ここち

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彼はスープを愛してる

※ この作品は、『冷めたスープ』の続編です。『冷めたスープ』からお読み頂くことをお勧め致します。

 ある日、とある町外れの小さなお家で、奥様が御主人に言いました。
「あなた、わたしはもうこれ以上スープを作ることは出来ないわ。」
 御主人は、毎朝、奥様の作る冷めたスープを飲むことを日課にしており、奥様の作るスープを心の底から愛していました。
「一体、いきなり何を言い出すんだい、マーガレット?」
 御主人はびっくりして、たった今飲み干したばかりの奥様お手製の冷めたトマトスープが入っていた器をテーブルに置きました。
「もうわたしはスープを作ることが出来ないの。あなたが今、飲み干したのが、わたしが作る最後のスープだったのよ。」
「もうスープを作ることが出来ないなんて、まさかどこか身体の調子でも悪いのかい? 医者に診てもらおうか。」
「いいえ、あなた。わたしの身体はどこも悪くないわ。でも、わたしはもうあなたのためにスープを作ることが出来ないの。」
「どうして? どうしてスープを作れないんだい? スープの材料を買うお金がないのかい?」
「お金はあるわ。昨日、羊の毛を市場で売って来たばかりですもの。」
「じゃあ、どうしてスープが作れないんだい? わたしのことが嫌いになったのかい?」
「いいえ、わたしはあなたと結婚してからずっと、一度だってあなたを嫌いになったことなんかないわ。」
「じゃあ、どうして? どうしてスープが作れないなんて言うんだい? わたしは君が作るスープを心の底から愛しているのに!」
 御主人は叫ぶように言って、椅子から立ち上がりました。
「あなたが、わたしの作るスープを愛しているからよ。」
 奥様は静かに言いました。
「どういうことだい?」
「あなたはわたしの作るスープを心から愛してくれているわ。でも、わたし、気付いてしまったの。あなたが愛しているのはわたしが作るスープ。わたし自身ではないんだわ。」
「何てことを言うんだ、マーガレット! わたしは君を愛しているよ。わたしは君の作るスープを心から愛しているが、わたしはそれ以上に君を愛しているんだ!」
「本当に、そうかしら?」
「本当に、そうだとも!」
「なら、わたしがスープを作れなくなっても、あなたはわたしを愛してくれるのね? スープが作れないわたしでも、構わないのね?」
 奥様の問いに、御主人は少しだけ、ほんの少しだけ、言葉に詰まりました。
「……もちろん、だとも。スープが作れない君でもわたしはもちろん君を愛している。君がスープを作れなくても構やしないさ!」
 御主人は笑顔で奥様に答えましたが、その顔は少し青ざめて引きつり、両拳は力強く体側で握られていました。
 毎朝、奥様の作るスープを飲むという日課が失われた生活、それが御主人にとって想像を絶するほど恐ろしい事態であることが、御主人以外の誰に理解できるでしょうか。しかし、それは御主人にとって心の底から戦慄すべき危機であったのです。

 翌朝、町外れの小さなお家の一日は慌ただしく始まりました。
「スープ! スープはどこだ!?」
 御主人は相変わらずお腹周りにたっぷりついた脂肪を揺らしながら、大きな音を立てて階段を駆け下り、足音よりも更に大きな声で叫びました。
 しかし、御主人の声に答える者はなく、御主人が駆け込んだキッチンは綺麗に片付いて、どこにもスープを見つけることは出来ませんでした。
「スープは……どこだ?」
 御主人がか細い声を漏らすと、背後から声が掛かりました。
「スープはないわ。わたしはもう、スープを作れないのよ。」
 マーガレットが立っていました。
「本当に、スープを作れないのかい?」
「ええ、本当にスープは作れないわ。」
「どうしてもかい?」
「どうしてもよ。」
「本当に本当にスープを作れないのかい?」
「本当に本当にスープは作れないわ。」
「……そうか、作れないのだね。」
「ええ、作れないわ。」
 御主人と奥様の間にしばしの沈黙が流れました。
「では、わたしは今朝の空腹をどうやって満たせばいいのだろうか。」
「テーブルにパンとジャムを用意しているわ。すぐにオムレツも作るわ。」
「そうか、ありがとう。でも、スープはないのだね。」
「ええ、スープはないわ。」
 御主人は力なく頷き、とぼとぼとテーブルに着きました。
「ああ、なんてひどい天気なんだろう。」
 御主人はテーブルの椅子に腰掛け、窓の外を眺めて言いました。青い空には、羊のような雲が二、三匹、ぽっかりぽっかり浮かんでいます。
「今日はとても好い天気ね。洗濯物もすぐに乾きそう。」
 奥様が焼き立てのオムレツを載せたお皿を二つ持って、キッチンから出てきました。
「わたしにはとても好い天気には思えないが……。」
「それはどうして? こんなに綺麗な青空なのに。」
 奥様は手にしていたお皿の一つを御主人に差し出し、もう一つを御主人の向かいに置くと、御主人と向き合ってテーブルに着きました。
「青空か。確かに、青空なのかもしれないな。だが、わたしには嵐の前のように暗く見えるよ。いつも通りに君の作ったスープを飲むことが出来ないなんて、こんな不吉なことはない。」
「あなたは本当にわたしの作るスープを愛していたのね。」
「当たり前じゃないか。わたしは君の作るスープを心から、心から愛していたんだ!」
 御主人は、焼き立てのオムレツをフォークでぷすぷすと突き刺し、しかし一向に口へ運ぼうとはせず、ついに、フォークを置いて、両拳でテーブルを叩き、叫びました。
「でも、わたしはもうあなたにスープを作ることは出来ないわ。」
「ああ、分かっている。分かっているよ。」
 御主人はため息混じりに奥様に答えました。
「でも、あなたがどうしてもスープを飲みたいと言うのなら……。」
「スープを作ってくれるのかい!?」
 御主人の顔が華やぎました。
「いいえ、わたしはスープを作ることは出来ないわ。でも、わたし以外の誰かなら、あなたにスープを作ってあげることが出来るかもしれないわ。」
「どういうことだい?」
 奥様の言葉の意味が分からず、御主人は首を傾げました。
「あなたがわたしと離婚して、他の女性と再婚すれば、きっとその人があなたにスープを作ってくれるわ。」
 奥様はナイフで丁寧に切り分けたオムレツを、フォークでそっと口に運びました。
「とんでもない!」
 御主人が叫びました。
「君と離婚するだなんて……。わたしは君が作るスープを愛しているが、それ以上に君を愛しているんだ! 君と離婚するだなんて、そんな……。」
「でも、あなたはスープを心から愛してる。スープのない毎日に耐えられて?」
 奥様はオムレツを飲み込み、視線を皿に落としたまま、言いました。
「……それは……。」
 御主人は口籠りました。奥様を愛する御主人としては、「耐えられるさ!」と宣言したいところなのですが、今朝、スープがないというだけで青空が嵐の前のように暗く見え、腹は減っているのに食事が喉を通らないのです。こんな状態がこれから毎日続くかと思うと、それはもう御主人にとっては耐え難いことでした。
「あなたはスープを愛していたんだわ。あなたにとって、スープを作れないわたしに価値はないわ。」
「そんなことはない! そんなことがあるものか!」
 御主人は叫びました。御主人は確かにスープを愛していました。毎朝、奥様が用意してくれる冷めたスープが、一日の始まりには不可欠でした。そのスープを飲むだけで、御主人はその日一日、とても楽しく機嫌良く過ごすことができるのでした。
 でも、スープがないとなると……。
 それは絶望の毎日の始まりです。しかし、三十年以上連れ添った奥様と今更離婚するだなんて……。それに、奥様と離婚して別の誰かと再婚しても、その再婚相手が今の奥様と同じようにおいしいスープを作れるという保証はありません。御主人は、奥様が作る冷めたスープを愛していたのです。
「マーガレット、君は一体どうして急にスープが作れなくなってしまったんだい? 何とか、また君にスープを作ってもらう方法はないだろうか。」
 御主人は奥様に問い掛けました。奥様は答えませんでした。
「だめなのだね。君はもうどうしてもスープを作ることは出来ないのだね。」
「ええ、もうどうしてもスープを作ることは出来ないわ。」
 奥様は答えました。

 翌朝、町外れの小さなお家の一日は静かに始まりました。
「スープは……ないのだね。」
 御主人は、お腹周りに付いたお肉を抱えながら、ゆっくりと階段を下りてきました。
 御主人の呟きに答える者はなく、綺麗に片付いたキッチンの片隅には、野菜の入ったかごが一つ置いてあるだけでした。
 トマトと、ニンジンと、タマネギと……どれも、かつて奥様が作ってくれたスープに入っていた食材です。
 キッチンの棚には、奥様がスープを作るのに使っていた鍋もありました。
 御主人は閃きました。
「そうだ、わたしがスープを作ろう!」
 奥様がスープを作ることが出来ないのなら、御主人がスープを作ればいいのです。奥様のようにおいしいスープを作るのはきっと難しいだろうと御主人も分かっていましたが、長年愛飲して来た奥様の手作りスープの味は御主人の舌がしっかりと覚えています。
 御主人はパジャマの袖を捲り、奥様と結婚して以来初めて、料理をするためにキッチンに立ちました。
 トマトはさいの目切りに、ニンジンとタマネギは細かくみじん切りに、奥様のスープを再現すべく、御主人はこれまで毎日飲んでいたスープを思い出しながら、一生懸命に取り組みました。タマネギを刻みながらちょっぴり泣いてしまったのはここだけの秘密です。
 スープの出汁は、確かチキンでした。スープ以外の料理にも使えるよう、奥様は鶏ガラを煮込んだ汁を冷蔵庫の瓶にストックしていたはずです。
「さて、どれくらい入れればいいのだろう。」
 スープを作るのが初めてな御主人は、鶏ガラの煮汁を少しだけ鍋に注ぎ、切った野菜と水を入れ、鍋を火に掛けました。
 しばらくして、鍋がぐつぐつと沸騰し始め、御主人はスープを少しだけスプーンで掬って飲みました。少し、味が薄いような気がします。
 御主人は鶏ガラの煮汁をもう少しだけ加えました。
「しかし、何か足りない気がするぞ……。」
 腕を組んで鍋を見つめ、ぐるりとキッチンを見渡し、気が付きました。キッチンの隅に、茶色い壷が鎮座しています。中身は確か……。
「塩だ!」
 御主人は壷を開けると、中の塩を一つまみ、鍋に振り入れました。
 ぐつぐつと煮立つ鍋をゆっくりとかき回し、御主人は再び味見をしました。まだ少し、何かが足りない気がします。
 御主人は腕を組んで天井を見上げ……キッチンの棚の上の方に、胡椒の小瓶が置いてあるのを見つけました。
「これだ、これだ!」
 御主人は胡椒の小瓶を取り、鍋に一振り、二振り……。
 三度目の味見で、御主人はにっこりと微笑みました。

 「やあ、おはよう、マーガレット。」
 御主人は、珍しく御主人よりも遅く起きて来た奥様に、上機嫌で朝の挨拶を告げました。
「何だかいい匂いがするわ。」
 奥様がキッチンを覗き込みながら呟きました。
「スープだよ。」
 御主人は嬉しそうに言い、キッチンの鍋の蓋を取りました。
「スープ?」
「ああ、私が作ったんだ。もうスープを作れないと言う君の代わりに。どうだい、君も飲んでみては。とても美味しく出来たんだ。」
 御主人は器にスープを注ぎ、奥様に差し出しました。奥様は器を受け取ると、そっとそれに口付けて、一口。
「……ああ、とても美味しいわ。」
 奥様が穏やかに微笑みました。奥様のその笑みの美しいことと言ったら!
 御主人はどぎまぎして、視線を彷徨わせながら、自分もスープを飲みました。出来立てのスープはまだ温かくて、とても美味しくて、奥様はとても美しくて、御主人はとても幸せで……。
「ああ、マーガレット……。」
 御主人は呟くように言いました。
「わたしは、君をとても愛しているよ。たとえ君がスープを作れなくても、君がそうしてわたしの隣で笑ってくれるだけで、わたしはとても幸せなんだ。わたしは、君を、心の底から愛しているよ。」
 奥様は静かに微笑みました。

 町外れの小さなお家は、今日も穏やかに朝を迎えます。

《了》


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