真夜中のコーヒー・ネバーランド
(1)
夕食後、ダイニングテーブルの上ではコーヒーメーカーがコポコポと息を吐いていた。
いつも通り食器洗いの手伝いを済ませた裕也は、テーブルにマグカップを並べ始めた母を残してリビングのソファーへと向う。ガラスの小テーブルを挟んで向かい合わせに置かれたソファーセットでは、既に父と兄がくつろいでいた。
裕也は二人掛けのソファーの真ん中で新聞を広げている父を避け、兄の隣に腰を下ろす。その瞬間、目を閉じてうたた寝をしているように見えた兄が突然両手を広げて裕也を抱きかかえた。
「おっし、捕まえた!」
九つ年の離れた兄の孝宏は、小学三年生の裕也を軽々と持ち上げて膝の上に載せる。
「な、何するんだよー。」
裕也は慌てて抵抗したが、孝宏は膝の上で完全に裕也の胴回りを押さえていた。手足をばたつかせてみても、体の大きさの違いというハンデは乗り越えられそうにない。
「相変わらず軽いなー。ちゃんと飯、食ってるか?」
孝宏は裕也を抱きかかえたまま、にやりと笑って裕也の顔を覗き込んだ。
「食べてるよ! お夕飯だって残さなかったもん。身長だってこないだ一センチも伸びたんだ。いつか追い越してやるからな!」
裕也は精一杯言い返したけれど、孝宏は笑って裕也の頭を撫でる。
「あまり大きくなると家に入れなくなるから気をつけるんだぞ。」
「そんなに大きくならないよ!」
胴回りを締めていた孝宏の片手が頭の上へ移った隙を突いて、裕也は孝宏の手を振り払って逃げた。そのままソファーから離れようとすると、突然目の前に壁が現れ、裕也は慌てて急ブレーキを掛ける。見上げると、母がお盆を手に立っていた。
「ダメよ、気をつけなくちゃ。」
母は裕也を避けて腰を屈め、お盆の上のマグカップをテーブルの上に移し始めた。テーブルに置かれたマグカップは全部で三つ。父と母、それに孝宏のものだ。裕也のマグカップはたっぷりのミルクを入れられて、オレンジ色の光を漏らす電子レンジの中で回っている。
「ほら、ここに座れ。」
孝宏がソファーの座面を叩きながら裕也を呼んだ。穏やかな表情は完璧にいい兄を演じていて、父や母がいたずら好きの兄を窘めてくれる気配はない。裕也は仕方なく、孝宏からできるだけ離れてソファーの一番端に腰を下ろした。
「なんだよ。もっとこっち来いって。」
孝宏が裕也の腕に手を伸ばしたが、裕也はその手を振り払って顔を背ける。視界の端で、孝宏が笑いながら自分のマグカップに手を伸ばすのが見えた。
「お父さん、コーヒー淹れましたよ。」
母が新聞を読み耽っている父に声を掛けると、父はやっと新聞を畳んで母の座るスペースを空けるためソファーの端に座り直した。
「ホットミルクはもうちょっと待っててね。」
母は父の隣に腰を下ろし、自分のマグカップを取って裕也に微笑み掛ける。
室内には苦い薫りが充満していた。母の手の中のマグカップに注がれた毒々しい黒い液体を見ていると、裕也は顔をしかめたくなる。一度だけ孝宏の勧めで舌を付け、母に見つかって子供の飲むものではないと怒られたことがあったけれど、たとえ怒られなくても二度と飲みたくない味だった。それなのに、両親も、孝宏も、毎日これをおいしそうに飲んでいる。
「それ、本当においしい?」
両手で包むように持ったマグカップを口元へ運ぶ母に、裕也は尋ねてしまった。
「うまいぞ。お子様には分からない大人の味だな。」
答えたのは母ではなかった。振り向くと、孝宏が自慢げにマグカップを掲げている。
「裕也も少し飲むか?」
孝宏は僅かに腰を浮かせて裕也に身体を寄せた。目の前にマグカップを差し出され、湯気と共に立ち上る苦い匂いが強く鼻を刺激する。
「いらない。苦いだけで全然おいしくないから。」
裕也は両手でマグカップを押し返した。できることなら孝宏ごとソファーの端に押し返してやりたかったが、裕也の力でそれは不可能だ。
「この苦味がうまいんだよ。まあ、裕也はまだお子様だからなあ。このうまさが分からないのも仕方がないか。」
孝宏は笑いながら言い、見せびらかすようにコーヒーを一口飲んだ。台詞以上にその勝ち誇った態度が裕也の神経を逆撫でする。
「お子様じゃないよ! 身長だって伸びたし、九九だって言えるんだから!」
挑発と知りつつ、裕也はソファーから立ち上がって叫んだ。裕也はキッと孝宏を睨みつけたが、孝宏はだらりとソファーに身体を預けて、口端に笑みを浮かべながら裕也を見上げる。実際には裕也が孝宏を見下ろしているのに、感覚的にはずっと高いところから孝宏に見下ろされているようだった。裕也は一瞬怯みながらも、もう少し何か反論しなくてはと考える。
「いいのよ、裕也はまだ飲めなくて。」
いい案が思い浮かぶ前に、母が口を挟んできた。
「子供が夜にコーヒーを飲むと眠れなくなるんだから。前にも言ったでしょう。」
母のお説教は挑発してきた孝宏ではなく裕也に向けられているらしい。裕也は母に抗議しようと口を開いたが、声を発する前に背後から聞こえてきた電子音に遮られてしまった。電子レンジが裕也のミルクを温め終えたのだ。
「ほら、裕也のホットミルクもできたわよ。」
母はマグカップをテーブルに置いて立ち上がった。やたらと明るい声で言う母は、裕也の関心を他へ向けて喧嘩を終わらせてしまおうと考えているらしい。
孝宏に有効な反撃を食らわせられないのは悔しかったが、どちらにしろ勝ち目のないことは過去の経験から分かっていた。裕也は黙って孝宏に背を向けると、キッチンへ立った母の後を追う。
「熱いから気を付けてね。」
母からマグカップを受け取り、裕也は中身を覗き込んだ。真っ白いミルクは毒々しい黒のコーヒーとは違って、とてもおいしそうだ。裕也はミルクを零さないようにそろりそろりと歩いた。注意していても、微かな振動で表面に張った薄膜にしわが寄る。
裕也がやっとソファーに辿り着いて顔を上げると、孝宏は一気にコーヒーを飲み干していた。
「さてと。コーヒーも飲んだし、もう一頑張りするかな。」
孝宏はマグカップをテーブルの上に置くと、立ち上がって背筋を伸ばす。ここ最近、孝宏は夜遅くまで勉強していた。本人曰く、一ヵ月後に控えた大学受験は人生最大の勝負の時らしい。軽口もいたずら好きも相変わらずで、裕也の目には孝宏がそれほど大事な試験を控えているようには見えなかったのだけれど、勉強を口実に遊びの誘いを断られる機会が多くなったのは確かだった。
「それじゃあな、裕也。」
孝宏はテーブルの上に置いていた自分のマグカップを手に取ると、空いている手で裕也の頭をくしゃくしゃと撫でる。
「後でお夜食持って行くわね。」
「ありがとう。」
孝宏は母に空のマグカップを渡し、リビングを出て行った。
「裕也はそれを飲んだら、お父さんとお風呂に入りなさいね。」
母に言われ、裕也はマグカップに口を付けたまま父を窺う。
「もう沸かしてありますから、お湯が冷めないうちに早く入ってくださいね。」
母は父に向けて言ったが、父は呻くような返事を微かに返して、緩慢な動作でマグカップを上下させていた。
裕也はシャンプーや歯磨きを一通り済ませると、のんびり湯船に浸かっている父を残して風呂を出た。用意しておいたパジャマに着替え、そのまま自分の部屋へ戻ろうと階段までやってくる。
「あら、裕也。お風呂済んだのね。」
一段目に足を掛けたところで声を掛けられ、振り返ると、母がお盆を手にリビングから出てくるところだった。
「髪の毛、ちゃんと乾かした?」
母に尋ねられ、裕也は無言で大きく頷く。
「それ、お兄ちゃんの夜食?」
裕也は母の抱えているお盆を指差した。お盆は裕也の頭上に掲げられていて、メニューが何かまでは分からなかったけれど、孝宏のマグカップが載っていることにはすぐに気がついた。
「そうよ。お勉強、頑張ってるから。」
母は微笑んで答える。裕也には寝る前に食べたらだめだと怒るのに、ここ最近、母は孝宏に毎晩のように夜食を用意していた。最初はずるいと思ったものの、受験生になって遊びを我慢したり、夜遅くまで勉強をしたりしなければならなくなるくらいなら、夜食を我慢する方がましである。
「おおい、母さん。」
微かに父の声が聞こえた。裕也は母と共に階段の奥の廊下を覗き込む。
「母さん、バスタオルがないんだよ。おーい、聞こえてるか。バスタオルが……。」
父の悲痛な叫びは急に小さくなって一度途切れた。思い返せば、確か裕也の使ったバスタオルが脱衣所の棚に詰まれた最後の一枚だったような気がする。
「聞こえてますよ。すぐに持って行きますから!」
母が呆れたようにため息を吐き、声を張り上げた。
「もう、和室に畳んであるから持っていってくださいってさっき言ったのに……。裕也、悪いんだけど、これ、お部屋に戻るついでにお兄ちゃんの部屋まで持って行ってくれる?」
母はお盆を裕也の目線まで下ろすと、申し訳なさそうに言った。廊下の奥から再び「母さぁん。」と呼ぶ父の声が聞こえてくる。
「うん、いいよ。」
兄のためでもなく母のためでもなく、一生懸命に母を呼ぶ父のために、裕也は母の申し出を了承した。
「ありがとう。じゃあ、食べ終わったら部屋の外に出しておくように伝えてね。」
母は裕也にお盆を渡し、「はいはい。」と父に答えながら廊下の奥を進んでいく。裕也はお盆を抱え、母と別れて廊下の階段を登った。
お盆には、きつね色の焦げ目がついたホットサンドと真っ黒のコーヒーを入れたマグカップが載っている。
――お子様には分からない大人の味だな。
ふいに先程の孝宏の言葉が脳裏に甦った。同時に苦い薫りが好奇心を誘い、裕也は階段の途中で足を止める。
前に一度飲んだ時は、確かに苦くてまずかった。しかし、孝宏の言う通り、あの苦味が大人になれば分かる味なら、今飲めばおいしいと感じるかもしれない。以前、コーヒーを飲んだのは小学校に入ったばかりの頃で、あの頃はまだ逆上がりもできなかったし、自分の名前を漢字で書くこともできなかった。今は身長も伸びて、体重も少し増えている。あの時よりは大人に近付いているはずだった。
これさえ飲めれば、もう孝宏にまだお子様だと笑われることはなくなるのだ。
裕也は階段の踊り場にお盆を置き、そっと孝宏のマグカップを手に取った。天井の照明を反射しながら、マグカップの中で黒い液体が揺れる。不気味さを感じながらも、裕也は苦い薫りに妙な興奮を覚えた。
マグカップにはたっぷりコーヒーが入っていて、少し飲んでしまっても孝宏が気付くことはないだろう。
裕也は唾を飲み込むと、意を決してマグカップに口を付けた。ぐいっと一気に口に含むと、途端に苦味が口内に広がる。思わず吐き出しそうになったが、なんとか堪えてそのまま喉の奥へ流し込んだ。
「ま、まずぅい……。」
思わず本音が漏れたが、しばらくするとそれほどでもないかな、と思い始める。もう一口飲んでみようかと思ったところで、予想外の声が掛かった。
「裕也? どうしたの?」
振り向くと、母が怪訝そうに階段の口から覗いている。裕也は慌ててマグカップを背中に隠した。
「な、なんでもないよ。」
「だめよ、摘み食いしちゃ。裕也はもう歯磨きしたんでしょう。」
そう言いながら、母は階段の一段目に足を掛ける。母が階段を上がってきて、コーヒーの量が減っていることに気付かれては困る。飲んではいけないと言われていたコーヒーを飲んだだけではなく、夜寝る前に孝宏のコーヒーを盗み飲みしたと知ったら、母が怒るのは間違いなかった。
「摘み食いなんかしてないよ。大丈夫、ちゃんと持って行くから。」
裕也はマグカップを戻してお盆を抱え、急いで階段を登る。コーヒーはマグカップの中で大きく揺れ、裕也はコーヒーを零さないように速度を落とした。手すりから身を乗り出して下を見たが、母の姿はない。裕也はホッと息を吐き、揺れるコーヒーと足元に注意して階段を上り切った。二階の廊下を進み、孝宏の部屋の前で立ち止まる。コーヒーの載ったお盆を片手で持つのは不安定だったから、裕也はお盆を床に置いて扉を叩いた。
「どうぞ。」
返事を聞いてノブを回し、部屋の中を覗き込むと、孝宏がこちらに背を向けて机に向かっていた。オーディオが静かにリズミカルな音楽を奏でている。
「お兄ちゃん?」
声を掛けると、孝宏が驚いた様子で振り向いた。
「なんだ、裕也か。どうした?」
「お母さんに頼まれて、これ、持って来た。」
裕也は扉の脇に置いていたお盆を拾い上げて部屋に入る。
「ああ、サンキュ。」
孝宏は立ち上がって部屋の入り口へ歩いてくると、裕也が抱えていたお盆を受け取った。
「お母さんが食べ終わったら部屋の外に出しておいてって。」
「分かった。ありがとな、裕也。」
孝宏は、裕也が両手で抱えていたお盆を軽々と片手で支え、もう一方の手で裕也の頭を撫でた。どうやら孝宏はコーヒーの嵩が少し減っていることに気付いてはいないらしい。当然、裕也がコーヒーを飲めたことも知らないのだ。
「どうした?」
裕也がぼうっと孝宏を見上げていると、孝宏がきょとんとして尋ねた。
せっかく苦いコーヒーを飲んだのだから、自分がもうお子様ではないことを宣言したかったけれど、今コーヒーを飲んだことを告げれば、自分が孝宏のコーヒーを盗み飲みしたことがばれてしまう。ここで孝宏に自慢ができても、その後で母に怒られれば、それを理由にしてまた孝宏に笑われる可能性もあった。裕也がコーヒーを飲めること、大人の味が分かること、もうお子様ではないことは、しばらく秘密にしておかなくてはならない。
秘密――その言葉はコーヒーと同じく、気分の高揚をもたらす不思議な響きを含んでいた。
「なんでもない。おやすみなさい。」
裕也は笑顔で左右に首を振り、怪訝そうに首を傾げる孝宏を残して部屋を出た。