ここち

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武士桜


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(1)

 春風もまだ冷たさを帯びる早朝。江戸から遠く離れた山間の村の外れで、桜はつぼみをつけた枝を精一杯に広げていた。その下に、一人の少年がしゃがみ込んで手を合わせている。少年の名は勝太、齢十三になる。
 勝太の前に鎮座している銘の刻まれた小さな石の下には、勝太の母が眠っていた。勝太と五つ離れた妹の千代を生んで間もなく病で命を落としたのだ。村の共同墓地は村の東にあったが、父はそこへは母の墓を作らず、桜が大好きだった母のために、村の西の外れ、村唯一の桜の木の下に小さな墓をしつらえた。
 その父も、三年前に西国の村で起きた一気に加勢すると言って家を出たきりで、今、勝太は千代と二人で暮らしている。
 子供だけの暮らしは決して楽とは言えないが、この小さな農村では大人たちの暮らしだって楽ではない。それでも子供の少ない小さな村で、村人はみんな勝太と千代に優しかった。特に、隣家に住むトヨおばさんは、夫と息子を早くに失くし、父が家を出る前から二人を自分の子供のように可愛がってくれていた。
 勝太は日課の墓参りを終えると、ゆっくりと立ち上がり、脇に置いていた木刀を拾い上げた。大きな桜の木を回り込み、母の墓とは反対側にある巨大な岩の前に立つ。勝太は巨石に相対して木刀を構え、掛け声と共に巨石に向かって両腕を振り下ろした。
「一……二……三!」
 村唯一の桜の木の下で朝夕それぞれ千回ずつ巨石を相手に鍛錬することもまた、勝太の日課だった。この三年間、父が戻らない理由を勝太は既に察していた。だからこそ、こうして毎日、鍛練を続けているのだ。父に代わって千代や村の人を守れるように、勝太は強い武士になりたかった。勝太が鍛練を始める前は、父が同じように鍛練をしていたのだ。
 勝太がまだ六つの頃のことだ。普段よりも早く目覚めたある朝、姿の見えない父を探して表へ出た勝太は、この桜の木の下で鍛練をしていた父を見つけた。その時、早起きのご褒美として聞かせてもらったのが、父の鍛練の理由と史上最強の武士の伝説だった。

 戦乱の世で史上最強の武士と讃えられた男は、名を修次郎と言った。修次郎は貧しい農村に生まれた次男だったが、巡行中の領主に武芸の才を買われて国に仕えるようになる。間もなく、修次郎はその才能をいかんなく発揮して、その活躍は国を越えて広まるようになった。
 ところがある時、領主が流行り病で床に伏し、領主の人徳に支えられていた小国は隣国からの侵攻の危機に晒された。修次郎の噂を聞きつけた各国の領主らは、傾いた小国よりも自分たちの国に仕えた方が良いと時には金品を示し、時には刺客を送ってまで修次郎を配下に入れようと画策した。しかし、修次郎は忠義を守って当初からの主に仕え続け、隣国の侵攻に際しても城と領主を守って戦い続けた。
 城は落ち、領主も修次郎も命を失ったが、人々は最後まで主への忠誠を示した修次郎を讃えて墓を作った。すると間もなく墓の隣から小さな芽が顔を出し、たちまちに成長して一年後には満開の桜が咲いたと言う。

 父の教えによれば、三年前から勝太が叩き続けている巨石こそ、史上最強の武士の墓である。その隣の桜ももちろん、伝説に登場した通りだ。史上最強の武士の墓には史上最強の武士の魂が宿っていて、その墓石に挑むことは史上最強の武士に挑むことに等しく、墓石を叩く者が史上最強の武士以上の強さを身に付けると墓石は割れ、それはその者が史上最強の武士になったことを意味するのだと父は自慢げに話した。その頃、まだ幼かった勝太は共に鍛練をすることを認めてもらえなかったけれど、伝説を聞いた時から勝太はいつか武士になるのだと決意していた。
 そして三年前の誕生日、勝太はやっと父から鍛錬を開始する許可を得た。父が西国で起きた一揆に加勢すると言って家を出たその朝のことである。
「この木刀は史上最強の武士の桜の枝で作ったものだ。だいぶ使い込んだが、未だにひびすら入っちゃいない。これをお前に預ける。」
 突然旅立ちを決めた父はそう言って勝太に木刀を差し出した。
「勝太も大きくなったからな。そろそろ武士になるための修行を始めても良い頃だ。俺は一緒に修行をしてやれないが、毎日しっかり鍛練しろよ。この木刀が俺の代わりだ。強くなれ。千代やトヨおばさんや村のみんなを守ってやるんだぞ。」
 父の木刀と共にその日課と夢を受け継ぎ、以来、勝太は未だ戻らぬ父の言いつけを守って、毎日朝夕千回ずつ巨石を木刀で叩き続けている。長年父が使っていた木刀は、ひび一つないまま未だ現役で巨石に挑み続けており、史上最強の武士の桜の枝で作られた木刀はやはり特別らしい。
 勝太は上下に振る手を一度止め、ゆっくりと呼吸を整えた。木刀を正面に構え、静かに巨石と向かい合う。千回目になる今朝の最後の一振りだ。
「やあっ。」
 勝太は素早く腕を上げ、掛け声と共に振り下ろした。甲高い音が響き、両腕に重い衝撃が伝わる。木刀の先が宙に舞うのを視界の端に捉えながら、勝太は予想以上の反動に尻餅をついた。
「痛えっ。」
 声を上げたのは勝太ではなかった。
「何なんだ一体……うわっ。」
 空から聞こえた声の主を確かめようと勝太が顔を上げようとした時、何かが空から降って来て、勝太は思わず目を閉じた。同時に、雷が落ちたような大きな音が響き、重たい音がゆっくりとした波長で長く響く。音が遠くに消えるのを待って、勝太はそっと目を開けた。
 砂埃が目の前で舞い上がり、遮られた視界の両端に鋭い切断面を持った巨石が仰向けに倒れている。
「岩が割れた?」
 勝太は目を凝らし、まだ砂埃に遮られた巨石があったはずの中心部を見つめた。砂埃の向こうに何かの影が揺れる。勝太がその影の正体を見極めようと、腰を上げて前傾姿勢を取った時、声と共に影がはっきりとその姿を現し、勝太は反射的に身を引いた。
「ちくしょう。俺が何をしたって言うんだ。」
 砂埃の中から現れたのは一人の男だった。袴姿で長い髪を後ろで一つに束ね、腰には二本の刀を差している。それはどう見ても武士の姿に違いなかった。
「ん? なんだお前。」
 男は地面に座り込んでいる勝太を見つけると怪訝そうに目を細めた。勝太は呆気にとられたまま、折れた木刀を片手に男の様子を観察した。
「あ、もしかしてお前か? 俺の頭に変なもんをぶつけたのは。」
 男は立ったまま顔を近づけて勝太を睨み、勝太は動くことが出来なかった。男に対して恐怖を覚えたからではない。今の目の前の状況を信じていいのかどうかを判断するのに手間取っていたのである。
 まず一つ信じられないことは、一つのひびも入っていなかった木刀が突然折れたこと。もう一つは、巨石がやはり突然割れたこと。更にもう一つが、武士の格好をした男がこれまた突然現れたことである。鍛錬を開始した時、辺りには狐や狸の影すら見えなかったのだ。
「おじさん、誰?」
 勝太はやっとの思いで口を開いた。
「おじさん? お前、俺をいくつだと思ってる。お兄さんと呼べ、お兄さんと!」
 男はそう勝太を怒鳴りつけて目の前にしゃがみ込み、勝太の額を人差し指で強く押した。勝太は何とか倒れないように身体を支え、今度は男を怒らせないように言葉を選んで尋ねた。
「じゃあ、お兄さんは一体誰なんですか?」
 勝太の問いに、男はむっとした表情で逆に聞き返した。
「その前に、自分が名乗るのが先だろうが。お前は一体誰なんだ。ええ?」
 問いながら、男は勝太の額を指で弾いた。
「か、勝太。俺は勝太。」
 勝太は弾かれた額を手で押さえながら答えた。
「勝太……ね。」
 男は答えを聞くと興味なさそうに立ち上がり、そのまま立ち去ろうとした。
「待って! おじ……お兄さんが誰だかまだ聞いてない!」
 勝太は慌てて男の袴の裾を掴み、男は転びそうになって地面に膝をついた。
「いきなり何すんだ、馬鹿野郎!」
 男は振り返って勝太を怒鳴り、おずおずと着物についた土を払いながら立ち上がった。
「だって、俺はちゃんと名乗ったのに、お、お兄さんだけ名乗らないなんてずるいじゃないか。」
 勝太はまた逃げられては困ると、立ち上がった男の袴の裾を再び掴んだ。
「こら、裾を掴むな! そんなに知りたきゃ教えてやるよ。俺は修次郎。小野修次郎だ!」
「修次郎?」
 勝太は、記憶を手繰るように、聞いた名前を繰り返した。
「もういいだろう。手を放せっ。」
 男――修次郎は裾を掴んだままの勝太の手を振り払おうとしたが、勝太は頭の隅に引っ掛かっていた記憶を見つけ、咄嗟に掴んだ裾を勢いよく引っ張った。足を取られた修次郎は尻餅をついて転がる。
「痛え。ったく、いい加減に……。」
「修次郎さん! 本当に修次郎って言うの!?」
 勝太は、転んで地面に座り込んだままの修次郎に飛び掛かった。勝太は既に一つの確信を抱いていた。修次郎――それは父から聞いたあの史上最強の武士の名前なのである。
「おい、何なんだ一体。」
 尻餅どころか背中まで地面につけた修次郎は慌てて勝太を押しのけた。
「そっか、そっか、そうだったんだ。」
 押しのけられた勝太は、両手で握り拳を作り、喜びに震えた。史上最強の武士の墓である巨石が割れると同時に現れた史上最強の武士と同じ名を持つ男が史上最強の武士以外の何者であると言うのだろう。こんな山間の農村にきちんとした身なりの武士がぶらり通り掛ることなどあるはずがないのだ。どういう術かは知らないが、史上最強の武士が甦ったと考えるしかない。
「おい、他人を地面に叩きつけておいて一人で納得してんじゃねえぞ。」
 立ち上がった修次郎は、側に転がっていた折れた木刀を勝太に向かって投げつけた。目の前に飛んで来た木刀を、勝太は蝿を振り払うように自然と払い落とす。勝太にはもはや目の前の修次郎――史上最強の武士しか見えていなかった。
「修次郎さん、俺を弟子にしてください。」
 勝太は真っ直ぐ修次郎を向いて正座すると、そのまま修次郎に向かって頭を下げた。
「はぁ? 何言ってんだ、お前。」
「修次郎さんが史上最強の武士なのは知っています。俺、強くなりたいんです。千代や村のみんなを守れるように。修次郎さんみたいな強い武士になりたいんです。」
 勝太は地面に額をつけたまま言った。
「ちょっと待て。何だその史上最強の武士ってのは。人違いじゃないのか。」
 勝太ははっとして顔を上げた。修次郎はさっぱり分からないという表情で勝太を見下ろしている。
「あっ。」
 勝太は思い出したように声を上げた。
「何だ。やっぱり人違いか。全く勘弁して……。」
「修次郎さんは死んでたから知らないんですね、自分が伝説になってること!」
 修次郎の言葉を遮って、勝太は声を上げた。史上最強の武士はずっと昔に死んで墓の中で眠っていたのだし、まさか自分が後の世にまで史上最強の武士として讃えられているとは思ってもいなかったに違いない。勝太は、修次郎に事の次第を説明してやろうと、かつて父から聞いた伝説をそのまま修次郎に話して聞かせた。
「その史上最強の武士が俺だって言うのか?」
 腕を組み、疑わしげに勝太を見下ろしていた修次郎が言った。
「そうです。名前だって同じだし、何しろ修次郎さんは史上最強の武士の墓が割れると同時に現れたんですから。」
 勝太は真っ二つに割れた巨石を指差して言った。
「墓? あの巨石が?」
 修次郎は怪訝そうに巨石を振り返る。
「はい。父ちゃんが言ってました。巨石の強さは史上最強の武士の強さだと。だから俺、史上最強の武士を超えるくらい強い武士になりたくて、毎日あの巨石を相手に鍛練してたんです。」
「鍛練ってまさかお前、その木刀で……。」
「はい、毎日朝夕千回ずつ叩いていました。」
 勝太の答えを聞いて、修次郎は頭を抱えてため息を吐いた。
「なんて罰当たりな。一体どこに木刀で墓石叩いて訓練する馬鹿がいる。」
「でも、父ちゃんも同じようにしてたから。」
「罰当たり親子め。」
 修次郎は真っ二つにされた墓石に歩み寄り、労わるようにそれを撫でた。
「あの、墓石を叩いてたこと、間違っていたなら謝ります。でも、俺、どうしても強くなりたいんです。父ちゃんの代わりに、千代や村のみんなを守れるようになりたいんです!」
 勝太は必死に訴え、再び修次郎の前に頭を下げた。
「父親の代わり?」
 修次郎は、「こりゃ腰掛けにちょうどいいな。」と呟いて真っ二つに割れた巨石の一方に腰を下ろし、聞き返した。
「父ちゃんは三年前に一揆に加勢すると言って家を出たきりなんです。父ちゃん、家を出るとき俺に言ったんです、強くなって千代や村のみんなを守れって。だから俺……。」
 勝太は三年間会っていない父の顔を思い出して声を小さくした。幼い記憶に浮かぶ父の顔は霞の中にあるようにぼんやりとしている。
「一揆……か。」
 修次郎は一言そう呟いたきり黙り込んだ。
「お願いです、修次郎さん。俺を弟子にしてください!」
 勝太は頭が地面にのめり込みそうなくらい強く強く額を地面に押し付けた。
「断る。」
 修次郎ははっきりそう言い切って立ち上がった。
「どうしてですか。俺、雑用でも何でもします。」
 勝太は顔を上げて修次郎を見たが、修次郎は勝太を一顧だにせずそのまま立ち去ろうとする。
「待ってください。」
 勝太は修次郎の左足に飛びついた。
「こら、放せ。どんなに喚いたって無駄だぞ。俺はそもそも史上最強の武士なんかじゃないし、弟子も取らない。雑用係も必要ない!」
 修次郎は勝太がしがみ付いているにもかかわらず、大きく一歩を踏み出した。
「でも、弟子がいれば何かの時に役に立つかもしれないじゃないですか。俺、飯も作れるし、畑の大根だって美味いし。」
 勝太は振り落とされまいと必死に修次郎の足にしがみ付いていた。
「大根なんかどうでも……。」
 そう言って修次郎がもう一歩を踏み出そうとした時、獣の唸るような音が響いた。野犬が現れたわけではない。腹の虫が鳴いたのだ。勝太のではない、修次郎のである。
「腹、減ってるんですね。」
 勝太は笑みを浮かべて修次郎を見上げた。修次郎は無言のまま前を見つめている。
「俺も朝飯まだなんです。一緒に食べましょう。」
 勝太は言うが早いか、さっと立ち上がって修次郎の腕を掴んだ。
「さ、行きましょう。」
「いや、俺は……。」
「腹減って倒れたらどうするんですか。まずは腹いっぱい食ってから。話はその後です。」
 勝太が修次郎の腕を引っ張り、修次郎も空腹には勝てないのか、渋々勝太について来る。
「飯を食うだけだからな。」
 修次郎は不満そうに念を押した。

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