ここち

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武士桜


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(2)

 修次郎が突然勝太の前に現れてから一週間。はちきれんばかりに膨らんだ桜のつぼみが気の短いものから次々と開き始める。
「八百九十三……八百九十四……八百九十五!」
 勝太はいつもの通り村唯一の桜の木の下で木刀を振っていた。父から譲り受けた木刀は折れて半分になってしまったが、勝太は折れた木刀に添え木をして繋ぎ合わせた。見た目は不恰好だが、父から譲り受けた木刀を――史上最強の武士の桜の枝から作られた木刀をそう簡単に捨てるわけにはいかない。
 史上最強の武士の墓も真っ二つに割れてしまったから、勝太はひたすら素振りに励んでいた。他に何をすればいいのか分からなかったのだ。
「朝っぱらから無駄な努力に励んでるねえ。」
 真っ二つに割れた巨石の上で横になり、鍛練に励む勝太に野次を飛ばしたのは修次郎だ。あの日突然勝太の前に現れて以来、修次郎は勝太の家に居座っている。何としても弟子にしてもらおうと勝太が出来る限りもてなして必死に引き止めたからでもあるのだが、いまや修次郎はただ飯の食べられるこの環境を気に入って、当分出て行く気はないらしい。
「俺のやってることが無駄だって言うなら、どうすればいいのか教えてください。」
 勝太は木刀を振るうのをやめ、巨石の上で横になっている修次郎を睨みつけた。
 修次郎は、ただ飯食って十分なもてなしを受けているにもかかわらず、勝太に対して剣術も武士になるための訓練の方法も何一つ教えはしないのだ。
「やなこった。お前みたいなガキに教えてやることなんかねえよ。」
 修次郎はくるりと寝返りを打つと勝太に背を向けた。
「毎日俺の家で飯食ってるくせに。」
「お前がどうしても村にいて欲しいって言うからいてやってやるんだ。嫌ならいつでも出て行くぜ。それに、飯代は仕事を手伝ってやってる。昨日だって、村の端から端まで往復して井戸水を汲んで来てやったじゃないか。」
 修次郎は勝太に背を向けたまま、地面の草を抜いて手持ち無沙汰に振り回した。全身からやる気のなさが溢れている。勝太はため息を吐きながらも、何とか修次郎を説得して弟子にしてもらえないか、剣術を教えてもらえないかという希望を捨てきれず、何も言い返すことが出来なかった。
「お兄ちゃーん。」
 聞き慣れた声に振り返ると、千代が何か包みを抱えて駆けて来る。勝太は疲れた表情を笑顔に変えて手を振った。
「おむすび作ったよ。今日は天気が好いから、外で食べた方がおいしいと思って。」
 千代は修次郎が横になっている隣のもう一つの割れた巨石の上に包みを広げる。
「お、美味そうだな。」
 退屈そうに寝転んでいた修次郎が生気を取り戻したように起き上がって、竹の皮の上に並んだ丸い小さな握り飯に顔を寄せた。
「修次郎さんのはこっち。一番大きいの。」
 千代は微笑んでもう一つ別の包みを修次郎に差し出し、受け取った修次郎は包みを開くと嬉しそうに顔をほころばせた。
「こりゃすげえ。」
 広げられた包みから、はみ出しそうなほど大きな握り飯が顔を出す。こんな大きな握り飯を小さな千代が一体どうやって作ったのか、勝太は驚くと同時に感心した。
「お母さんにも作ったんだよ。」
 千代は小さな握り飯を一つ手に取り、母の墓の前に供えに行った。千代は母の顔を覚えてはいないだろう。勝太とて、母の顔をはっきり覚えているとは言いがたかった。ただ、母が亡くなったあの時、母が笑顔だったことだけは強く記憶に残っている。
 あの日は桜が満開で、勝太は木によじ登ってその枝を一本手折り、母の病床に持って行ったのだ。母は勝太の持って来た桜を見て嬉しそうに笑い、それを胸元に抱えたまま逝った。
 ――ありがとう、勝太。
 最期の瞬間、確かにそう言われた。母の優しい声は未だに耳の奥に残っている。千代が供えた握り飯にも、母は同じようにお礼の言葉をくれるだろうか。
 母の墓の前で手を合わせる千代を見ながら、勝太はぼんやりと母を思い出していた。
「おお、うめぇ。千代はいい嫁さんになるなぁ。」
 逸早く巨大な握り飯に齧り付いた修次郎が声を上げた。千代も嬉しそうに顔を綻ばせ、修次郎の隣の巨石に広げられた握り飯と並んで小さく腰を下ろす。
 千代は修次郎に懐いている。そのこともまた勝太が修次郎を追い出せない理由の一つになっていた。この小さな山間の農村には老人ばかりが残され、千代の遊び相手になってくれるような子供がいないのだ。村人はみんな千代のことを可愛がってくれるが、農作業に忙しく、遊んでくれとは言えない。いつも暇そうにしている修次郎は、千代にとってちょうどいい遊び相手なのだ。それに、勝太自身、たとえ弟子にしてもらえなくても、剣術を教えてもらえなくても、修次郎に村にいて欲しいと思っていた。修次郎との生活が楽しかったからだ。
 それに何より、修次郎の存在は勝太にとって、また村人全員にとって頼もしかった。
「そうだ、お兄ちゃん。こないだ隣山で道に迷った行商の人が山賊に襲われたんだって。だから、夜の鍛練はやめた方がいいよってトヨおばさんが言ってた。」
 小さな握り飯を両手に持って千代が言った。小さな握り飯も千代の手には十分な大きさがある。
「そっか。うん、分かった。」
 勝太は素直に頷き、自分の握り飯を一つ取って地面に腰を下ろした。割れた巨石の一方は修次郎が占拠しているし、もう一方には千代と握り飯が載っている。勝太にちょうどいい腰掛けは見当たらなかった。
「山賊が怖くて鍛練はお休みか。そんなんじゃいつまで経っても史上最強の武士にはなれそうにねえな。」
 修次郎は巨大な握り飯を抱えたまま、再び巨石の上に横になっていた。
 山賊が怖いからと言って鍛練をやめるようでは史上最強の武士にはなれない。それは勝太にも分かっていたし、山賊を怖いと思っているわけでもなかった。ただ、小さい千代に余計な心配を掛けるわけにはいかなかったのだ。夕方の鍛練は日没前に終わらせ、その分、朝を早くするか、あるいは農作業をもっと効率よくやって時間を作る。いずれにしても、鍛練の量を減らすつもりはなかった。
「夜はやらないってだけで、鍛練はちゃんと続けるよ。」
「そりゃあご立派、ご立派。」
 修次郎は薄ら笑いを浮かべながら、巨大な握り飯の最後の一口を胃に収めた。勝太は修次郎にもう二三言言い返してやりたかったが、言い返すべき言葉も思いつかず、またわざわざ言い返すのも無駄な気がして、黙って自分の握り飯に齧り付いた。
「山賊って悪い人たちなんだよね。村に来たりしないかなあ。」
 まだ一口齧っただけの小さな握り飯を抱えながら、千代が心配そうに漏らした。
「来るかもしれねえなあ。山賊は怖いぞ。畑の大根も蕪も、着物も身包み剥がして全部持ってっちまう。」
 巨石の上で修次郎は悪そうな笑みを浮かべて千代を見やった。千代がびくりと身体を震わせ、勝太は千代を庇うように修次郎と千代の間に入った。
「馬鹿、千代を怖がらせるな。」
 勝太が振り返って修次郎を睨みつけると、修次郎はつまらなそうな表情を見せて無言のままに横を向く。
「大丈夫だ、千代。山賊が来ても全部俺がやっつけてやる。そのために鍛練してるんだから。」
 勝太はそう言って笑いながら、千代の頭を撫でた。
「うん。修次郎さんもいるから大丈夫だよね。」
 千代はそう言ってにっこりと笑った。勝太は千代の言葉に僅かな不愉快さを覚え、ゆっくりと振り向くと、満足そうな表情で巨石に横になったまま地面の草を弄んでいる修次郎を睨みつけた。

 翌朝、勝太はいつもより一刻ばかり早く起きた。夜明け前に起きるのはいつもと変わらないが、月の位置は昨日よりも高く、その金色の輝きも昨日より美しかった。
 千代には夜は鍛錬をしないと言ったばかりだが、昼間は農作業に忙しく、どうしても鍛練の時間は夜に食い込んでしまう。千代が目覚める頃には夜も明けているだろうから、特に心配を掛けることもないだろう。勝太は戸口の脇に立て掛けておいた木刀を手探りで取り、先の見えない闇の中にはい出した。
 金色の月を空に抱き、闇に包まれた世界は夜明け前の薄暗さとは異なる厳粛さを含んでいる。勝太は木刀を前に差し出し、先を探るように歩いた。
 無事いつもの鍛練場に着いて、勝太はいつもの通り素振りを始めた。素振りをするだけなら村外れまでやって来る必要はないのだが、村唯一の桜の木の下が勝太には一番落ち着く場所だった。母の墓があるこの場所にいると、母に見守られているような気がするのだ。それに、村の真ん中で大きな声を上げて素振りを繰り返していたら、眠っている村人を起こしてしまうことになるし、修行は人前で見せびらかしてやるものではない。父もそう言ってずっとこっそり鍛練を続けていたのだ。やはりこの場所が鍛練にはちょうどいい。
 東の空が白み始め、もうすぐ夜が明ける。
「九百九十八……九百九十九……一千!」
 鍛練は順調に進み、この分なら夜に出来なかった分も朝のうちにこなせそうだ。勝太は素振りの手を止め、一休みしようと割れた巨石に腰を下ろした。
「なんだ。もう疲れて休憩か。」
 突然、緊張感を欠いた声が掛かり、勝太は慌てて辺りを見回した。
「こっちだ、こっち。」
 真上から聞こえて来た声に勝太が見上げると、桜の木の枝に修次郎が座っていた。
「修次郎。お前、いつからそこに。」
 勝太が驚いて声を上げると、桜から刀の鞘が落ちて来て勝太の額を打った。勝太は反射的に額を押さえてしゃがみ込んだが、続いた修次郎の声に顔を上げる。
「勝手に呼び捨てるんじゃねえ。せめて修次郎さんと呼べ。最近お前、態度がでかいぞ。」
 修次郎はそう言うと、桜の枝から飛び降りた。十尺近い高さのある桜の枝から、着物を乱すことなく平然と。
 態度がでかいのは居候の修次郎の方だと言い返すことも、鞘に打たれた額を労わることも忘れ、勝太は修次郎の身のこなしに驚き、唖然として修次郎を見上げた。
「何ぼけっとしてんだよ。」
 修次郎は地面に座り込んでいる勝太を見て笑い、転がった鞘を拾い上げると抜身の小太刀を納めて腰に差した。一連の動きには無駄がなく、きちんと様になっている。
「修次郎さん。」
 勝太は呟くように声を掛けた。その呼び掛けはほとんど無意識に漏れたようなものだったが、修次郎が呼び掛けに応えて振り返る瞬間、勝太は頭を地面につけた。
「俺を弟子にしてください。お願いします!」
 こうして正面切って頼み込むのは久しぶりだった。最初に三日間粘ってまともな返事すら貰えなかった時から、勝太は半ば諦めていた。いや、修次郎が史上最強の武士であるということさえ忘れかけていたのだ。しかし、今、修次郎の軽い身のこなしを目の前にして、忘れかけていたことを思い出した。史上最強の武士に剣術を教えてもらいたい、自分も武士になりたいという思いが今まで以上に強く込み上げてくる。
「お前、まだ懲りてなかったのか。」
 修次郎の反応は驚くと言うよりも呆れていると言うに近い。それでも勝太は顔を上げずに言い続けた。
「俺を弟子にしてください。どうしても武士になりたいんです。強い武士に。」
 勝太の訴えにしばらくの間無言で佇んでいた修次郎は、ため息と共に口を開いた。
「どうしてもって言うなら教えてやる。」
「本当ですか!?」
 修次郎の台詞を聞くなり、勝太は勢いよく顔を上げた。喜びのあまり、自然と零れる笑みを抑え切れない。
「ただし。」
 修次郎は無表情に勝太を見下ろし、今にも飛び上がらんばかりの勝太をその威圧で押さえ込んだ。勝太はごくりと唾を飲んで修次郎の次の言葉を待つ。
「俺が教えるのは剣術じゃない。お前みたいなガキが物騒な世の中でも何とか生き残れる一番簡単な方法だ。」
 修次郎の言葉に、勝太は期待外れな気持ちが半分、胡散臭さを感じる気持ちが半分で首を傾げた。それでも、史上最強の武士がやっと何かを教えてくれると言うのだ。無視するわけにはいかない。
「いいか、心して聞けよ。」
 修次郎は勝太の関心が向いたのをきちんと確認した上で更に念を押し、勝太に視線を合わせてしゃがみ込んだ。勝太は真剣な表情で頷き、続く言葉を待つ。
「自分より強そうな敵を見つけたら……。」
 修次郎の言葉に、勝太は期待を高めながら聞いた。強い敵に出会った時の必勝法だろうか。それとも、相手の弱点を見極める秘術だろうか。
「とにかくすぐ逃げろ。」
 続いた修次郎の言葉を勝太は数秒の間、理解出来なかった。
「逃げろ? それは戦う準備をするために一度退けということですか。」
 勝太は数回瞬きをして聞き返した。修次郎が何を言うのか期待して、真剣に、目を見開いたまま修次郎の言葉を聞いていたから、乾いた目がぴりぴりと痛い。
「馬鹿を言うな。強い相手と戦う必要なんてないんだよ。とにかく逃げる。どこまでも逃げる。逃げるが勝ちって奴だ。」
 修次郎はそう言うが早いか、先ほどまでの真剣な表情はどこへ行ったのか、いつものように緊張感のない笑顔を勝太に向けた。そして満足そうに立ち上がり、勝太に背を向ける。
「ふ、ふざけないでください! 俺は真剣に武士になりたいって思ってるのに。」
 普段の修次郎を知りながら、修次郎の言葉に期待を掛け過ぎた自分を後悔する以上に腹が立ち、勝太は修次郎を怒鳴りつけた。
「ふざけてないさ。自分より強そうだと分かってる奴にわざわざ戦いを挑んで死んじまったら元も子もない。強い敵からは逃げる。これが正しいやり方だ。」
 修次郎は締まりのない笑顔を向けてそう言うと、再び勝太に背を向けて割れた巨石に横になった。
「飯はまだかなあ。」
 吐かれる台詞には威厳も何もありはしない。勝太は修次郎に対する失望以上に、得体の知れない悔しさを感じて拳を握り締めた。

 月は金色の輝きを白く変え、西の山に沈もうとしている。もうすぐ太陽が東の山から顔を出すに違いない。
 勝太が中断していた素振りを再開し、修次郎が巨石の上で草をむしり始めてから半刻ばかり、にわかに村の方が騒がしくなった。
「朝っぱらからうるせえな。」
 修次郎がのそりと身体を起こし、目の上に手をかざして村の方を見やる。勝太も素振りは止めずに顔だけ村の方へ向けた。
「勝太ーっ!」
 肩を上下に揺らしながら誰かがこちらへ駆けて来る。トヨおばさんだ。勝太は素振りをやめて、駆けて来るトヨおばさんに歩み寄った。
「勝太、無事だったんだね。」
 トヨおばさんは掠れた声で言い、勝太が近付くとトヨおばさんはその場に崩れ落ちた。勝太は慌てて握っていた木刀を離し、トヨおばさんの身体を支える。
「無事って……何かあったの?」
 勝太はいつになく騒がしい村の方を見やり、嫌な予感を押さえ込みながらトヨおばさんに尋ねた。トヨおばさんは息を切らし、震えながら勝太の腕を掴んだ。
「山賊が……山賊が村を……。」
 トヨおばさんの言葉は途切れ途切れだったが、勝太が要旨を解するには十分だった。嫌な予感が当たってしまった。千代の不安が現実になってしまった。千代……?
「トヨおばさん、千代はどこ!?」
 勝太ははっとしてトヨおばさんの両腕を掴んで揺さぶった。
「それが、家の中に姿が見えなくて、私はてっきり勝太と一緒なものと……。」
 勝太は顔から血の気が引くのを感じ、力が抜けて両手をぶらりと垂れ下げた。
「おいおい、そりゃやばいんじゃねえか。」
 修次郎はこの期に及んでも全く緊張感のない声で、頭を掻きながら歩み寄って来る。
「俺、千代を探してくる! トヨおばさんはどこか安全なところへ!」
 勝太が木刀を拾い上げ、村に向かって駆け出そうとしたその時、勝太は強く左腕を掴まれて、地面を滑った足は引き戻された。
「馬鹿言ってんじゃねえぞ、ガキ。お前なんかが行ったって妹と一緒に殺されるのが落ちだ。山賊は盗るもの盗ればすぐ帰る。山ん中に隠れて奴らが帰るのを待つんだ。」
 修次郎は勝太の腕を掴んだまま、落ち着いた口調で言った。
「馬鹿言ってんのはどっちだよ。千代に何かあったらどうすんだ。俺は、千代を守るって、村のみんなを守るって父ちゃんと約束したんだ!」
 勝太は修次郎を振り払おうとしたが、修次郎は手を放さず、より強く勝太の腕を引き寄せた。
「守るも何も自分が死んじまったら元も子もねえだろうが。自分の力量も知らずに突っ込んで行くようじゃ武士になる前にみんな死んじまうぞ。」
「放せ。俺は千代や村のみんなを守りたいんだ。みんなを守りたくて武士になるって決めたんだ。みんなを守れないなら武士になったって何の意味もないんだ!」
 勝太は掴まれていないもう一方の手で修次郎の腕を叩いたが、修次郎はびくともせずに勝太の腕を掴み続けている。
「やめろ、馬鹿。」
「俺は……俺はみんなを守るんだ!」
 そう言って、勝太は思い切り修次郎の腕に噛み付いた。さすがにこれは効いたのか、修次郎は短い悲鳴を上げて手を放す。その隙を突いて、勝太は木刀を片手に村へ走った。
「勝太!」
 トヨおばさんの声が聞こえたが、勝太は真っ直ぐ家に向かって駆けた。

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