ここち

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真夜中のコーヒー・ネバーランド


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 駆け続けて息が上がり、裕也は再び街の中心にある広場で立ち止まった。たった今たっぷりのコーヒーを飲んで回復したはずなのに、少し駆けただけでまた疲れを感じ始めている。
「おかしいな。」
 裕也は呟いてその場にすとんと腰を下ろした。
「ユウヤ? もう疲れたの?」
 カフィーが笑いながら裕也の顔を覗き込んでくる。ずっと裕也と一緒に走り回っていたのに、カフィーには全く疲れた様子が見えなかった。こっそりコーヒーのストックを飲んでいたのだろうか。
「カフィーは元気なのに、何で僕だけこんなに早く……。」
 裕也が憂鬱な表情で呟くと、カフィーが裕也の目の前で手を広げた。
「僕はこれを飲んでいるんだよ。」
 カフィーの手のひらには真っ黒いカプセルが一つ載っている。
「何それ?」
 裕也が首を傾げることさえ面倒に感じながら聞き返した。特に何をしているというわけでもないのに、疲労が速い速度で進行している。
「これはネバーランドに降るコーヒーの雨の成分を抽出した薬さ。一粒で未精製のコーヒーの何十倍もの効果がある。」
 カフィーは裕也の手を取ると、開いた手のひらに黒いカプセルを一つ載せてくれた。裕也はカプセルを摘み上げて、まじまじと観察する。
「それを飲めば当分は疲れないよ。コーヒーの雨をそのまま飲んでいても、段々と身体が慣れて効き目がなくなってくるけど、そのカプセルは完璧さ。ちょっと副作用があることを除けばね。」
 カフィーはにやりと笑った。
「副作用?」
 裕也がきょとんと首を傾げた時、突然大きな音が広場に響く。
「カツラ屋のバーゲンセールが始まるよー!」
 広場の隅の店の前に巨大スピーカーが設置されている。エコーの掛かった声がキーンと裕也の耳を突き刺した。途端に、それまでも十分賑やかだった街が耳障りな程の騒音を立て始める。子供たちが一気にその店へ殺到し始めたのだ。誰もが鬼気迫る表情で《カツラ屋》と地味な茶色の看板を掲げる店へ駆ける。
 裕也は耳をつんざくような音で疲労を忘れた。何が起こったのかが気になって思わず立ち上がりかけると、背後から駆けて来た誰かに突き飛ばされる。裕也は前のめりに倒れて手を着いた。手に持っていた黒いカプセルは雑踏の中へ転がっていく。
「ああっ。」
「ああ、もったいない。でも大丈夫だよ、まだまだたくさんあるからね。」
 カフィーは転んだ裕也を助け起こすと、腰にぶら下げた巾着を開けて見せた。中には黒いカプセルがたっぷり詰まっている。
「うわぁ、すごい。」
「この薬はネバーランドで最も価値のあるものでね、お金の代わりにもなっているんだ。ネバーランドに長居するならこのカプセルは必需品だよ。はい、今度は落とさないようにね。」
 カフィーはまた一つ黒いカプセルを取り出して裕也に渡してくれた。
「これ、そのまま飲んでいいの? 苦い?」
 裕也はカプセルを見つめながらカフィーに尋ねる。
「そうだな。どうせならコーヒーの雨と一緒の方が飲みやすいよ。買ってこよう。」
 カフィーはそう言って元来た道を戻ろうとした。
「あ、待って。あのお店は何なの?」
 裕也はカフィーの服の裾を掴んで引き止め、先程子供たちが殺到した《カツラ屋》を指差す。
「ああ。あれはさっき言ったその副作用のせいでね。」
 カフィーは笑いながら曖昧に答えた。
「あのお店は薬屋さん?」
「まさか。看板の通りだよ。なんなら見に行ってみる?」
 カフィーは笑って歩き出す。裕也は黒いカプセルを落とさないようにポケットに入れ、疲労に耐えながらゆっくりとカフィーの後を追った。
 店の前のショーウィンドウには首から上のマネキンが並んでいる。変な帽子を被ったものが多いが、特大のアフロヘアやちょんまげのマネキンもあった。アフロヘアやちょんまげはともかく、一見すると風変わりな帽子屋だ。
「いやあ、良かった。いいのが買えたよ。」
 二人組みの子供がウキウキした様子で店から出てきた。二人とも手には紙袋を提げている。
「一刻も早く取り替えたいね。ここで替えてしまおうかな。」
 店から出てきた一人が、嬉しそうに自分の帽子に手をやった。その瞬間、その人の頭がずれた。いや、頭がずれたのではない。カツラがずれたのだ。
「おっと、いけない。」
 ヅラの人は慌ててずれたカツラを元の位置に戻す。
 裕也はしばらく呆然として口が聞けなかった。ヅラの人は明らかに子供なのだ。それなのにカツラ……。大きくずれたカツラの下にはつるつるの頭皮が見えていた。裕也と同じ程度の年齢で、彼は既にツルッパゲなのだ。
「な、なんで……?」
 呆然として呟くと、カフィーが笑いながら説明してくれた。
「あれが副作用さ。コーヒーは飲み過ぎると禿げるんだよ。コーヒーの雨を飲んでもそれは同じだけど、あのカプセルはコーヒーの雨の何十倍もの効力があるからね。その分、禿げの効果も高まるってわけさ。」
「そ、そんな……。」
「でも心配要らないよ。ネバーランドには優秀なカツラ職人がたくさんいる。最近の流行は帽子一体型のカツラだよ。ほら、僕のも。」
 そう言って、カフィーは茶色のとんがり帽子の先を摘まんで持ち上げる。帽子と共に髪が浮き、先程のヅラの人と同じツルッパゲの頭皮が見えた。裕也は開いた口が塞がらない。
「大人と同じような世界に暮らしていると、何かとストレスも多いんだ。ネバーランドの住民はみんなツルッパゲだよ。いいカツラがたくさんあるから、気にするほどのことじゃないけどね。」
 カフィーは帽子――いや、カツラを頭の上に戻して笑った。
「ああ、もうすぐまた恵みの雨が降るよ。その雨でさっきのカプセルを飲むといいよ。裕也も僕らと同じツルッパゲの仲間入りだ。僕がいいカツラを見繕ってあげる。」
 カフィーは空を見上げ、それから真っ直ぐに裕也を見て笑う。裕也は笑えなかった。
「僕……これ、要らない。」
 裕也はカフィーから貰ったカプセルをポケットから取り出すと、指先で摘まんでカフィーに突き返す。
「どうして? それを飲まなきゃ疲れが取れないよ? ネバーランドでは眠れないんだ。疲れて眠ってしまったら、ネバーランドにはいられなくなる。」
 カフィーが驚いた表情を見せた。
「それでもいいよ。僕、帰りたい。」
 裕也はカフィーが受け取らないカプセルを指先から離す。カプセルはポトンと地面に落ちた。
 ――ポツン、ポツン。
 微かな雨音が続き、再びコーヒーの雨が降り注ぐ。
「どうして!? ネバーランドでは子供が大人と同じように振舞える。偉そうな大人がいない。自由で楽しいところなんだ。おもちゃ屋だって何だってあるんだよ? こんなにいい世界は他にないのに!」
 カフィーは今までにない戸惑いの表情を見せていた。裕也がネバーランドを離れたいということが全く理解できないのだろう。
「僕、子供でいいよ。いつかは大人になると思うけど、今はまだ子供でいい。お母さんとお父さんと、それからお兄ちゃんにも会いたい!」
 そう叫んだところで、裕也はがくりと膝を折った。疲れがピークに達している。そのまま意識を失いそうだ。
「だめだよ、ユウヤ。ユウヤは僕と一緒にネバーランドにいなくっちゃ。あんなに大人になりたがっていたじゃないか。ここにいれば偉そうなお兄さんに馬鹿にされなくて済むんだよ? さあ、カプセルを飲むんだ。」
 カフィーは裕也の身体を支え、新たに取り出したカプセルを裕也の口に押し込もうとする。
「嫌だ、嫌だ、嫌だ! ネバーランドなんて嫌だ! ツルッパゲになんかなりたくない!」
 裕也は最後の力を振り絞ってカフィーの手を振り払い、そして意識を失った。


 ――ユウヤ、ユウヤ。
 誰かが裕也を呼んでいる。
 ――ユウヤ、起きて。
 ――嫌だ。僕は眠るんだ。ツルッパゲになんかならない。
 呼びかけの声に、裕也はぼんやりとしたまま答える。
「裕也、起きなさい! 学校に遅刻するわよ!」
 耳元で響いた声に、裕也ははっとして飛び起きた。
「もう、今何時だと思ってるの? 早く着替えて朝ご飯を食べて。」
 辺りを見回すと、そこは見慣れた自分の部屋。ベッドの脇には母がいる。
「ネバーランドじゃない?」
「ネバーランド? 大好きなピーターパンの夢でも見てたのね。ほら、ぼうっとしてないで。早くしないと本当に遅刻しちゃうわよ。」
 母は裕也の背中をぽんぽんと叩くと、笑いながら部屋を出て行った。
「僕、助かったんだ。」
 裕也は頭に手をやって、きちんと毛が生えていることを確認して安堵の息を漏らす。

 着替えを済ませてリビングへ下りて行くと、室内にはあの苦いコーヒーの薫りが漂っていた。裕也はネバーランドの悪夢を思い出して思わず顔をしかめる。
「おお。今日は随分とお寝坊さんだったなあ。早くしないと遅刻するぞ。」
 ダイニングテーブルでは、既に朝食を済ませたらしい孝宏が食後のコーヒーを味わっていた。その隣で父も新聞を広げている。裕也は眠たい目を擦りながらダイニングテーブルに着いた。テーブルの上には既にトーストとベーコンエッグ、それからホットミルクが用意されている。
 裕也はふあぁと欠伸を漏らしながら、マグカップを手に取った。昨晩のコーヒーのせいで十分な睡眠時間が取れなかった上、寝覚めの悪さも手伝って、疲れが抜け切れていない。
「なんだ、言い返す元気もないほど眠いのか。だったら裕也も眠気覚ましのコーヒー飲んでみるか? 効くぞぉ。」
「いらない。」
 裕也はゆっくりと左右に首を振って、孝宏が差し出したマグカップを押し返した。コーヒーはもう懲り懲りだ。
「だめだなあ、お子様は。」
 孝宏は笑うが、もはやお子様と言われることに一々目くじらを立てる気にもならなかった。その代わり、兄のことを思って親切に忠告する。
「お兄ちゃん、コーヒーばかり飲んでるとツルッパゲになっちゃうよ。」
 裕也の言葉に、孝宏が表情を歪めた。
「げっ。それ、昨日、ラジオでも言ってた。本当に禿げたらどうしよう。」
 孝宏は不安そうに自分の頭に手を伸ばす。
「そんなことを気にするから余計に禿げるんだよ。健康のためにあれが良いこれが悪いって、一々言っていたら生きていけないさ。」
 珍しく父が新聞を畳みながら口を挟んだ。
「そうかなあ……。」
 呟きながら、孝宏はじっと父の顔を見つめる。より正確に表現するなら、孝宏は父の頭の上のだいぶ後退した生え際を見つめていた。
「俺、少しコーヒー控えようかなあ。」
 孝宏は父の頭から視線を逸らすと、頬杖を突きながらため息交じりに漏らす。
 裕也はゆっくりと真っ白なホットミルクを味わった。じんわりと身体の中に広がっていく温もりに、ほっと息を漏らす。少しではあるが、疲労感が和らいだ気がした。

《了》


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