ここち

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アウト・オブ・ザ・フィールド ――中の人――


 青い芝生に覆われたグラウンドはサポーターの歓声と熱気に包まれていた。
 チームの応援歌が流れ、紙吹雪が舞う。中野仁志も音楽に合わせて飛び跳ね、スタンドに向かって手を振った。
 J1での優勝はチームの悲願だった。三年前、中野の所属するプロサッカーチーム・カモメッツ神奈川はサドンデスのPK戦にまでもつれ込んだ決勝戦で敗れ、初優勝を逃していた。その翌年は不振が続いてJ2に転落し、チームは絶望的な状況だった。それが一年でJ1復帰を果たして再び優勝候補に名乗りを上げたものだから、スポーツ紙に限らず全国紙までもが「奇跡の復活」と書き立てた。
 そして、今日――ついにカモメッツ神奈川は今期のJ1を制し、念願の優勝トロフィーを手にすることとなったのだ。
 チームカラーであるスカイブルーのユニフォームに身を包んだカモメッツの選手達は、皆思い思いに勝利の喜びを噛み締めている。互いを労うように肩を組み合う者がいれば、感極まって涙さえ浮かべながら抱き合う者もいる。ベンチに駆け寄った選手達はチーム監督の胴上げも始めるようだ。
 中野はそんな選手達の様子を狭い視界の端に捉えながら、チアリーダーと共に勝利のダンスを踊っていた。応援ソングが佳境に入り、サポーター達の盛り上がりは冷めるところを知らない。
 中野は音楽に合わせ、頭を抑えながら思い切り宙返りした。久しぶりの大技だ。
「絶好調だなっ、かもべえ!」
 無事に着地してポーズを決めたところで、後ろから誰かが飛びついて来た。中野はバランスを崩し、思い切り正面につんのめった。
「何転んでんだよ。優勝したからってはしゃぎ過ぎだぜ、かもべえ。」
 けらけらと笑いながら手を差し伸べて来たのは、今期レギュラー入りしたばかりのカモメッツの新人選手にして今やエースストライカーの川中俊和だった。「奇跡の復活」を実現させた最大の功労者でもある。
 中野は差し出された手を取らず、ゆっくりと自力で立ち上がった。
「何だよ、可愛くねえなあ。」
 川中はそう言ってかもべえの頭を掴むとぐらぐらと揺らす。
「ちょ……やめろって!」
 中野が思わず声を発して川中の腕を振り払うと、川中は嬉しそうに口角を上げた。
「なあ、ひっさん。俺、今、マジで超嬉しいよ。」
 川中は無理矢理中野と肩を組み、囁くように零した。それは若者らしいストレートな言葉だったが、それだけに心からの真剣な言葉だったに違いない。
「ああ、俺も嬉しいよ、トシ。本当に、おめでとう。」
 中野がそう返すと、川中は満足したような笑みを浮かべて、監督の胴上げに加わるため駆けて行った。
 中野は複雑な気持ちだった。カモメッツの優勝は本当に嬉しい。それは間違いなく真実だ。ただ、この記念すべき試合を、いや、今期の全ての試合を、チームメイトとともに戦うことができなかったこと、それが悔しくてならなかった。
 そう、中野は今期、ずっと青い芝生のフィールドの外、カモメッツのマスコットキャラクターである「かもべえ」の着ぐるみの中にいたのである。

 三年前の決勝戦、サドンデスのPK戦で最後の一球を外したのは中野だった。心優しいチームメイトがそれで中野を責めることはなかったが、中野自身が誰よりも自らの汚名返上を願っていた。
 しかし、その機会は与えられなかった。
 翌年の開幕戦で相手選手と接触してアキレス腱を痛め、その後の試合はほとんど欠場。シーズン終盤になって何とか出場の機会を与えられたものの万全の状態ではなく、結果的に、その無茶が中野の選手生命を完全に奪うこととなった。
 後悔していないと言えば嘘になる。だが、例え大人しく怪我の回復を待ったとしても結果は大して変わらなかっただろう。三十を過ぎた下り坂の怪我人をいつまでも選手として抱えておけるほどカモメッツはゆとりのあるチームではなかった。戦力外通告を受けるのは時間の問題、無茶をしてでも力を見せなければならなかった。

 胴上げをされていた監督が地面に降ろされると、選手達は今日のヒーロー・川中俊和を担ぎ上げた。スタンドからも彼の名を呼ぶ声が高まり、中野はそれに合わせて左右の翼を大きく上下させる。サポーターの歓声を煽るように、自分の中の雑念を振り払うように。
 選手としてサッカーができない中野にできるのは、選手達を応援すること、サポーターと共に試合を盛り上げること、そして力一杯戦った選手達を労うことだけだ。たとえ試合に出ることができなくても、こうしてサッカーの側にいられるだけでも幸せなのだ。
 役立たずのサッカー馬鹿にチームの中での役目を与えてくれたオーナーには感謝している。オーナーにそれを進言してくれた川中にも。
 川中俊和がカモメッツにやって来たのは二年前、中野とはほとんど入れ違いだった。高校時代から全国的な注目を浴びていた川中は確かに上手い選手ではあったが、当初、中野は川中を単なる生意気な新人としか思えなかった。しかし、川中はやたらと人懐っこい性格で、怪我で欠場中の中野を含めてチームメイト一人一人に度々声を掛けて来た。
 その頃、調子を落としていたカモメッツの選手達にとって、川中は些かうざったい新人だったのだが、気が付けば、チームは川中を中心にまとまっていた。そして「奇跡の復活」に至る。
 中野も川中を認めざるを得なかった。その類稀なサッカーセンスはもちろん、一人の人間として川中が魅力的であることは、彼が今やチームのエースであり、また日本サッカー界のヒーローであることを顧みずとも疑いようがなかった。
 中野は宙に舞う川中の身体を横目に、力一杯大きな翼を動かした。着ぐるみの中の蒸し暑さはそろそろ限界に近づいている。頬を伝うのが汗なのか、涙なのか、中野にはよく分からなかった。

 トロフィーが授与され、一通りの儀式が済むと、中野は選手達の後に続いてロッカールームに引き上げた。
 ロッカールームと言ってももはや選手ではない中野に専用のロッカーが用意されているはずもなく、中野はスタジアムの片隅にある倉庫を兼ねた小部屋を更衣室代わりに使わせてもらえるに過ぎなかった。
 中野は「かもべえ用」と乱雑な文字の貼り紙がついた扉を押し開けると、後ろ手に扉を閉めて重い頭を脱ぐ。思わず深呼吸すると、埃臭い空気が気管を襲った。数回咳き込み、溜息を漏らす。
 半地下の倉庫は天井付近に小さな窓があるだけで薄暗い。部屋の周囲に乱雑に積み上げられた段ボール箱や備品のせいで、やたらと圧迫感がある。
 中野は部屋の隅に放置されていたパイプ椅子を引き寄せると、勢い良く腰を下ろし、両足を前へ投げ出した。
 だいぶ疲れている。左足に、痛みとは言えない程度の違和感もあった。今更左足を気遣ったところで意味はないが、さすがにバック転はやり過ぎだったかもしれない。
「年だね、俺も。」
 自嘲気味に漏らしたが、浮かべた笑みはすぐに消えた。
 ――いつまでここにいられるだろうか。
 まだ選手としてチームにいた頃、怪我で欠場が続いていたあの頃と同じように、不安はずっと心の隅にあった。年を重ねる度に、不安は強くなる。そして少しずつ中野はサッカーから遠ざかって行く。
 少しずつ、サッカーが中野から遠ざかって行く。
 きっと少しずつ慣れるだろう。慣れてしまうのだろう。いや、慣れなければならない。
 時の流れは遅いようで速い。あっと言う間に年を取り、いずれサッカーが何かさえ分からなくなるのかもしれない。それならそれで、構わない。
 中野はかもべえの頭を抱えたままぼんやりと天井を見上げていた。
 ――カチャリ。
 ふとドアノブを回す音に気付いて顔をもたげると、小学生くらいの少年が一人、こちらを覗いていた。
 視線が合い、咄嗟に「これはまずい。」と思った。頭は人間、身体はカモメの着ぐるみ人間の存在は、きっとこの幼い少年の夢を壊してしまったに違いない。現に、こちらを見つめる少年の目は驚きの色を隠していない。
「お前、どこから入って……。」
 中野が姿勢を正して少年に問い掛けようとすると、少年は瞬く間に表情を変え、中野の言葉を遮るように口を開いた。
「中野選手……中野仁志選手ですよね?」
 そう問うてきた少年の言葉が見た目に比してずいぶんとしっかりしていたことに中野は驚き、それから、少年が自分の名を口にしたことに驚いた。
「俺を知ってるのか?」
 意外だった。二年前に引退した選手の名を知っていて、しかもカモメの着ぐるみを着た状態でそれと分かる小学生がいるだなんて。現役時代とて、中野の知名度は決して高くはなかった。それでも熱心なファンは複数いたし、中野のプレイを評価してくれる者もそれなりにはいたのだが、コアなサッカーファンでなければ中野の名前すら知らないだろう。
 少年は中野の前に駆け寄るとにっこりと笑った。
「ファンなんです。中野選手のプレイ、すごく好きです!」
 少年のストレートな言葉に、中野は思わず赤面した。まるで幼馴染みの女の子から告白を受けた中学生みたいだと思ったが、こんな風に正面切って「好きだ」と言われるのは久しぶりだ。どうせなら小さな男の子ではなく綺麗な女性に言われたかったが、そんな贅沢を言える立場ではない。
「それは、ありがとう。」
 中野は素直に礼を言った。この幼い少年が中野のプレイをリアルタイムに観、理解していたとは思い難いが、もしかしたらこの少年の父親がカモメッツの熱烈なサポーターだったのかもしれない。
「あ……そうだ、あの……サインください!」
 少年は肩から掛けていたバッグの中からノートとペンを取り出すと、中野の前に差し出した。差し出されたノートの表紙には「サッカーノート」と丁寧な字で書かれている。
 中野は一瞬躊躇ってから、抱えていたかもべえの頭を床に置き、少年が差し出すノートとペンを受け取った。
「俺なんかのサインで良いのか? とっくに引退してるのに。」
 中野が笑いながら言うと、少年の表情が曇った。
「引退してると、サインはダメなんですか?」
「……いや、俺は別に構わないけどさ。」
 中野は、真っ直ぐに自分を見つめる少年の目に戸惑いながら、ノートのページを捲った。見ると、ノートには図やイラストを交えながら、びっしりと練習メニューや試合の作戦が書き込まれていた。中野はほうっと息を呑む。
「最後のページで良いか?」
「は、はいっ!」
 中野が問うと、少年は少し緊張した声で嬉しそうに答えた。
「君、名前は?」
 久しぶりに綴る自分の名前に中野もまた緊張しながら少年に問うた。
「タカシ。タマキタカシです。」
 ――タカシ君へ。
 中野は視線を落としたままペンを走らせる。
「タカシ君は……俺のプレイのどこが好きなんだ? 上手い奴なら他にいくらでもいるだろ。」
 中野が顔を上げると、タカシは困ったようにはにかんだ。
「中野選手のプレイはとても楽しそうだから。サッカーが大好きなんだってよく分かるから……って、前に雑誌のインタビューでトシが、川中選手が言っていたんです。それで、僕もいとこからビデオを借りて観たんです、中野選手の試合。三年前のボンチーノ京都戦、僕、感動しました! 試合は負けちゃったけど、ロスタイムで一点取って同点になって……。」
 中野は動揺した。タカシが話している三年前のボンチーノ京都戦は、あの雪辱の決勝戦だ。サドンデスのPK戦にまでもつれ込み、中野が最後に外した一球で勝負が決まった。中野のサッカー人生における最大の汚点だ。中野は一瞬、タカシの言葉を何かの嫌がらせかと思った。だが、タカシの話し振りからして、どうもそうではないらしい。
「ギリギリまでボールを追いかけて、後半もすごく辛そうなのに、中野選手は最後まで笑顔で……本当に楽しそうでした。僕もあんな風にサッカーがしたいって思いました。川中選手は中野選手のことを日本で一番尊敬できる選手って言っていて、僕も同じ気持ちです。中野選手の試合を生で観られなかったのは残念だけど、今日、お会いできてとても嬉しいです!」
 タカシの屈託のない笑顔に、中野は居たたまれず頭を抱えた。今にもあふれそうな涙を堪えるために、ぎゅっと目を閉じる。
「中野選手?」
「いや……ありがとう。俺もタカシ君に会えて嬉しいよ。君はきっと良い選手になる。」
 中野はそう言って顔を上げ、ノートとペンをタカシに返した。
「ありがとうございます!」
 タカシは嬉しそうにそれを受け取ると、ぴょこんと頭を下げ、そのままくるりと背を向けて倉庫を飛び出して行った。
「あ、お前、どこから……。」
 中野は、関係者以外立ち入り禁止であるはずの区域にタカシが一体どこから入って来たのかと問おうとしたが、中野が声を発した時にはタカシは既に扉の向こうに消えていた。帰り道が分からなくなった迷子なら心配だが、子供が一人でうろついていればいずれ警備員やスタッフが見つけて何とかするだろう。下手に歩き回っていたずらをされても困るが、そういう類の少年でないことは数分間の会話で理解した。あえて追い掛ける程のことではない。
 中野は再びパイプ椅子に腰を下ろした。思わず、笑みが零れる。小さな窓から西日が差し込み、倉庫の隅を照らした。赤いスポットライトの中央に、埃を冠ったサッカーボールが転がっている。
 中野は立ち上がり、ボールを軽く蹴り上げた。ボールは軽やかに弾む。
 ――そう、この感覚が。
 サッカーが好きで、好きで、大好きで。きっと一生、忘れられない。離れたくても離れられない。
 ――また、サッカーをしよう。
 中野は決意した。プロ選手としては役に立たなくても、近所の小学生と一戦交えるくらいなら。引退したとは言え、元Jリーガーだ。蒸し暑く重たい着ぐるみの中で踊るカモメを演じるために、引退後も基礎体力を維持するためのトレーニングは続けて来た。まだまだ素人の愛好家には負けていないつもりだ。
「ひっさん! 今夜は監督のおごりでステーキだぜっ!」
 突然、扉が開き、川中が顔を覗かせた。既にユニフォームから私服に着替えている。わざわざ選手控え室から中野を呼びに倉庫までやって来たらしい。チームのエースがすることではないが、川中俊和はそういう選手だ。
「……何一人で楽しそうなことしてんだよ?」
 リフティングを続けていた中野を見て、川中はにやりと笑った。
「お前もやるか?」
 中野が川中に向かって軽くボールを蹴り上げると、川中はそれを一回胸でトラップし、器用に右足の甲に乗せた。
「おっと。」
 川中は再びボールを蹴り上げ、右肩から背中を回して肩へ、左足へ、頭上へ……と絶妙な技を披露する。
「トシ。お前、サッカー好きか?」
「あん? 当たり前だろ。サッカー嫌いな奴がサッカー選手なんて馬鹿げた職業に就くかよ。」
 川中はボールを操りながらぶっきらぼうに答える。
「そうか。だが、お前が日本で一番尊敬している選手はお前よりももっとサッカーが好きらしいぞ。」
 中野が言うと、川中は一瞬驚いた表情を見せた。それから僅かに目を細め、何か分かった様子で笑顔を向ける。
「だろうね。だから、俺はあの人を尊敬してるんだ。」
 川中はそう言って、巧みに操っていたサッカーボールを蹴り上げた。ボールは中野の頭上を越え、積み上げられた段ボール箱の中に収まる。
「行こうぜ、かもべえ。みんなが待ってる。」
「おいおい、それは俺がこの格好のままお前らと一緒にステーキを食いに行けって意味か?」
 中野は着ぐるみの翼を広げながら川中に問い返した。
「別に良いだろ。かもべえはカモメッツの大事な仲間なんだから。」
 川中は床に置かれたかもべえの頭を拾い上げると、さっさと倉庫を出て行ってしまう。
「……ったく。お前は着ぐるみの中がどれだけ大変か全然理解してないな。死ぬ程暑くて臭いんだぞ。」
 中野はため息を吐き、川中に続いて倉庫を出た。

《了》


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