ここち

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冷めたスープ


 いつも通りの平和な朝、町の外れの小さなお家の一日は慌ただしく始まった。
「スープ! スープはどこだ!?」
 御主人はお腹周りにたっぷりついた脂肪を揺らしながら、大きな音を立てて階段を駆け下り、足音よりも更に大きな声で叫ぶ。
 ――キッチンにいますとも、いつもの通りに。
 頭から湯気が立っているのではないかと思われるほどの御主人の様子とは対照的に、スープは冷めていた。
「ああ、スープ! こんなところに!」
 町の中央広場まで響き渡りそう大声で叫びながらキッチンに駆け込んで来た御主人は、スープを見つけるなり、嬉しそうに声を上げた。
 ――こんなところとは、一体どういう意味でしょう。毎朝わたくしがキッチンにいることは、決して破ることのないお約束ではありませんか。
 スープはそう言い返してやりたかったが、高血圧気味の御主人に早朝から冷や水を浴びせるのは適当ではないと思われた。余計な言葉で機嫌を損ねられても困る。スープには果たすべき役割があった。
「ああ、スープ! 今朝もとても素敵だね。わたしは君をとても愛しているよ。」
 御主人はうっとりとスープを見つめる。御主人は恥ずかし気もなく愛の言葉を囁くが、スープは相変わらず冷めていた。
「全く、どうして君はこんなに素敵なんだろう。わたしは毎晩、翌朝目覚めた時に君がいなかったらどうしようかと考えるが、それはとても考えられるものじゃない。君のいない朝なんて……ああ、やめよう。今、君はこうしてわたしの目の前にいるのだから。」
 御主人はスープを抱き上げ、キッチンを出た。
 ――わたくしも昨晩、翌朝あなた様がわたくしの前に現れなかったらどうなるかと考えました。わたくしは、それならそれで構わないと思いましたが、どうせなら、誰かを喜ばせて一生を全うしたいと思っています。ですので、今朝、あなた様がいつも通りの習慣を守ってわたくしのもとへ駆けて来てくださったことを少しだけ嬉しく思います。別に、だからと言って、今朝のわたくしがあなた様に何か特別なことをして差し上げることができるわけでもありませんけれど。
 御主人は冷めたスープを見つめてふふっと笑う。
「わたしは君のこの冷たさが好きだ。熱くとろけるのも悪くはないが、あまり熱いと年老いた身には刺激が強過ぎるのでね。」
 御主人は冷めたスープに口づけ、力強く吸った。
 そして一気に飲み干した。
「ああ、なんておいしいスープ! マーガレット、わたしは君の作る冷製スープを心から愛しているよ! そして、こんなにも美味しいスープを作る君をスープ以上に愛しているよ!」
 御主人はスープの器をテーブルに置くと、傍らに立つ妻に向かって叫んだ。妻マーガレットは黙ってにっこりと微笑む。

 町外れの小さなお家は、毎朝こうして、慌ただしく、平和な一日を始める。

《了》


前頁 - あとがき
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