ここち

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郷愁

【2000hit桐番リクエスト作品:水、夜空、庭】

 仙台は俺の家、東京は俺の庭だ! ――そう自慢げに語る先輩に連れられて、僕は、就職後初めての東京出張の夜、新宿は歌舞伎町に繰り出した。
 それが、大きな間違いだった。
「ひゃはにょ、りりゅ、みじゅをくりぇ……。」
 先輩はガードレールにもたれ掛かり、青白い顔をして今にも吐きそうにして……あ、吐いた。
 全くろれつの回っていない先輩の言葉を適宜解釈するまでもなく、僕はコンビニで買ってきたミネラルウォーターのペットボトルのキャップを開け、先輩に差し出した。
 先輩はそれをぐびぐびと一気に半分ほど飲み、無言で僕に突き返す。僕は先輩が吐き出した汚物を排水溝に押しやるべく、残った水を路肩に流した。
 先輩は相変わらずガードレールにもたれたままだが、胃の内容物を一通り吐き出し、水を飲んですっきりしたのか、顔には赤みが戻っている。とりあえず、命に別状はなさそうだ。
 高いビルと派手な電飾に囲まれたネオン街。見上げた小さな空には満月だけが見えて、星を見つけることはできなかった。急に、山形に帰りたくなる。
 山形の実家を出たのは、大学を卒業して仙台市内に本社を構える小さな水産加工会社に就職してからだった。
 大学は、実家から通える地元の山形大学。三つ離れた姉は東京の大学に進学していたが、僕は年を取った両親を実家に残して山形を離れるのが忍びなく……というのは単なる言い訳で、実際のところは、実家から通える方が便利――特に食事や洗濯の面で――というだけの理由で山形大学を選んだ。
 できることなら、就職後も実家に留まりたいと思っていた。さすがにこの就職難で県内の求人は限られていたが、高速バスで約一時間の仙台市内であれば実家から通えると考えていた。
 結局、実家を出て仙台市内のアパートで一人暮らしを始めることになったのは、結婚して地元に舞い戻った姉と義兄が実家の小さなりんご農園を継ぐつもりであると告げたからだ。散々実家に居座りながらも積極的に農園を継ぎたいとは思っていなかった僕としては有り難い申し出だったが、その結果として、僕は実家を追い出された。
 別に、それは構わない。一人暮らしも半年が過ぎて、料理も洗濯も生活に支障がない程度の能力は身に付けた。
 学生時代にも何度か買い物や遊びのためにやって来た仙台の街はそれなりに馴染みもあったし、山形の田園地帯――それは文字通りの田園地帯である――に比べれば娯楽も多く、仙台での新生活は楽しかった。
 仕事も今のところは順調だ。この不況の折、営業成績は上々とは言えないが、上司も先輩も、営業部では三年ぶりの新入社員だという僕を可愛がってくれる。
 東北沖地震による生産ラインへの影響もほぼ復旧し、復興支援の機運が東北産商品の売れ行きを後押ししてくれている。
 もちろん、いつまでも世間の好意に胡座をかいているわけにはいかない。これを機に会社と商品の知名度を上げるべく、各地の百貨店での物産展には積極的に出店しようと努力しているし、今日の東京出張は都内百貨店のデパ地下に常設店舗を構えるべく百貨店の担当者と交渉するためだった。
 交渉はなかなか厳しいものになったが、いくつか回った百貨店のうちの一つで、担当者から色よい回答を貰えた。
 仙台の小さな会社にとって、都内有名百貨店への進出はビッグ・チャンスだ。それで先輩も上機嫌になり、歌舞伎町へ繰り出すことになったのだ。
 先輩の悪酔いぶりは概ね予想の範囲内だったし、期待が持てる交渉結果に僕自身も高揚していたから、酒の席は楽しかった。実家が酒屋を経営しているという先輩の選んだ店だから、出てきた酒も上物だった。
 それなのに――。
 この騒がしく賑やかな街で、この狭い空を見上げた瞬間、僕は生まれて初めての郷愁に襲われた。
 仙台の空もそうだが、山形の空はもっと広かった。ここよりもずっと暗い田園地帯の夜空には、無数の星が煌めいて、白く輝く天の川まで見えた。
 日が沈めば人気のなくなる畦道。幼い頃は、遊びに夢中になって日が沈み、真っ暗闇を一人で帰宅したことも度々あったが、そこで孤独を感じたことはなかった。
 ここは、そろそろ日付が変わる頃にもかかわらず大勢の人間が道に溢れ、色とりどりのネオンサインが輝き、こんなにも騒がしいというのに、どうしてこんなにも――。
 空を見上げた頬を冷たい風が刺した。いつの間にか、涙がこぼれていたらしい。
「ぅおぉい、高野ぉ!」
 先輩が僕を呼んだ。慌てて指先で涙を拭い、振り返る。
「次、行くぞぉ! 今日は朝まで飲むからなぁ!」
 ネクタイを振り回しながら、先輩が叫んだ。
 帰りたい、一刻も早く。できることなら、この飲んだくれの先輩を置き去りにして。

《了》


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