ここち

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たなぼたに願いを


 何もしなくても汗ばむ季節だが、涼しい夕風が吹き始めて気持ちの良い夕刻だった。
「ただいまーっ!」
 六時間の授業を終え、お腹を空かした私は未だに引き戸の玄関へ飛び込んだ。近頃の世の中は物騒らしいが、下町の玄関は未だに留守中だって開け放しだ。靴を脱ぎ捨て、居間に鞄を放り出すも返事はない。代わりに、付けっ放しのテレビが独り言を呟いていた。今日は火曜日だから、おばあちゃんは詩吟の会に出掛けている。おじいちゃんは仏壇の中だし、父は仕事。留守役の母は回覧板を届けに行ったまま井戸端会議にでも参加しているのだろう。
 私は白波の砕ける断崖の上で罪の告白を始めた犯人さんを横目に、制服のスカートでひらひらと足元を扇ぎながら台所へ忍び込んだ。夕飯の準備が進められている気配はない。今日の夕飯は遅くなりそうだ。私は冷静に状況を推理した。まずい、このままではお腹が空いて倒れてしまう。冷蔵庫を覗くも、目ぼしいおやつはない。私は手っ取り早く食べられそうなものがないか辺りを見回しつつ、戸棚を覗いた。
 ああ、私はなんて名探偵なんだろう。
 戸棚の中にはお皿に載ってラップを掛けられたぼた餅が一つ、どっしりと構えて鎮座していた。棚からぼた餅とはまさにこのことだ。
「いっただきまーす。」
 私は戸棚から皿ごとぼた餅を取り出すと、さっさとラップを引っぺがして躊躇いなく齧り付いた。残り物にしてはなかなかの味だ。戸棚の脇に置かれたごみ箱を除くと、高級そうな和菓子屋の包みが落ちていた。《おはぎの匠》と書いてあるから、私が今食べたこれはぼた餅と言うよりおはぎだったようだが、おはぎもぼた餅も物は同じだ。ぼた餅は元々《牡丹餅》で春のもの。これに対しておはぎは《お萩》で秋のものだ。おばあちゃんの知恵袋から得た知識はまだ辛うじて私の記憶に留まっていた。しかし、今は夏だから、ぼた餅でもおはぎでもどちらでも良いと言えるし、どちらでもないとも言える。ただ、棚から出てきたのだからここはやはり「ぼた餅」と言うべきだろう。
 紙包みが付いているような高級和菓子なんて、本来なら我が家にあるべきものではないが、昼間に来客でもあったのか、母がへそくりを叩いたのだろう。いずれにしても、こんなところにぼた餅を隠すのは母しかいない。おばあちゃんならきっと仏壇に供えてしまう。だから、これは食べても大丈夫だ。少なくとも「食べるなキケン」とは書いていなかったし、今更食べ掛けのぼた餅を返しても私に降り掛かる結果は変わらない。
 私はお茶が飲みたくなって、食べ掛けのぼた餅をお皿に置き、急須にお茶の葉を入れてポットからお湯を注いだ。急須をゆらゆらと揺すりながらお茶の葉が開いてしっかり色が出るのを待つと、湯飲みに注ぐ。和菓子にはやっぱり緑茶が合う。
 私が台所のテーブルに腰を下ろしながらぼた餅を緑茶を味わっていると、声がした。
「ラッキーだったな、少女よ。」
 突然の声に、私はぼた餅を喉に詰まらせそうになって咳き込んだ。家族の声ではない。
「大丈夫か? そんなに慌てて食べなくともぼた餅はなくならないぞ。」
「……だ、誰だよ、お前!」
 ぼた餅を無事に胃へ送り込んだ私は、目の前に現れた金髪青目の不審者に向かって叫んだ。外国人の親戚はいない。海外渡航経験ゼロの私には外国人の友人もいない。いくら開放的な下町と言えど、他人の家に勝手に上がり込んで来るなんて非常識だ。せめて「上がるよー。」くらい言うのが常識だ。近付く気配さえ感じなかった。
「案ずるな、少女よ。私は怪しいものではない。」
「どこからどう見ても怪しいわ!」
 私は目の前の男を指差しながら叫んだ。別に金髪青目がいけないとは言わない。はっきり言えば、目の前の男はこんな下町をうろうろしていたら近所のおばさんたちがポッと顔を赤らめてしまうような美形だ。ただ、服装が妙だった。学芸会の衣装のような、真っ白のローブ。魔法使いか仙人みたいだ。
 男は何ら動ずることなく、あっさり私の指摘を無視すると図々しくも咳払いをしてから口を開いた。
「私は棚ぼたの神、棚ぼた様だ。幸運なお前の願いを一つだけ叶えてやろう。」
 百十番に掛けるべきだろうか。それとも今すぐ逃げ出して駐在所へ駆け込むべきだろうか。
「……驚かないのか?」
 私が黙って次の選択肢について逡巡していると、男が問うた。
「別に。そんなに怖くないし。」
 幼い頃から格闘マニアの父親に鍛えられてきたから、いざとなれば男一人くらい伸してやる自信はある。金髪青目の美青年はどこからどう見ても腕に自信があるというタイプではない。困った時は「急所を思い切り蹴り飛ばせば良い」という母から教わった護身術もある。母はきっと父より強い。
「いや、怖がって欲しいわけじゃなくて……ね。もうちょっとリアクションが欲しいなあ、とか……。」
「ていうか、あんた誰?」
 私は、独りでいじけ出した男の言葉を遮った。まだ一口分残っていたぼた餅を口に入れ、湯飲みに残っていたお茶を飲み干す。百十番に掛けるのも駐在所に駆け込むのも面倒くさくなった。いっそ私がここでこいつを現行犯逮捕して感謝状でも貰いたい。
「今言ったばかりだろう。私は棚ぼたの神、棚ぼた様だ。」
 男は私を睨み付けて答える。睨んだと言うよりは、大真面目な顔をしたと言った方が良いのかもしれない。全く真面目に言うような台詞ではないのだけれど。
「たなぼたの神……って棚ぼたの神? 七夕じゃなくて?」
 私は思わず聞き返した。もうすぐ年に一度の星祭。学校から帰って来る途中にも短冊をぶら下げた笹が飾ってあった。
「そうだ。私は神聖なる棚ぼたの神だ。どうだ、すごいだろう?」
 男は自慢げに腰に手を当てて笑った。神様が「すごいだろう?」なんて言ってはいけないと思うが、問題はそんなことではない。
 棚ぼたの神って何だよ、棚ぼたの神って! 私は頭の中で突っ込んだ。日本には古来から八百万の神と言われるたくさんの神様がいる。ありとあらゆるものに神が宿っているとされたのだ。しかし、しかしそれでも、棚ぼたの神なんて聞いたことがない。そもそも、あらゆる「もの」に神が宿るにしても、棚ぼたは果たして「もの」だろうか。棚ぼた、略さず言えば棚からぼた餅。思いがけない幸運のことだ。棚は「もの」だし、ぼた餅も「もの」だが、棚ぼたは「もの」ではない。ただの諺、あるいは現象だ。
「棚ぼたの神って……何してるわけ?」
 私は呆れて尋ねた。最近流行のコスプレにでもはまっているのだろうか。棚ぼたの神というのはどこかのふざけた漫画のキャラクターなのかもしれない。そもそも、棚ぼたの神が八百万の神の一つなのだとしたら、金髪青目は頂けない。どう考えてもルックスが洋風過ぎる。服装だって、日本風を貫くなら着物を着るべきだ。白いローブなんてキリスト教でも通用しそうだ。最初に「ラッキー」なんて横文字を口にした時点で日本古来の神を名乗るには値しない。「棚ぼた」という言葉がいつ頃から存在していたのかも気になるところだ。「棚ぼた」なしに棚ぼたの神など有り得ないのだから。
「棚ぼたとは思いがけぬ幸運のこと! つまり私は思いがけぬ幸運の神! 即ち、私に出会えた者は思いがけぬ幸運に出くわしたことになる。という訳で、お前の願いを一つだけ叶えてやる。どうだ、嬉しいだろう?」
 訳が分からない上、正直、あまり嬉しくなかった。この男は私の人生の中で、最も出会いたくなかった人間――自称神様だから人間ではないのかもしれない――の一人だ。
「さあ、何でも願いを言いたまえ。」
 出来れば関わりたくないが、ここで押し問答をしても話が長くなるだけだ。私はしばし考えた後、簡単な願いを一つ言ってみることにした。叶えばラッキーと言うものだ。
「じゃあ、もう一つぼた餅をください。」
 私は人差し指を立てながら男に向かって言った。ぼた餅一つでは食べ盛りの若者の胃袋は満たされないのだ。甘いものばかり食べて太るのは嫌だが、和菓子であるぼた餅の方がケーキなどの洋菓子よりはずっとヘルシーだ。
「……だ。」
 男は不満そうに顔を顰め、何かをぼそりと呟いた。
「え?」
「そんなちっぽけな願いじゃ駄目だー!」
 突然、男は叫んで私の両肩を鷲掴みにすると思い切り揺さぶった。
「神だぞ? 貴様は神を目の前にしているんだぞ? 神が何でも願いを叶えてくれると言うんだぞ? それなのに何だ、ぼた餅一つ? んなもんは自分で買いに行け! 他にもっと高尚な願いがあるだろう!」
 ああ、やっぱり、と思う。最初からまともではないと思っていたが、どうにも私とは相性の悪いタイプらしい。こういう面倒くさい人が私は苦手だ。
「高尚な願いねえ……。」
 私は薄ら笑いを浮かべなが呟いた。お母さん、早く帰って来て。
「さあ、早く言うのだ。」
 人の願いをあっさり却下しておきながら、男は楽しそうに急かす。
「じゃあ、世界平和。」
 私は大変に高尚な願いを閃いた。
「世界を平和にしてください。お願いします。」
 私は頭を下げて丁寧に男に頼んだ。この手の人間――自称はこの際考慮しない――は手続に拘る。あまりいい加減に頼むと「頼み方が悪い! 神への冒涜だ!」とか何とか叫び出すに違いない。
 男は俯いたまま黙っていた。よく見ると、拳を握り締めて小刻みに震えている。この高尚な願いを喜んでいるのだろうか。ああ、これこそ私が叶えるべき願いだとか何だとか勘違いしているのだろうか。この男が世界平和を実現するために奔走し、とりあえずこの場から立ち去ってくれれば私はそれで充分だった。が、自分にとって都合の良い予想というのは大概、外れるものである。
「駄目だ。そんなんじゃ駄目だ!」
 男はちゃぶ台でもひっくり返すかのように思い切り両手を上げた。
「な、何で? すっごく高尚な願いだと思うけど、世界平和。」
「違う! 世界平和なんてのは人間が自らの力で実現すべきものなのだ。神の力で世界平和を実現したところで、人間はまた過ちを繰り返す。世界平和と言うのは一人ひとりの人間の不断の努力によって実現し、維持されなくてはならないのだ。それを神に願うなど、義務の放棄に他ならない!」
 言っていることには一理あると思えなくもないが、要するに、自分の力で世界平和という願いを叶えることは出来ません、という話だ。それならぼた餅を一つとっとと買って来てくれたら良かったのに、と思う。全くわがままな神様だ。私はため息を吐いた。
 少なくとも今確かなことは、私はこの男の自己顕示欲を満足させることが出来、なおかつこの男に実現可能な願いを言わなくてはならないということだ。そんな願いは、ない。
「じゃあさあ、例えばどんな願いなら叶えてくれるわけ?」
 私は男に問い掛けながら椅子に腰を下ろした。
「例えば……そうだな、カッコイイ恋人が欲しい、とか。」
「要らないし。」
「あるいは……イケメン外国人と恋がしたい、とか。」
「興味ない。てか、二つとも同じ内容じゃん。」
 私は呆れながら急須に残っていたお湯を湯飲みに注ぎ切って一口飲む。
「後者は外国人限定だぞ。」
「だから、どうでも良いんだって、そういうの。棚ぼたの神って恋愛の神なの?」
 私は左肘をテーブルについて頭を支えた。今の私にとって最も不要な類の神だ。
「別にそういうわけではないが……イマドキの女子というものはそういう願いを持っているものではないのか?」
「イマドキの女子……ねえ。」
 正直、私はあまり流行には興味がない。はっきり言って、私はイマドキっぽくない女の子だ。愛だの恋だの言っている暇があったらぼた餅を食べたい女の子だ。
「じゃあ、何なんだ!? お前の真の願いを言ってみろ! お前が心の底から欲する願いは何だ?」
 私は考えた。かなり真剣に考えて、私は一つの答えを導き出した。
「とりあえず、あなたに消えて欲しいです。」
 間違いなくこれは私の真の願いだ。
「き、消えて欲しい、だって?」
「はい。この場から立ち去ってくれるだけでも良いです。もうあなたと関わりたくありません。」
 私がはっきり言い切ると、男はしばし呆然と立ち尽くしていた。自己愛の強そうなこの男には少しばかりショックの大きい台詞だったのかもしれない。しかし私の心配は杞憂に終わった。
「つまり、私を自由にしたい、と?」
「は?」
「自分の願いなんか叶えてくれなくても良い。棚ぼたに縛られることなく自由にして良いと、そう言ってくれるのだな!?」
 男は喜々とした表情で私の両手を取った。何を勘違いしているのか知らないが、少なくとも今度の願いは却下されたわけではないらしい。
「ああ、君はなんて優しい少女なんだ。私は決めたよ。棚ぼたの神なんて辞めてやる。私は……人間になる!」
 元々人間なのではないですか、という突っ込みはしない方が良いのだろう。
「ああ、ありがとう、少女よ。この恩はいつか必ず返すぞ。」
 男は独りテンション高く捲くし立てるが、恩なんて返してくれなくても良いからさっさと消えて欲しい。
「さらばだ、少女よ。しばしの間、お別れだ。」
 男はにこりと笑みを見せ、私の目の前から消えた。確かに、消えた。台所から出て行ったわけではない。一瞬にして目の前から消えたのだ。まるで瞬間移動のように。
「まさか本当に神様だった……?」
 もしかしたら消えたふりをしてテーブルの下にでも隠れているのではないかと思ったが、辺りを見回しても男の姿は見当たらなかった。本当に神様だったのなら、きちんと願いを言って叶えてもらうべきだった。例えば、半分はユニセフに寄付するので宝くじで三億円が当たるようにしてください、とか。
 私は大いに後悔しながら急須にお湯を注ぎ足して、もう一杯緑茶を啜る。その時、私は既に男が言い残した台詞の中に不自然な言葉が紛れ込んでいることに気付いていた。嫌な予感はしたが、それゆえに深く考えないようにしようと決めていた。
 日も完全に暮れる頃になって、母が帰って来た。
「ごめんねー、遅くなっちゃって。でも、すごいのよー。お母さん、外でイケメン拾っちゃった。」
 買い物袋を両手に提げながら帰って来た母は台所に入って来るなり、変なことを言った。
「は?」
 私が聞き返すと、ふっと台所と居間の間の暖簾が揺れる。母がなぜか私にウィンクした。いい年して何をしているのかと突っ込み掛けたその時、私は台所の入り口に人の気配を感じて振り向いた。
「スミマセン、お世話にナリマス。」
 声と共に暖簾の間から現れた顔に、私は心底驚いた。服装こそジーンズにTシャツだが、それは紛れもなく先ほどまで私を大いに煩わせていた棚ぼたの神だった。神様が言う「しばしの間」というのはずいぶんと短い。
「あ、ああ、あんたが何でここにいるのよ!?」
「何か外でうろうろしてたのよ、その子。聞いたら、今夜泊まるところもなくて困ってるって言うから、とりあえずうちに泊めてあげることにしたの。なかなかのイケメンでしょ? あんた、彼女にしてもらったらどう?」
 下町は開放的だ。どこの馬の骨とも知れない男を可愛い一人娘と一つ屋根の下に入れることを全く躊躇わないくらい。
「ヨロシクお願いシマース。」
「お前は何で片言なんだよ!」
 私は思い切り突っ込んだ。その後、母に怒鳴り付けられて金髪青目の青年に英語で謝る羽目になったことは出来れば早く忘れたい。

前頁 - 執筆後記
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