ここち

HOME >> 短編小説 >>

真夜中のコーヒー・ネバーランド


(1)  (2)  (3)

(2)

 廊下に出て隣の自分の部屋に入ると、再び笑みが漏れた。「大人」と「秘密」のキーワードが頭の中でぐるぐると回りながら、高揚感を更に高めていく。
 ベッドに潜り込んでからも高揚感は抜けなかった。いつもの就寝時刻を過ぎているのに、一向に眠くならない。
 しばらくはそれが心地よくて、いつか訪れるであろう秘密を明かす日のことを考えてわくわくしていたのだが、間もなくして不安が生じ始めた。
 ――子供が夜にコーヒーを飲むと眠れなくなるんだから。
 脳裏に母の言葉が浮ぶ。何度も寝返りを打ってみるが、目を閉じていることさえ苦痛に感じるほど脳は完全に覚醒していた。
 裕也は、母の言いつけを守らなかったことを後悔しながら、ぎゅっと目を閉じて頭まで布団を被る。
 ――……だね?
 突然、頭の中にぼんやりと声が響いた。
「大人の飲み物を飲んだでしょう?」
 すぐ側で囁くような声に驚いて布団から顔を出すと、目の前に輝くものが浮いていた。
「ティンカーベル?」
 裕也は思わず何度も見たお気に入りのビデオアニメのキャラクターの名前を口走ったが、よく見ると、目の前に浮かんでいるものはその大きさを除けば、見た目はティンカーベルよりもピーターパンに近い。てっぺんが後ろへ垂れたとんがり帽子を被り、半袖のシャツと短パンを着た小人サイズの少年だった。
 少年の全身は不思議な光に包まれているようで、真っ暗な部屋の中でもしっかりとその姿を認識することができる。服の色は帽子から靴まで全て茶色で、髪も真っ黒ときれいな妖精の仲間にしてはあまりにも地味な格好だ。
「僕はカフィー。ネバーランドの住人さ。」
 少年は裕也の目の前でふよふよと浮きながら、笑顔で自己紹介をした。
 裕也はしばらく少年――カフィーをじっと見つめ、それからはっと気付いて布団から手を出すと、カフィーの胴をむんずと掴んだ。
「ひゃ!」
 カフィーは短い悲鳴を上げて裕也の手から逃れようとするが、裕也は身体を起こしてカフィーを手許に引き寄せるとまじまじと眺めた。人形でもロボットでもない。
「離してよ。苦しいってば!」
 カフィーがかすれる声で言い、裕也はカフィーを掴んでいた手の力を抜いた。その瞬間、なんとかして裕也の手から逃げ出そうと力を込めていたカフィーは勢いよく飛び出して、そのまま布団に不時着する。
「いたっ。」
 カフィーは不幸にも顔面から着地したらしく、つぶれた鼻に手を当てながら顔を上げた。 裕也は布団の上で転んでいるカフィーを摘み上げようと手を伸ばしたが、カフィーは逃げるようにその手を払って再び空中に浮き上がる。
「全く、最近の子供は乱暴だな。」
 カフィーは腰に手を当てて、唇を尖らせながら文句を言った。人形でもロボットでもない小人がテレビの外で目の前に浮いている。裕也はしばらく考えてから、カフィーに問う。
「君はピーターパンなの? それともティンカーベルなの?」
「僕はピーターパンでもティンカーベルでもない! 僕はカフィーだ。」
 カフィーは怒ったように顔をしかめてから、裕也の眉間に指を突き立てて抗議する。
「じゃあ、カフィーはピーターパンやティンカーベルと一緒にネバーランドに住んでるってこと?」
 裕也が尋ねると、今度は待ってましたと言わんばかりにカフィーは嬉しそうな顔をして得意げに話し始めた。
「僕が住んでいるネバーランドはピーターパンのネバーランドとは違う。」
 裕也はカフィーの言葉にいささか落胆したが、カフィーは構わず話を続ける。
「僕らのネバーランドはコーヒー・ネバーランド。永遠に眠らない国さ。」
「コーヒー・ネバーランド?」
 裕也が聞き返すと、カフィーはにやりと笑った。
「これから君は僕と一緒にそこへ行くんだ。」
 カフィーの言葉で、真っ暗な部屋の景色がぐにゃりと歪む。明るく輝くカフィー自身の他は微かに暗い影が見えるだけだったけれど、歪みは裕也自身にも及んで、裕也は車酔いよりもひどい気持ち悪さを感じた。裕也は思わず目を閉じて布団の上で頭を抱える。次第に意識が遠のいていった。
「……ユウヤ、ユウヤ。」
 耳元で声が聞こえた。知っている声だ。茶色い服の小さな少年カフィーの声だ。
 ユウヤがはっとして顔を上げると、周囲の景色は真っ暗闇でもなければ見慣れた自分の部屋でもなかった。
 茶色のレンガが敷き詰められた道の両側に、やはりレンガ造りの建物が並んでいる。道の左右に互い違いに並んだ街灯の下を、小さな影を落として人々が行き来している。見上げた空は真っ暗で星一つ見えなかったけれど、古いガス燈を思わせる街灯は不思議なほどに明るく街を照らしていた。
「ここ……どこ?」
 絵本に出てくるような古い異国的な街並みに囲まれて、裕也は戸惑いながら呟く。
「ここがコーヒー・ネバーランド。永遠に眠らない国さ。」
 声に振り向くと、隣にカフィーが立っていた。裕也の部屋にいたときのように宙に浮いてはいなかったし、大きさも裕也と同じくらいに変わっている。
「巨大化した!」
 裕也が驚いて声を上げると、カフィーはけらけらと笑い出した。
「これが僕の本当の姿さ。行こう、街を案内するよ。」
 カフィーは裕也の手を掴んで走り出す。
「ま、待って!」
 裕也はぎゅっと両足で踏ん張り、カフィーをその場に引き留めた。
「僕、家に帰らなくちゃ。ママもパパも心配するし、明日は学校があって……。」
 裕也が不安になりながら言うと、カフィーは不満げに顔を歪ませる。
「家に帰る必要なんかないさ。学校なんて行かなくてもいいんだ。ここは大人になりたい子供のための世界なんだ。子供にも大人と同じ自由が与えられる。学校で勉強なんかしなくてもいいし、夜遅くまで遊んでいても誰も怒らない。好きなことを好きなだけできる。街は眠らず、住人は永遠に遊び続けることもできるんだ!」
 カフィーの声は段々と力強くなって、最後には両手を広げて声を張り上げていた。
「永遠に……?」
「詳しい話は後だ。街を見て回ろう。それが一番手っ取り早い。面白いものがいっぱいあるんだ。」
 カフィーは再び裕也の手を掴んで走り出す。まだ不安が全て拭われたわけではなかったけれど、見慣れない街への好奇心とカフィーの勢いにつられて、裕也はパジャマのままで街を駆けた。
 道の両側に様々な店が並んでいる。食料品店におもちゃ屋、なんだかよく分からないガラクタを売っている店まであった。通りは行き交う人で溢れて賑やかだったが、裕也は人々が皆カフィーと同じように茶色い服を着ていることが気になった。レンガ造りの街の中では、全てが茶色に見える。
「まずはその服を何とかしよう。そんな格好で街を歩き回るなんてかっこ悪いもの。」
 カフィーは駆け足を早足にまで緩めた。裕也は茶色の服がやたらと流行しているらしい不思議な街を見回しながら、ぐいぐいとカフィーに引っ張られていく。
「ここに入ろう。」
 カフィーが小さな店の前で足を止めた。どうやら洋服店らしく、ショーウィンドウにはカフィーのものによく似た茶色の服が飾られている。世間の流行に逆らったあまりにも地味な服は裕也の趣味ではないのだが、カフィーは裕也の意思を問うこともなく裕也を店の中へ引きずり込んだ。
 裕也は、この店に自分の趣味に合う服があるのだろうかと不安になりながら店内に足を踏み入れたが、その不安はすぐに消えた。趣味に合った服を見つけたからではない。店内にある服は全て茶色で、この店に自分の趣味に合う服はないと瞬時に確信できたのである。
 それどころか、店内は壁紙から棚まで全てが茶色だった。多少の濃淡の違いはあって、中には黒と言ってもいいようなものもあるが、店の中はほとんど完全に茶色に支配されている。
「すみませーん。」
 唖然とする裕也の手を掴んだまま、カフィーは店の奥に声を掛けた。
「はいはい、いらっしゃーい。」
 声に答えて現れたのは、裕也よりも背の低い少年だ。
「あそこに飾ってある服がほしいんだけど。」
 カフィーはショーウィンドウを指差して少年に言った。裕也の好みを考えて選ぼうなどという考えは、端からカフィーの頭の中にはないらしい。いずれにしても、この茶色だらけの店でお気に入りの服を見つけることは不可能だと思ったから、裕也は黙ってカフィーの隣に立っていた。
「あれ、うちの今一番の売れ筋なんだ。」
 少年はにっこり微笑むと、カフィーと裕也の前を通ってショーウィンドウへ向かう。少年はショーウィンドウの裏で屈み、腰にぶら下げた鍵束から一つの鍵を選び出して素早くガラスの扉を開けた。
「あの子がこのお店をやってるの?」
 裕也はカフィーに囁いた。お店を手伝っているというだけならともかく、自分よりも小さな少年が鍵束まで預けられて接客をしているというのが不思議だった。店内には他に大人の姿も見えず、思えば、外の通りでも大人の姿は見かけなかった。みんな裕也と同じくらいの子供たちだったのだ。
「言ったじゃないか。ネバーランドは大人になりたい子供のための世界だって。子供だって大人と同じようにお店の経営ができるんだ。この店だけじゃないよ。ネバーランドのお店は全て子供が経営してるんだ。ネバーランドに大人はいないからね。」
 カフィーが言い終えた時、少年はショーウィンドウのマネキンを裸にして、洋服を抱えていた。
「これでいいかな?」
 少年はカフィーに抱えた洋服を差し出して尋ねる。カフィーは少年の腕から一番上に載っていたシャツを拾い上げると、裕也の胸の前で広げた。
「うん、サイズもちょうど良さそうだね。ここで着ていきたいんだけど、いい?」
 カフィーは一人満足げに頷いて少年を振り返る。
「もちろん。奥に試着室があるからそこで着替えるといいよ。」
 少年が先頭に立って歩き出し、カフィーが裕也の手を掴んでそれに続いた。裕也の服は裕也の意思を問うことなく決定されてしまう。
 少年に案内され、カフィーに背を押され、裕也はよろけながら試着室の中へ入った。
「さあ、とっとと着替えてね。」
 カフィーは中へ入った裕也に茶色い服一式を押し付けると、問答無用でカーテンを閉めた。
 通りを歩く人が全て茶色の服を着ていたことからも、この店どころかこの街では裕也の気に入るような服を入手することはできないと考えるべきだろう。裕也はため息を吐き、仕方なくパジャマを着替え始めた。
 シャツのボタンをはめて着替えを終え、裕也は試着室内の鏡を振り返る。どう見ても裕也が知っている世間の流行とは違うデザインだが、実際着てみるとそれほど悪くないように思えた。色は地味だが、ピーターパンかロビンフッドの衣装に似ていて、それなりにかっこよく見える。鏡で全身を確認しているうちに、裕也はカフィーの被っていたような帽子も欲しくなってきた。
「着替えた?」
 裕也が試着室の外へ出ようとカーテンに手を伸ばすと同時に、カフィーがカーテンの端から顔を覗かせる。裕也は突然現れた首に驚き、反射的に後ずさって鏡に背中をぶつけてしまった。
「うん、似合ってる。靴下と靴も持って来たよ。」
 カフィーは試着室のカーテンを思い切り開けて笑う。靴は既に試着室の前に揃えて並べられていて、カフィーは靴下を裕也の胸に突きつけた。裕也は恐々と靴下を受け取って履き、無言で急かすカフィーの前で用意された靴に足を突っ込んだ。
「さあ、行こう。」
 カフィーは裕也の手首を掴んで歩き出す。裕也はまだ右足の踵が靴に入っておらず、片足で飛び跳ねながら慌てて右足の踵を入れる。
「あ、ちょっと。ねえ、この服のお金は?」
 裕也の腕を掴んで最短距離で店の出入り口に向かうカフィーに、裕也は慌てて声を掛けた。
「ユウヤの着替えている間に僕が払ったよ。」
 カフィーは正面を見つめたまま答える。裕也が店の奥を振り返ると、店主の少年はにこにこと笑っていた。
「あ、ありがとう。服、買ってくれて。」
 裕也はカフィーに引っ張られながら店を出ると、お礼を言った。パジャマ一つでやってきた裕也がお金を持っているはずもなく、カフィーが立て替えてくれた分を支払おうにも支払えない。何かお礼がしたかったけれど、お金がなくてはプレゼントを買うこともできず、一言お礼の言葉を述べるのが今の裕也にできる精一杯だった。
 裕也にはこの服と靴一式が一体いくらするのか見当もつかなかったが、カフィーは大したことではないとでも言うように黙ってにこりと笑い返す。
「とにかくこれで準備ができたね。そうだな、まずは広場に行ってみようか。」
 カフィーはぐるりと辺りを見回した後、再び裕也の腕を掴んで歩き出した。カフィーに引きずられないよう、裕也も慌てて足を動かす。
 裕也は賑やかな茶色の街をきょろきょろと見回しながら、カフィーについて行った。 真っ直ぐに通りを抜けると、円形の広場が広がっている。
「ネバーランドには大人がいないから、子供は思い切り遊べるんだ。ほら、あそこを見てごらん。」
 カフィーが指差した先、広場の片隅に人だかりができていた。裕也がカフィーと共に人ごみを掻き分けていくと、大勢の子供たちに囲まれた中央に子供がいた。ピエロの格好をした大道芸人が巨大なナイフをお手玉のように空中で操っている。
「大人がいたら危ないからやめろって言われることも、ネバーランドでは自由にできる。それで失敗することもあるけど、それは自己責任さ。ネバーランドでは子供も大人と同じように扱われるんだ。」
 街では誰もがみんな楽しそうに買い物を楽しみ、歌って踊って遊んでいる。裕也も楽しそうな街の雰囲気に呑まれて、カフィーと共にはしゃぎながら街を駆け巡った。
 しばらくすると、街に出ている人々の動きが鈍くなってきた。賑やかな歌が聞こえなくなる。裕也もいつの間にか疲労を感じ始めていた。
「カフィー、僕、疲れちゃった。」
 裕也は広場のベンチに腰掛けてため息を吐く。
「大丈夫。ネバーランドは眠らないんだ。もうすぐ恵みの雨が降るよ。」
 カフィーは真っ暗な空を見上げた。
「雨? 傘がないと濡れちゃうよ。雨宿りしなくちゃ。」
 裕也が心配そうに言うと、カフィーは笑う。
「濡れても平気さ。濡れた方がいいくらいなんだから。」
 カフィーがそう言った時、ポツンと裕也の額に水滴が落ちた。ポツン、ポツン。空から落ちてくる水滴は僅かな間にその間隔を縮め、すぐに本降りとなった。ザーッと音を立てて茶色の液体が降る。
「わっ、何これ!」
 裕也は不気味な色の雨に驚いて声を上げるが、カフィーは嬉しそうに両手を広げていた。カフィーだけではない。街の人々は皆嬉しそうに空を見上げている。中には家の中からバケツを引っ張り出してきて、その中に雨を溜めようとしている者もいた。
「恵みの雨だ。」
 カフィーは空を見上げて口を開ける。
「裕也も飲んでごらん。力が湧いてくるよ。」
 カフィーに言われ、裕也は空を見上げた。恐る恐る舌を出し、茶色の液体を受ける。茶色の雨は裕也の知っている味がした。コーヒーの味だ。
「苦っ。」
 慌てて下を向くと、隣でカフィーの笑い声が聞こえた。
「ネバーランドには毎日コーヒーの雨が降るんだ。コーヒーがみんなの眠気を吹き飛ばす。だからネバーランドは眠らない。すごいだろ? 裕也ももっと飲まなくちゃ。寝てしまったらネバーランドにはいられなくなるんだから。」
 そう言って、カフィーは再び空を見上げて口を開ける。裕也も思い切ってそれを真似た。もうコーヒーが飲めないお子様ではないのだ。コーヒーは苦いけれど、その苦味を感じるたびに、疲れて重くなっていた身体が軽くなる。カフィーの言う通り、元気が出てきた。
 コーヒーの雨は街を茶色に染めていく。道も建物も、茶色のレンガにコーヒーが染みて、レンガは茶色を濃くしていく。だからこの街は全てが茶色なのだ。毎日コーヒーの雨を浴びる子供たちの服は茶色でなければならないのだ。
 静かだった街が再び賑わいを取り戻し始めた。コーヒーの雨が弱まって雨音が街から消えると、代わりに賑やかな音楽が街を包む。街の子供たちは、裕也が最初にネバーランドにやってきた時よりも元気に歌い、踊り、騒ぎ出す。
「さあ、もう一度探検に行こう。」
 カフィーに手を取られ、裕也は再び走り出した。身体が飛べそうなほどに軽い。
 ガラクタだらけのマーケットを覗き、丘の上の教会を訪ねて街を見下ろす。何もかもが新鮮で、楽しい時間はあっという間に過ぎて行った。
 街を走り回っているうちに、裕也は再び疲労を感じ始める。ネバーランドへ来て最初に感じた疲労よりも大きな疲労だった。もうこれ以上は一歩も歩けない。裕也はふらふらと道端にへたり込んだ。
「大丈夫だよ。こういう時のためにストックがあるんだ。」
 カフィーはそう言って近くの店へ入り、茶色の液体が詰まったビンを片手に戻ってきた。
「さあ、飲んで。これでまた元気になるよ。」
 カフィーに差し出されたビンを受け取ると、裕也は躊躇うことなく一気に飲み干す。再び身体は軽くなって、気分は高揚した。裕也はすぐに立ち上がり、今度は自らカフィーの手を取って走り出す。見知らぬ町の不思議な賑わいが裕也の好奇心を掻き立てていた。
「カフィー、ネバーランドってすごいところだね。」
 裕也は息を弾ませて駆けながら、カフィーに言う。
「すごいなんてものじゃないさ。ネバーランドは最高なんだ。」

前頁 - 次頁

HOME >> 短編小説 >>

Copyright © 2005 Aiko Kiryu. All rights reserved.