なことなのだろう。これがもし、宝くじで三億円が当たったとか言う良い意味での大変なことなら良いが、どうにもそういう空気ではない。そもそも、宝くじが当たったと言うなら、そこに当選券がなくてはならない。二人が向かい合って座っている間にそれらしきものはないし、そもそも今日は宝くじの当選発表日ではない。
 普通に考えて、大変なことと言うのはあまり良くない意味で、はっきり言えば悪い意味で大変なことだ。例えば、競馬やパチンコで大損してしまったとか。しかし、父は競馬もパチンコもギャンブルは一切やらない。煙草だって吸わないし、お酒は飲むけれど、それも母が与えた僅かばかりのお小遣いの範囲内だ。お酒のために借金を重ねるような度胸は父にはない。だから、貯金は溜まっても借金を抱えるようなことにはならないはずだが、内弁慶なお人好しの父のことだから、誰かの借金の保証人になってしまって、その借主が借金を残したまま夜逃げしてしまったなんて可能性は考えられないこともない。あるいは、誰かに騙されて何か大きな犯罪に関わってしまったとか……。
「由菜、すまない……。」
 私が最悪の状況を様々想像していると、振り向いた父が懇願する表情で私を見た。今にも泣き出しそうな顔をしている。
「ど、どうしたの? 何があったの?」
 私はただならぬ空気に怯えながらも二人に問うた。自然と両手が上がって身構えてしまう。
「お前を……嫁にやることになった。」
 躊躇いがちに口を開いた父の言葉を、私は数秒の間理解できなかった。
「え? 何?」
 全くもって予想外の言葉に全身の力が抜けて、私は眉を顰めながら再び父に問い返す。
「だから、お前を嫁にやることになったんだ。」
「……嫁にやるって結婚するってこと? 誰が?」
「お前だよ。お前が結婚するんだ、由菜。」
「誰と?」
 私の問いに、二人はしばし押し黙った。もしかしたら、私の推理は当たっていたのかもしれない。嫁に行くなんて言うのは誤魔化しで、実際は父の莫大な借金のために私は暴力団か何かの組織に身売りに出されるのだ! 冗談じゃないが、あまりにも衝撃的な現実に私は頭の中が真っ白になった。
「……きつねと。」
 沈黙の後、二人は口を揃えて再び予想外の言葉を口にした。
「え?」
 自らの推理で呆然としていた私は二人の言葉を明確に理解できず、問い返す。
「狐だよ。お前は狐に嫁入りするんだ。」
 私は父の言葉に泣きたくなった。まだまだ働き盛りの父がこんなにも早くボケてしまうだなんて!
「由菜、いつまでもそんなところに突っ立ってないで、とりあえずこっちへ来なさい。」
 母が私を呼び、私は頷いて母の隣に腰を下ろした。
「さあ、お父さん。もう一度この子にちゃんと説明してちょうだい。」
 母がはっきりと父に命じ、父は俯きながら恐る恐るといった様子で口を開く。母の態度からすると、どうやら父はまだボケていないらしい。あるいは、母も父と同様にボケているかだが、母のしっかりした口調からしてそれはなさそうだ。私はほっとすると同時にさっぱり訳が分からなくなった。どうして私が狐に嫁入りしなくちゃいけないわけ?
 私の疑問に答える父の話は、要約すれば次の通りだ。

 昨晩、会社近くの居酒屋で同僚と飲んでいた父は、その同僚が家族サービスを理由に早々に席を辞した後、寂しく一人酒をしていたらしい。そこへ声を掛けて来たのが一人の若い男だ。見た目は父よりも一回り以上若いようだったが、なぜか意気投合し、その後、男の驕りで数軒梯子したらしい。
 泥酔できるくらいの酒が飲める程のお小遣いが給料日前の父に残っているはずはないと、私と母は昨晩から訝しがってたから、これで一つ謎が解けた。しかし、問題なのはこの先だ。
 男と一緒に飲み歩きながら、父は私の話もしたらしい。そして、どういうわけかその男は私に興味を持ったようで、ぜひとも嫁に欲しいと言ったんだそうな。娘を褒められて喜んだ父は気楽に「やる、やる。いつでも嫁にやるから、今度、家へ取りに来い。」と言ってしまったらしい。酔った勢いとは言え、本人の意思を無視してあんまりだと思うが、普通ならこれくらいは社交辞令だ。父だって、まさか男が本気で私を嫁に迎えるつもりだなどとは全く思わなかっただろうし、男が本気だと思っていたなら、私を「嫁にやる」なんて言うはずもない。
 ところがどっこい、男は本気だったのだ。父の言葉に、男は大喜びをして、父の連絡先を詳しく尋ね、必ず嫁に貰いに行くと告げたそうだ。男の熱の入った言葉は父を多少は不思議がらせたものの、男が連絡先を尋ねてきたのは意気投合した友人と再び一緒に飲みたいと思ったからだろうと父は考えていたし、何しろ完全に酔っ払っていた父は男と別れて家に着くまでの間に男と何を話したかなんてことはすっかり忘れていた。
 それを思い出させたのが、私が帰宅する少し前に掛かって来た電話だ。電話を掛けて来たのは昨日、父と一緒に飲んだと言う若い男で、来週の日曜日に嫁を貰いに行くと告げたらしい。母から電話を代わった父も、最初はその男の話を冗談だと思っていたらしい。嫁を貰いに行くなんて言って、実際は単に一緒に飲もうというだけの話なのではないかと思ったのだ。それが普通だ。
 しかし、男は「狐のコン」と名乗り、「男に二言はありませんからね。必ず娘さんを貰いに行きます。嘘を吐いたりなんかしたら呪いますよ。」と脅し文句を付けて電話を切った。男の声は父は心底震え上がらせる程冷たかったらしい。

 あんまりな話だ。馬鹿げている。
「それ、冗談だよ。お父さん、絶対にからかわれてるんだって。あるいは新手の詐欺かも。呪われたくなかったら金を出せってことになるんだよ。」
 それはそれで大変な話だが、狐の嫁になるよりは些かましだ。
「いや、あれは本当に狐だ。化け狐だよ。」
 父は青白い顔をして言った。一体どこに男が狐だという証拠があるのか、父は頑なに思い込んでいる。
「まさか。もう、お母さんも何とか言ってよ。狐に嫁入りなんてばっかみたい。」
 私が笑いながら母に同意を求めると、母は真剣な表情で私を見つめ返した。
「何言ってるの! あなた、このままだと本当に狐と結婚しなきゃいけなくなるのよ!」
 本気で泣きたかった。
「いい? お母さんは絶対に許しませんからね。狐へ嫁に行くなんて。この責任は全てお父さんに取ってもらうんだから!」
 母は私の両肩を掴んでゆさゆさと揺らす。隣で父は頭を抱えていた。
「すまない……。由菜、お前のことは父さんが必ず守るからな。この責任は全て父さんにあるんだ。」
 一体いつからこの人たちはこんな馬鹿げた迷信――それ以下のものだ――を信じるようになったのだろう。
 その晩、夕食の後に弟を交えての家族会議が開かれた。議題は「いかにして由菜を狐の魔の手から守るか」だ。いい加減にして欲しい。
 玄関ににんにくや十字架をぶら下げるという父の案が却下された後――吸血鬼と狐はまるで違う――、来週の日曜日は家族の誰も出掛けないこと、誰が訪ねて来ようと玄関を開けないこと、窓も開けないことという三つのことが決められた。
「お姉ちゃん、きつねさんと結婚するの?」
 弟は家族会議の内容をさっぱり理解していないらしく――私だってある意味さっぱり理解できなかったから当然だが――、就寝前に狐のぬいぐるみを抱えて私の部屋へとやって来た。
「そうね。もしかしたら本当にそうなっちゃうかもね。お父さんのせいで。」
 私はいい加減に答えてやった。最後の一言はただの鬱憤晴らしだ。
「ふーん、じゃあ、お姉ちゃんには狐さんのお友達がたくさん出来るね。僕にも紹介してね。」
「友達になれたらね。」
 もしかしたら取って食われるかも、なんて付け足そうかと思ったが、弟を怖がらせても可哀相な気がしたので諦めた。私の機嫌が悪い原因は妄信家の父と母であって、純粋無垢な弟ではない。

 その後の一週間は何事もなく過ぎ……るはずだった。
 土曜日にも拘らず朝から大学で講義を受けていた私は、その帰り道、家の前の通りでお喋りに興じている奥様方に遭遇した。
「そうなのよ。びっくりでしょう? 由菜ちゃんがもう結婚するだなんて。」
 何の気なしに耳に飛び込んで来た台詞に自分の名前が含まれていて、私が思わず奥様方へ視線を向けると、奥様方も私に気付いて小走りに駆け寄って来た。
「ああ、由菜ちゃん。丁度良いところに。」
 奥様方にとって丁度良いのは私にとって丁度悪いことのような気がして、私は即座に身構える。
「蓮君が言ってたんだけど、由菜ちゃん、結婚するんですって?」
 情報源が弟だということは予想通りだった。いくら妄信家の両親と言えど、娘が狐に嫁入りすることを近所に触れ回るはずはないし、そもそも二人は嫁入りに反対なのだから、私が結婚をするなどと言うはずはない。私は弟の問いにいい加減に答えたことを後悔した。純粋無垢な弟が「お姉ちゃんはきつねさんと結婚するんだよ!」なんてことを小学校で自慢げに語るかもしれないことくらいどうして想像できなかったのだろう。機嫌の悪い時は頭が鈍くなるらしい。
「でも、蓮君、由菜ちゃんがきつねさんと結婚するって言ってたけど、きつねさんって変わったお名前よねえ?」
「名前じゃないのよ、それ。狐みたいな目をしてるから蓮君がきつねさんって呼んでるだけなんでしょう? どんな人なの?」
「狐みたいな目ってこーんなかしら。」
 奥様方は矢継ぎ早に質問を重ね、揃って目尻を指先で引っ張り上げた。これは笑って良い場面だろうか。私が悩みつつ、誤解を解こうと口を開くよりも早く、奥様の一人が口を開いた。
「そう言えば、キツネ目の男って前に何かの事件の犯人にいたわよねえ?」
「ああ、いたいた。何の事件だっけ。」
「五億円事件だったかしら?」
 ――それを言うなら三億円事件、しかもキツネ目の男はグリコ・森永事件の重要参考人です。
「あの事件、まだ解決してないのよねえ。」
「もしかして由菜ちゃんの結婚相手って……。」
「まさか。」
「そうよねえ、まさかよねえ。」
「でも、いつになったらあの犯人捕まるのかしら。」
 ――犯人が海外逃亡していた場合を除いてもう時効です。
「怖いわよねえ。最近、この辺も不審者が出るみたいで、学校から連絡来たでしょ?」
「そうそう、こないだ三丁目の山田さん、空き巣に入られたって!」
「私も心配だからこないだ警備会社と契約したのよ。」
 いつの間にやら話題が私から他へと移ったようなので、私は再び奥様方の関心を引くことのないようにそっとその場から退散した。
 帰宅した私は、すぐさま弟を呼び付けて私がきつねさんと結婚しないことを教えてやった。
「お姉ちゃん、狐さんと結婚しないの?」
「うん、しない。」
「じゃあ、僕、狐さんとお友達になれない?」
 弟が寂しそうに私を見つめる。
「さあ、私が狐と結婚しなくても蓮が狐と友達になることは出来るんじゃないの? それ、友達でしょ?」
 私は弟が抱えている狐のぬいぐるみを指差した。弟は目をぱちくりさせて抱えていた狐を見る。それから納得した様子で満足そうな笑みを見せた。
「うん! 狐さんは僕の友達だよ。」
「そ、良かったわね。じゃあ、明日、私が狐と結婚するって言った子にあれは間違いだったってちゃんと言っておくのよ。良いわね?」
 私はしっかりと念を押した。
「うん、分かった。」
 弟は素直に頷いて、私の部屋を出て行く。とりあえずこれで近所で妙な噂が広まるのは止められた。問題は明日。本当に狐がやって来るのかどうか、だ。

前頁 - 次頁

HOME >> 短編小説 >>

Copyright © 2007 Aiko Kiryu. All rights reserved.