ここち

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きつねに嫁入り


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(2)

 翌朝、朝早くから叩き起こされた私は、早々に朝食を済ませ、家族揃ってリビングでその時を待っていた。父は何のためだかゴルフクラブを握り締めて完全に臨戦態勢だが、なかなか来客は現れない。
「あ、お天気雨だー。」
 リビングから庭を覗いていた弟が声を上げた。
「狐の嫁入りだからか!?」
 父が怯えた表情で言うが、狐の嫁入りは狐が嫁入りする場合であって、この場合は狐に嫁入りするのだから、少し違う。
 午前十時、ついに呼び鈴が鳴った。全員が息を潜め、携帯ゲーム機で遊んでいた弟もゲーム機を取り上げられて、母に口を押さえられた。
 再び呼び鈴が鳴るも、誰も出ようとしない。この家のインターホンにはモニタが付いていないから、リビングからでは玄関にやって来たのが誰なのかは分からない。もしかしたら宅配便かもしれないし、近所の人が回覧板を持って来たのかもしれない。
 三度目の呼び鈴が鳴り、私は立ち上がってインターホンに出た。
「由菜!」
 父が叫ぶが、構っちゃいられない。いつまでもこんな密閉空間に閉じ込められていては息が詰まる。
「あ、こんにちは。狐のコンです。」
 インターホンから聞こえて来た声は間抜けだった。
「狐のコン……さんですか。」
 まさか本当に狐のコンが来るとは思わなかった。「狐のコン」なんて言うのは酔っ払いの聞き間違いだと思っていた。エイプリルフールはとっくに終わっているし、冗談としてもあまり面白くはない。そもそもどうして狐なのか。私はしばし頭を抱えた。
「はい。本日お伺いする約束をご主人様としていたはずなのですが……。あ、もしかしてこの声は、由菜さんですね! お話に聞いていた通り、お声も素敵ですね。」
 狐のコンと名乗った来客は、喜々とした声で言う。私は何となく、これなら大丈夫だと思った。居留守を使ったり、インターホンを介して押し問答をするより、直接会って話をし、さっさと断った方が良いと思った。まさか本当に狐ではないだろう。狐は日本語を話さない。近所の奥様が言った通り、「狐」は名前なのかもしれない。「狐のコン」ではなく「狐野コン」かもしれないではないか。
「少々お待ちください。」
 私は受話器を壁に掛け直すと、リビングを出た。
「お、おい。狐なんだろう? インターホンでさっさと断って追い返せば良いじゃないか。」
 怯えながらも父は強気の主張を述べるが、それではあまりにも失礼だ。相手は酔っ払いの言動を本気にしてこの暑い中わざわざ家まで訪ねて来てしまったのだ。いくら相手が阿呆だと言っても、そもそもの原因は父にある。お茶くらいは出さねばなるまい。
 私が玄関を開けると、門の向こうにチャコールグレイのスーツに身を包んだ至って普通の青年が立っていた。
「こんにちは。」
 青年は笑顔で挨拶し、きちんと頭を下げた。
「狐のコンです。」
 名前が妙なことを除けばなかなかの好青年だ。
「とりあえず、中へどうぞ。」
 私が言うと、狐のコンさんは嬉しそうに門を入って来た。
 狐のコンさんが家の中へ入ると、父が「あぁ。」と悲痛な表情で頭を抱え、母は「あらぁ。」と嬉しそうに顔を赤らめた。最近、韓国ドラマにはまっている母は、切れ長の目をした青年の顔に、母のお気に入りのドラマで主演を演じている韓国の俳優に似たものを見つけたらしい。
「きつねさんだー。」
 母の腕から解放された弟は嬉しそうに狐のコンさんを見上げ、狐のコンさんもにっこりと笑みを返す。
 私と母でお茶を淹れ、弟がリビングのソファーで横になりながらゲームで遊んでいる傍ら、私と両親はダイニングテーブルに着いて狐のコンさんと向き合った。
「由菜さんは本当に話に聞いていた通りの素敵な方です。こんな素敵なお嬢さんをお嫁に頂けるなんて、僕は本当に幸せ者です。」
 出されたお茶を一口飲み、狐のコンさんは真面目な顔をして言った。
「いや、それなんだが……。」
「お父さん、はっきり言ってください。」
 さすがの母も、いくら好きな俳優に似ているからと言って、娘が狐と結婚することを許すつもりはないらしく、歯切れの悪い父を肘で小突いてはっきり断るように促す。
「その、コンさんには悪いんだが、あれは酔った勢いと言うか、社交辞令と言うか、私としては娘を狐の嫁にするつもりはないんだ。」
 両手で湯飲みをいじりながら、父はぼそぼそと口にする。
「どうしてです? あの時おっしゃったじゃないですか。娘さんをくださると。」
「だからその時は酔っていて……考えてもみてくれ。一体どこに娘を狐の嫁にする父親がいる? 狐と人間が結婚できるわけないじゃないか!」
 父は椅子から立ち上がりはっきりと叫んだ。はっきり断った勇気は褒めてやるにしても、未だに目の前の青年を狐と信じている点は頂けない。と言うかまず一番にその誤解を解くべきなのだ。二人が狐のコンさんを化け狐と信じきっている以上、私がその誤解を解こうと試みなくてはならなかったのだが、狐のコンさんが化け狐だなんて全く信じていない私はうっかりそれを忘れていた。
 父の言葉に、狐のコンさんは驚いた様子で二回瞬きをした。当然だ。どう見ても人間なのに、いきなり狐にされてはさっぱり訳が分からないだろう。仮に、狐のコンと名乗ったのが彼の冗談だったとしても、本気で父が自分を狐だと思っているとは思わなかったに違いない。
「狐じゃいけませんか?」
 狐のコンさんは俯き、予想外の台詞を吐いた。
「なぜ、狐じゃいけないんです?」
 なぜいけないと言われても、種の違いと言うか……あまりにも真剣な表情に、私は思わずまともに答えそうになったが、よく考えればそんなことを言うまでもなく「狐じゃありません。」と言うべきではないだろうか。まさか本当に狐のコンさんは狐なのではないかと私は疑い始めたが、すぐ次の台詞で私は正気を取り戻した。
「確かに、狐はまだ小さな会社です。」
「会社?」
 私と父と母が同時に聞き返したが、狐の紺さんはそのまま続けた。
「しかし、僕はこれから狐をもっともっと大きな会社にするつもりです。昨今のグローバル化の波に乗り、我が社も海外進出を進めているところですし、来年は株式上場も予定しております。株式会社キツネは必ず日本一の……いえ、世界一の企業になります。そして、娘さんは僕が必ず幸せにします! ですからお父さん、由菜を僕にください!」
 立ち上がった狐のコンさんは父に向かってビシッと頭を下げ、私たちは呆然と狐のコンさんを見つめる。私の中には何となく、一つの答えが導き出されていた。
「あ、あの、コンさん? その、株式会社キツネって……。」
 私は恐る恐るコンさんに問い掛けた。
「あ、ああ、そう言えば、まだ名刺をお渡ししていませんでしたね。失礼致しました。」
 そう言って狐のコンさんはスーツの内ポケットから名刺入れを取り出し、一枚の名刺をテーブルの上に置いた。
「私、株式会社キツネ、営業部第一営業課、課長の紺太郎と申します。」
 差し出された名刺にもはっきりと書かれていた。紺は苗字で名は太郎。キツネと言うのは会社の名前だ。狐のコン、キツネの紺。確かに間違ってはいない。私は思わず机に突っ伏した。営業に来たわけでもないプライベートな会話でまで一々会社名を付けて名乗るのは不自然ではあるが、営業マンとして身体に染み付いた性なのかもしれない。
「あれ? 由菜さん? どうされました?」
 狐のコンさん……いや、キツネの紺さんが、心配そうに私の顔を覗き込む。
「い、いえ、何でも……。」
 なんて恥ずかしい勘違いなんだろう。いや、私は最初からそんなことではないかと思っていたのだ。狐に嫁入りだなんてそんな馬鹿げた話があるはずもない。救いは紺さんがこちらの誤解にさっぱり気付いていないらしいということだ。
「で、でも、その株式会社キツネと言うのはどんな事業をしているのかしら。」
 父は自らの過ちをはっきりと悟ったらしく、恥ずかしそうにしながら咳払いをし、母がそれをフォローするように紺さんに問うた。
「主に、情報ネットワークを生かしたコンサルティングです。そうですね、例えば、全国規模の統計調査を行ったり、その結果を生かしたマーケティング戦略などをアドバイスしたりして、各方面の様々な企業と協力関係を築いています。言わば、株式会社キツネは企業の頭脳です。社会の情報化が益々進む現在、株式会社キツネは必要とされる企業。必ず発展します。」
 さすが営業課長と言うべきか、紺さんは滑らかに、熱意たっぷりに語る。
「何だかよく分からないけど、すごそうじゃない。ねえ、お父さん。」
 紺さんが真っ直ぐに母を見つめて語ったせいか、母は頬を仄かに赤く染めながら嬉しそうに父に振った。父は勘違いの恥ずかしさからか、すっかり勢いを失くし、母の言葉に曖昧な返事をしながら頷いている。
 だから私は言ったじゃないかと思いつつ、ころりと態度を変えた両親に呆れていたが、はたと重大な事実に気付いた。もしかして両親は相手が狐でなければ結婚に賛成なのか? 何となく、そんな空気が漂っている。そもそも反対の最大の理由は相手が狐だということだった。相手が狐でなかったらどうするのかなんてことは家族会議では全く話題に上らなかったのだ。
「お父さん、お母さん、由菜さんは僕が必ず幸せにして見せます!」
 紺さんは真っ直ぐに父と母を見、宣言した。
「あらぁ、由菜、良かったわねぇ。素敵な旦那様が見つかって。」
 母はにこにこしながら私を突くが、冗談ではない。紺さんが嫌いと言うわけではないが、私はまだ学生だ。そもそも今日初めて会ったばかりの人と結婚するだなんて考えられない。
「ちょ、ちょっと待ってよ! 私は結婚なんてそんな気全然ないんだから!」
 私が立ち上がって叫ぶと、紺さんは驚いた表情で私を見上げた。
「由菜さんは僕のことが嫌いですか?」
 私に問う紺さんの顔が悲しそうに変わる。
「嫌いとかそう言うんじゃなくて、ただ、今日会ったばかりで、私はまだ紺さんのことをよく知らないわけだし……。」
 はっきり断りたいのは山々なのだが、いかにも真正直で純朴そうな紺さんを前にするとどうにも彼の好意を無下にはできないと思った。私も何だかんだでお人好しな父の性格を受け継いでいるらしい。
「確かに、由菜さんの仰るとおりです。」
 今まで押し押しだった紺さんが妙に素直に納得した。
「でも、安心してください。僕もまだ由菜さんのことをよく知りません。これから少しずつお互いを理解し合っていけば良いんです。そうすれば僕らはきっと良い夫婦になれます。」
 紺さんは立ち上がって私の両手を包み込むように掴む。どうにも紺さんは私を嫁に迎えると決めているらしい。一体、このどこにでもいるような平凡な女子大生のどこが気に入ったと言うのだろう。
 私がそっと手を引っ込めると、紺さんは再び椅子に腰を下ろし、機嫌を良くした母が台所の奥から出して来た塩羊羹を頬張った。たぶん、母がデパ地下の特産品店で購入して隠し持っていたものだ。それを出してくるとは、母は紺さんをかなり気に入っているらしい。
「いや、でも、本当に由菜さんは美しい方です。そのくりっとした円らな瞳、キツネには……いえ、我が社にはまず有り得ません。由菜さんは類稀なる美貌をお持ちです。」
 いくら営業マンだからとは言え、おだて過ぎにも程がある。しかし、そう言う紺さんの目がきらきらと輝きながら真っ直ぐに私を見つめていたから、完全な営業トークとも思われない。私もまんざらではないと言いたいところだが、どうせなら日本一とか世界一とか言ってほしい。聞いたこともない会社の女性従業員と比較されてもそれが果たしてすごいことなのかいまいちピンと来ないのだ。こんな平凡な女子大生に負けるなんて、株式会社キツネには美人が全くいないのかとさえ疑いたくなる。
「さて、そろそろお昼になりますし、僕はそろそろこの辺でお暇致します。」
 出された羊羹を食べ切り、湯飲みに残ったお茶を飲み干して、紺さんは立ち上がった。
「あら、もう少しいらっしゃっても良いのに。お昼、食べていかれたら?」
 すっかり親紺派になった母は紺さんを引き止める。
「いえ、そういうわけには……。今日はいきなりで由菜さんも驚かれたでしょうし、また日を改めて。でも、僕は必ず由菜さんをお嫁に頂きます。僕の決意は決して変わりません。」
 振り返った紺さんは熱のこもった視線を私に向けた。これは愛の告白と言うよりは宣戦布告のような気がする。
「ほら、由菜、紺さんを送って行って。」
 母が私を促して、私はやむなくリビングを出て行く紺さんの後を追う。
「由菜、どうせあんたは付き合ってる人もいないんでしょ? 良いじゃない、紺さんで。万年平社員のお父さんよりずっと出世しそうじゃない。玉の輿よ、玉の輿。」
 母は私の耳元で囁いた。確かに母の言う通り、彼氏いない歴が年齢に等しい私にこの縁談は悪くない話だ。しかし私はまだ学生、ぴっちぴちの二十歳だ。この先、紺さんよりももっと素敵な人に出会う可能性は充分ある。私は反論しようと口を開きかけたが、せっかちな母に追い立てられて紺さんと共に玄関を出た。ゲームに飽きたらしい弟もゲーム機を放り出してついて来た。
「ぜひまたいらしてくださいね。」
「きつねさん、また来てねー。」
 母と弟は笑顔で紺さんに言い、紺さんもそれに笑顔で答える。父は娘を嫁に出すことについて積極的に賛成するつもりはないようだが、積極的に反対を唱えるつもりもないらしい。十中八九、最終的には母に丸め込まれるのだろう。私にとっては危機的状況だ。
「ここで良いですよ。」
 門の外まで出ると、紺さんは言った。駅まで送るつもりだった私には予想外の言葉だ。
「男しては女の子に送られるわけにはいきません。ここで充分です。」
 紺さんはにこりと笑った。切れ長の目が更に細められて線になる。近所の奥様方が話していた通り、狐みたいだ。
「では、これで。また来ます。」
 そう言った紺さんは突然、顔を寄せた。反射的に身体が強ばる。
「僕は必ず由菜さんをお嫁に貰いますからね。」
 紺さんは私の耳元で柔らかく囁き、再びにこりと笑うと私に背を向けて歩き出した。条件反射的に熱くなった頬を押さえる。ちょっと変なところはあるけれど、世間的に見て紺さんはかなりの好青年だ。つい、結婚も有りかなあなんて考えてしまう自分が情けない。この際、はっきりと断っておくべきなのだろうが、私は完全にタイミングを失し、遠ざかって行く紺さんの背中をただぼんやりと見つめるしかなかった。
 間もなくして、紺さんの姿が曲がり角に消え掛かる。その瞬間、私は紺さんの上着の裾からはみ出した異質なものに気が付いた。金色の毛に覆われたふわふわとしたもの。普通、それは尻尾と呼ばれ、人間の持ち物ではない。
 私は目を凝らしたが、瞬きをする間に狐のコンさんの姿は完全に曲がり角の向こうに消えていた。

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