ここち

HOME >> 短編小説 >>

神の棲む庭


 ピーター・ジョーンズは、ウォルコット家に仕える庭師だった。
 ウォルコット家と言えば、ヴィクトリア朝の最盛期を支えた外相リチャード・ウォルコット卿を輩出した名門貴族であり、その邸宅ウォルコット・ホールは、幾度も国の歴史を形作る政治の舞台となった。
 ウォルコット・ホールの南には広大な庭園が広がり、ウォルコット卿の自慢の一つだった。
 緩やかな斜面を流れる小川は清らかで、流れに沿って植えられた草木は四季の花を咲かせる。青く広がる芝はきちんと手入れがされて、その先の森――もちろんウォルコット家が所有している――の緑は夏には瑞々しく茂り、秋には鮮やかに染まる。小鳥のさえずりが響き、時折リスやウサギが顔を出すその庭園は、自然がその美しさを存分に発揮するよう心配りされて、神の庭と呼ばしめるほどに自然な形で完成されていた。
 ウォルコット卿は、初めての賓客には必ず自らその美しい眺めを案内し、自然の調和が人の手によって成り立ち得るように、世界の調和は英国の主導でもって成り立たねばならぬと度々熱っぽく説いたのだった。

 当時のウォルコット・ホールの賓客には、ウォルコット卿が親しくしていたエディンバラ公も含まれていた。ウォルコット・ホールを訪ねたあまたの要人の中でも、彼は特にこの美しい庭園を気に入っており、ウォルコット・ホールを訪れた際には必ず庭園を散策し――初回以外は専ら独りで散策していたから、彼はウォルコット卿の長い演説はあまり気に入っていなかったようだ――、季節ごとに変わる庭園の装いを誉め称えた。
 エディンバラ公に限らず、ウォルコット・ホールの賓客は皆、この美しい庭園を誉め称え、その賛辞は皆ウォルコット卿に向けて発せられたけれど、本来ならば、それはウォルコット卿に捧げられるべきものではなかった。
 なぜなら、この美しい庭園を作り上げたのは、ウォルコット卿ではなく、ピーター・ジョーンズだったからだ。

 ピーター・ジョーンズは、その祖父であるジョンの代からウォルコット家に仕える庭師だった。尤も、当時のウォルコット家は有力貴族と呼ぶにはほど遠い田舎の小領主であり、ジョンが一人で手入れできる程度の小さな庭の付いた小さな邸宅を構えていたに過ぎない。ウォルコット家を一躍有力貴族に伸し上げたのは、外地との交易に目を付けて商才を発揮したリチャード・ウォルコット卿の才覚によるのであり、彼がロンドンから遠い田舎の小さな邸宅を離れてウォルコット・ホールを構えることを決めたのは、交易を通じて外国についての知識を蓄えた彼が外相に抜擢された頃だった。まだ幼いピーター・ジョーンズが、流行病で早逝した父ウィリアム・ジョーンズに代わって、ジョンの仕事を手伝うようになったのもこの頃のことだ。
 ウォルコット・ホールの建築が始まった頃、その全面の庭園はまだ一面森であった。ウォルコット卿はこの色彩豊かな森を気に入って、ウォルコット・ホールの建築をこの場所に決めたのだが、立派な邸宅の正面が生い茂る森のままでは格好が付かない。当時の英国における基本的な認識として、立派な邸宅には立派な庭園が必要であり、ウォルコット卿もその認識を他の貴族たちと共有していた。それに何より、邸宅の南に生い茂る森があることは邸宅の日当たりを悪くしてしまう。邸宅の前の森を開けた美しい庭園に変えることは、ウォルコット・ホールに招く賓客に心地よい時間を過ごして貰うためには必須の条件であり、ウォルコット卿は、自らの邸宅に長年仕える信頼する庭師ジョンにこの極めて重要な仕事を任せることにした。
 尤も、その頃ジョンは既に老齢に達しており、仕事の指示を出すのはジョンであっても、実際に仕事をするのはその息子ウィリアム・ジョーンズを中心に、広大な庭園の造園には人手が必要であるとしてウォルコット卿が新たに雇った数人の若い庭師であった。ところが、ウィリアム・ジョーンズは、ウォルコット・ホール庭園の造園計画を立てている最中に英国はもとより欧州中で流行した病のために早逝してしまい、ジョンは息子のウィリアム・ジョーンズに代わって孫のピーター・ジョーンズを造園チームの中心に据えるべく大急ぎで自らの技術を彼に叩き込まねばならなくなった。
 ジョンが、ウィリアム・ジョーンズの代わりとして、他の若い庭師ではなく、まだ幼いピーター・ジョーンズを選んだのは、祖父としてのジョンの孫可愛さに起因するところが全くなかったとは言わないが、新たに雇われた若い庭師は、一躍有力貴族に伸し上がったリチャード・ウォルコット卿の提示した高額の給金ゆえに集まった者が多く、ウォルコット卿に対する忠誠心と目前の重要な仕事に対する真摯さにおいて不十分な者が多かった。実際、その後、ピーター・ジョーンズがウォルコット・ホール庭園の造園において果たした仕事は極めて高い評価を与えるべきものであり、新しい庭師の中にはウォルコット・ホールに飾られていた高名な画家による油彩画を盗んで転売してクビになった者や、ウォルコット・ホールの賓客が連れて来た女中と恋仲になって駆け落ちした者がいたのだから、ジョンの見立てに間違いはなかったと言ってよい。

 ウォルコット・ホール庭園の最初の設計図を描いたのはジョンであった。
 色彩豊かな森を可能な限りそのまま残しつつも、邸宅の前に広い視界と日当たりを確保し、広大で美しい庭園を自然と調和させる形で作り上げてほしいというウォルコット卿の希望に沿って、その設計図は描かれていた。
 ジョンは設計図通りの庭園が出来上がるのを見ることなく亡くなったが、精悍かつ聡明な青年に育ったピーター・ジョーンズは祖父の意志を受け継ぎ、ウォルコット・ホールの完成に合わせて広大で美しい庭園を完成させた。
 そして、その後も周囲の森や四季の変化に合わせて日々庭園を作り替えてきた。ウォルコット卿の希望通り、自然と調和する庭園として――。

 だが、それもそろそろ終わりを迎えることになるだろう。
 リチャード・ウォルコット卿の死後、ウォルコット・ホールはその息子アルバート・ウォルコット卿に引き継がれたが、残念なことに、リチャード・ウォルコット卿の才覚はアルバート・ウォルコット卿に引き継がれなかった。
 それでも、お人好しのアルバート・ウォルコット卿は、持ち前の人当たりの良さとリチャード・ウォルコット卿が成した財産と地位でもって何とか上流貴族界に留まっていることができたのだが、その一人息子エドワード・ウォルコット卿がどうしようもない愚息だったために、アルバート・ウォルコット卿の死後、ウォルコット家は瞬く間に零落した。
 かつてあまたの要人が訪れたウォルコット・ホールも、いつの間にか品のない若者たちの溜まり場になり、リチャード・ウォルコット卿の自慢の庭園は見向きもされなくなった。
 綺麗に手入れした芝は馬の蹄によって蹴散らされ、蕾を付けたばかりの枝が乱暴にへし折られ、丁寧に育てた花壇の花もむしるように摘み取られた。
 それでも、ピーター・ジョーンズはこの美しい庭園を維持すべく、日々努めてきた。かつては十人以上いた庭師が一人減り、二人減り、遂にピーター・ウォルコット一人になったけれど、それでも、彼は毎日この庭園に出て、芝の合間に顔を出した雑草を抜き取り、伸び過ぎた木の枝を切り落とし、花壇の花を植え変え、一日たりとも必要な手入れを怠ることはなかった。
 だが、それもそろそろ終わるのだろう。

 ピーター・ジョーンズは、自ら作り上げた最愛の庭園を眺めて、その日一日を過ごした。
 邸宅の正面に設えたベンチは、この庭園を眺めるには一番良い場所だった。
 そこはかつてウォルコット・ホールの主人と賓客のみが座ることを許された特等席だったが、ウォルコット家の雇われ庭師に過ぎないピーター・ウォルコットがそこに座っていることを咎める者はもういない。日は既に西に沈み、辺りは薄暗くなっている。
 リチャード・ウォルコット卿の時代であれば、そろそろメインホールで晩餐会が始まるはずだ。暖かな光と和やかな笑い声が邸宅から漏れてくるに違いない。
 しかし今、邸宅に光はない。笑い声もない。
 しんと静まり返った闇が一帯に広がっている。
 エドワード・ウォルコット卿が死して、ウォルコット・ホールは主を失った。ピーター・ジョーンズもまた主を失った。
 女好きながら――あるいは女好き故に、妻を娶ることなく早逝したエドワード・ウォルコット卿に子女はない。今後、ウォルコット・ホールは、ピーター・ジョーンズの知らない遠縁の誰かの手に渡るか、エドワード・ウォルコット卿が成した借金の返済に充てるべく売られて、やはりピーター・ジョーンズの見知らぬ誰かの手に渡るのだろう。
 かつての美しい庭園は闇に沈み、ぼんやりとした影しか見えない。
 リチャード・ウォルコット卿が愛した、エディンバラ公が愛した、ピーター・ジョーンズが愛した庭園は闇に沈んだ。

 ピーター・ジョーンズは独り残された。
 エドワード・ウォルコット卿と同じく、ピーター・ジョーンズもまた、妻を娶らなかった。ただ、ピーター・ジョーンズが妻を娶らなかった理由はエドワード・ウォルコット卿とは異なっている。
 ピーター・ジョーンズには、かつて心から妻にしたいと望んだ女性がいた。ウォルコット家の女中として働いていたその人を、彼は心から愛していた。仕事の合間に、この広大で美しい庭の片隅で逢瀬を重ねた。彼女と共に四季の花を愛で、小鳥のさえずりを、小川のせせらぎを、風の歌を聴いた。
 季節が巡り、彼女が好きだと言った白い薔薇の花が咲いたらプロポーズしようとピーター・ジョーンズが決意したその夏、彼女はウォルコット・ホールの賓客であった貴族に見初められて、ウォルコット・ホールを去って行った。

 ピーター・ジョーンズは空を見上げた。
 ミルキー・ウェイ――乳白色の暖かな光の帯が頭上に広がっている。
 光の帯は、広い夜空に小さな輝きを振りまきながら広がっていく。世界を、ピーター・ジョーンズを包み込むように、夜空にこぼれたミルクは広がっていく。
 ピーター・ジョーンズは静かに目を閉じた。暖かな白に包まれて、ピーター・ジョーンズは彼の庭園を訪れた最も偉大なる賓客にして真の主にその身を委ねた。


 彼はエデンに招かれる。そこには、神の庭がある。
 そこで、彼は新しい仕事に就くだろう。彼は、広大にして美しく、決して朽ちることのない神の庭を任されるのだ。

《了》


前頁 - あとがき
●○ 読んだ記念にポチッとどうぞ。↓ ○●
 

返信をご希望の場合や長文となる場合には
通常メールフォームが便利です。

HOME >> 短編小説 >>

Copyright © 2011 Aiko Kiryu. All rights reserved.