逢魔が時
霜月に入り、朝夕の冷え込みが厳しくなってきた。
**寺の小坊主**は、その日最後の参拝客を見送って門を閉めると、手の甲を擦り合わせながら本堂裏手の物置に向かった。
古い木造の物置の戸をがたがたと開き、接地部分に山型の切り込みが複数入った木製のトンボを手に取った。そして、扉を開け放したままその場を離れる。どうせ片付けるときにまた開けることになるのだ。この立て付けの悪い戸と何度も格闘するのはあまり賢くないことに思えた。
物置の戸が開け放しにたなっているところを住職に見つかったら叱られるだろうが、近頃、住職は寒さを嫌って自室に引きこもってばかりだ。古くからの檀家が挨拶に来た時ですら外まで出迎えるのを渋ったくらいだから、こんな寒い夕暮れに外に出てくることはないだろう。
**はトンボを手に、小走りで本堂の西側に回った。
日頃、住職からは常に心を落ち着けて静かに歩むよう教えられているが、冷たい北風にむき出しの手足を撫でられると、足は自然と速まってしまう。
**寺の本堂の西側には茶室があり、併せて小さな日本庭園も設えられていた。
**は、山門を閉じた後、誰もいない境内で、独りこの庭を眺めることが好きだった。
季節の花木が植えられ、春には桜、秋には紅葉が彩る様は美しく、これを目当てに来る参拝客も少なくなかったが、**は何よりその北西の片隅にある枯山水の石庭が好きだった。
白砂の敷き詰められた一角に、大小の石が並ぶ、ただそれだけの場所。静寂が佇むその場所が、**は気に入っていた。
**は山型のトンボを手に、白砂の地へ踏み入った。白砂に描かれた流線模様を描き直すためだ。
雨の日を除いて毎日、朝と夕に二回、**は白砂の線を描き直す。
描くべき模様は決まっているが、描く順序に決まりはない。石庭の奥から手前に向かって、足跡を残すことのないように描けばいい。ただ、**はその経験から、最も美しい描き順を学んでいた。
北西の端から始めて、点在する石を周り、石庭の中央正面に抜ける。そうすれば、仕上がり具合が美しいことはもちろん、全ての模様を描き終えた瞬間、完成された石庭を最も美しく眺めることができる。
**は呼吸に合わせてゆっくりとトンボを引いた。冷たい清らかな流れを描いて行く。石庭を一巡りして、**は静かにトンボを引き上げた。
一呼吸おいて、ゆっくりと顔を上げる。西の山端に真っ赤な太陽が裾を隠した。
何とも言えぬ空の色に、色づき始めた紅葉が赤く染まり、**はトンボの柄を握り締めて息を呑んだ。
静寂を打ち破り、鹿威しが甲高く鳴く。
**は雷に打たれたように振り返った。鹿威しの音に驚いたからではない。誰もいないはずの境内で、背後に人の気配を感じたからだ。
「綺麗だね。」
袴姿の美しい男だった。
緩く結わいた黒髪を腰まで垂らし、一瞬、女かと思ったが、袴の設えで男と分かった。
近頃は、伝統文化を愛でる京都界隈でも洋装が流行っており、袴を着こなす若者は珍しい。
「この庭が好きなんだ。」
男は玉砂利を踏み鳴らして、**に並んだ。
「よくいらっしゃるのですか。」
**は男に尋ねた。**が**寺の小坊主になって五年経つが、男の顔に見覚えはなかった。尤も、**とて檀家ならともかく、参拝客の顔をすべて覚えているわけではない。ただ、この男の人目を引く美しさは一度会えば忘れはしないだろう。
「時折……ね。」
男は**を見て微笑んだ。穏やかな笑顔に、**の緊張が緩む。つられたように**も笑みをこぼした。
「今日は、見納めだと思ってね。」
石庭に視線を戻した男が呟くように漏らした。
「どこか遠くにでも行かれるのですか?」
**は首を傾げて問い返す。今日が見納めだということは、今後はもうこの庭を見ることができなくなるということだろう。庭がこうしてここにある限り、この庭を見ることができなくなるのは、男がどこか遠くに行ってしまうからだと思われた。
「いや、私はどこへも行かない。私はずっと、ここにいる。」
男ははっきりと**の言葉を否定し、それから物憂げな表情で石庭の先の空へと視線を伸ばす。
**も、男の視線に促されるように、静かに石庭に向き直る。
橙色から深い藍色へと変化する空を背景に、石庭は陰影を濃くして浮かび上がる。刻一刻とその色を変えていく石庭は妖しさと艶めかしさを秘め、ここは確かに美しい。
「私も、この場所が好きです。」
**は溜息を吐くように漏らした。
**が眼前の景色に見惚れていたのは、そう長い時間ではなかったはずだ。
空が藍色の割合を増したことに気づいてふと隣を見遣ると、もはやそこに男の姿はなく、残されたのは、迫る闇と、静かな、静かな静寂のみ――。
――昭和三十九年十一月九日未明、**寺本堂が原因不明の火災により全焼する、その数時間前の出来事だった。
《了》