武士桜
(3)
村へと駆けながら、勝太は千代の居場所を考えた。夜明け前に目覚めた千代が行きそうなところはどこか。鍛錬中の勝太のところでもなく、トヨおばさんのところでもないとしたら……。
最近は、鍛練に忙しい勝太に変わって千代が朝食の準備をするようになっていた。畑で食べ頃の野菜を見繕っているのだろうか。いや、畑にいればトヨおばさんがすぐに気が付くはずだ。
家の前まで来て、勝太ははっとして足を止めた。東の空は不気味な朝焼けに染まり、畑の向こうから数人の叫び声が響いて来る。山賊なのか村人なのか分からない複数の人影が家屋の間を横切るのも見えた。
勝太とトヨおばさんの家は村の一番西にあり、他の家々からは離れている。他の村人たちは東の山へ逃げたのか、ここまですれ違うことはなかった。山賊たちもまだこちらへはやって来ていない。
勝太は家の中を覗き、家の周りを一周したが、千代の姿はなかった。勝太は継ぎ接ぎの木刀を握り締めると、意を決して走り出した。畑を迂回している余裕はない。勝太は大根の間を通り抜け、村の東側へ一直線に駆けた。
村の東端、勝太の家から一番遠いところにこの村の共同井戸があった。
勝太が畑を通り抜けると、左右に並んだ家の扉は蹴破られたのか外れて内側に倒れ、採れ立ての泥だらけの野菜が道に散らばっていた。
「勝太。」
突然、背後から掛かった声に勝太は振り向いた。家の中から、頼りない足取りで現れたのは、勝太もよく知る村人の一人だった。年を重ねても元気に畑仕事をこなしていたはずの村人は、今は疲れ切った表情で覇気がない。
「そっちへ行くんじゃない。山賊どもが十数人……。」
言いながら、村人は玄関先に膝をついた。
「おじさん。」
勝太は慌てて村人に駆け寄って、その身体を支えた。よく見ると、村人の口端には血がにじんでいる。山賊に殴られたのかもしれない。
「大丈夫だ。この村には山賊が取っていくようなものなんてないからな。あいつらもすぐに行ってしまったよ。」
村人は勝太に身体を支えられながら笑顔を見せた。しかし、その顔にはまだ不安の色が残っていた。勝太も僅かに笑みを返したが、すぐに村人に問い掛けた。
「おじさん、千代を知らない?」
「千代ちゃん? いや……。」
「千代ちゃんならきっと井戸の方だよ。」
答え掛けた村人の言葉を遮って、家の中から声が聞こえた。勝太が家の中を覗き込むと、ところどころに傷を受けた家の中で、奥さんが不安そうな表情で土間に腰を落としていた。
「山賊どもがやって来る少し前に、千代ちゃんが大きな桶を持ってこの前を通ったんだよ。」
「そりゃ大変じゃないか。さっきの山賊どもが井戸の方へ行ったんだ。もし千代ちゃんが一人で出くわしてしまったら……。」
勝太は村人の言葉を最後まで聞かずに立ち上がり、井戸へ向かって駆け出した。最悪の予想が当たってしまった。勝太は心の中で千代の名前を繰り返し叫び、継ぎ接ぎの木刀を握る手には自然と力が込められた。
家の間を駆け抜け、ぱっと視界が開けると、聞き慣れた声が耳に届いた。
「嫌だ。放して!」
声の発生源に目を向けようと意識するよりも早く、見知らぬ男に腕を掴まれた千代の姿が視界に飛び込んで来た。周囲を確認する暇もなければ、相手の力量を量っている暇もなかった。相手がどんな者であるかさえ、勝太の意識の外にあり、気が付いた時には、勝太は千代の腕を掴んでいた男の腕に継ぎ接ぎの木刀で一撃を食らわしていた。
「痛ぇ!」
「お兄ちゃん。」
男が千代の腕を離して地面にうずくまり、男の手を逃れた千代が勝太の身体に飛び付いて来て、勝太はやっと状況を察した。
「ずいぶんと度胸のあるお兄ちゃんだな、え?」
薄ら笑いを浮かべながらそう言ったのは、勝太の一撃を受けた男ではなかった。地面にうずくまる男を蹴飛ばして、長身の男が抜身の刀を片手に近付いて来る。勝太は千代を背に隠しながら、ゆっくりと後ずさった。男の背後には更に屈強そうな男が数人控えている。相手の人数を見ても武器を見ても、とても継ぎ接ぎの木刀一本で戦えるような相手ではない。
「可愛い玩具だな。」
そう言って笑った男の視線は、勝太の木刀に向いていた。
「これは玩具なんかじゃ……。」
言い掛けて手元を見た瞬間、勝太は息を飲んだ。継ぎ接ぎの枝が折れ、木刀の先はかろうじて木の皮一枚で繋がり、ぶら下がっている。考えてもみれば、継ぎ接ぎになってからの木刀を素振り以外で使ったことはなかったし、継ぎ接ぎの木刀に打ち合うに耐える強度があるはずもない。先ほど男の腕を叩いた時に折れてしまっても、それは致し方のないことだった。
「どうする、このガキども。売り飛ばして金にするか? それともここで叩き切っちまうか?」
山賊たちの一人が手にした斧をぶんっと大きく一振りした。
「今日はろくな収穫がなかったからな。売り飛ばして金にした方がいいんじゃないか。」
別の男がそれに答える。
「面倒くせえな。ぎゃあぎゃあうるせえガキを二人も連れて歩くのか。」
また別の男が答え、男たちはじりじりと勝太たちに近付いて来る。勝太が更に後ろへ後ずさろうと左足を引くと、千代が短い悲鳴を上げて転んだ。小石につまずいたらしい。
「何、悩むことでもないさ。一人はここで叩き切って、もう一人は金に換えればいい。もちろん、叩き切るのは俺たちに刃向かった生意気な坊主の方だ。」
先頭の男は言い終えると、千代を振り返った勝太に向かって大きく刀を振り上げた。
「お兄ちゃん!」
千代の声に振り下ろされる剣先を視界に入れた勝太は、千代をしっかりと抱えて目を閉じた。
――ごめん、父ちゃん。俺、千代のことを守れない……。
キンという甲高い音が全身を打つように響き、痛みは感じなかった。あまりにもあっさりとした死の場面に勝太はいささか失望して目を開けた。
「お兄ちゃん……?」
不安そうな表情で見つめる千代の顔があった。まさか千代まで一緒に死んでしまったのだろうか。勝太が不思議に思って千代を見つめ返していると、声が耳に飛び込んで来た。
「何だ、てめえ。邪魔すんじゃねえぞ。」
勝太を切った男の声だ。結局、あの男も死んでしまったのだろうか。勝太が声の発生源を探して振り返ると、目の前に影があった。
「何だ。最近の山賊はガキの相手しか出来ねえのか。」
影――目の前に立った男の声は、勝太にも聞き覚えがあった。
「修次郎!」
勝太は思わず声を上げた。修次郎が勝太に振り下ろされた男の刃を防いでくれたのだ。勝太も千代も、まだちゃんと生きているのだ。
「ったく、面倒くせえ。飯代を帳消しにしてもお釣りが来るぞ。」
修次郎は刀を構えて正面を向いたまま勝太に言った。
「どうやら少しは腕が立つらしいな。」
修次郎の刀で弾かれて距離を取った男が刀を構え直して修次郎を見る。修次郎はじっと動かず黙ったままだった。背後の勝太に修次郎の表情は分からなかったが、殺気とも言うべき緊張した空気は感じ取ることが出来た。隣の千代が勝太の袖を強く握り締める。
「見たところ武士らしいが、こんな山奥にいるってことは地位も誇りもねえ流れ者だろう。どうだ? 俺たちの仲間に入らないか。腕さえ確かならいくらでも良い思いが出来るぜ。」
男の軽々しい口調が、勝太にはただでさえ不愉快な内容の台詞を尚更不愉快なものにした。同じ刀を手にしていても、あの男は武士ではない。これまで幾度も修次郎に対して感じて来た軽蔑感とは全く異なるより強い軽蔑感を勝太はこの男に対して覚えた。
修次郎が何と言い返すのか、勝太は不安だった。史上最強の武士らしからぬ信条を持った修次郎なら、あっさり山賊の側についてしまうかもしれない。
勝太が修次郎を見上げると、表情は分からないものの、修次郎はため息を吐くかのように僅かに肩を上下させた。
「確かに俺は誇りも地位もとっくに捨てた。けどなあ、俺はまだ人の心まで捨てちゃいねえんだよ。」
言い終わると同時に修次郎はしゃがみ込み、片手で地面の砂を掴むと男の顔に向かって投げつけた。男が目を押さえた瞬間、修次郎は男に飛び掛ってその刀を宙に舞わせ、男の首筋に手刀を当てた。男は低く短い悲鳴を上げて、地面に前のめりに倒れ込む。
「卑怯だぞ!」
後ろで控えていた男たちが、口々に叫んだ。
「山賊のお前らには言われたくねえな。殺さなかっただけありがたいと思えよ。」
明るい調子で言いながら、修次郎はゆったりと刀を構え直した。
「てめえ、調子に乗ってんじゃねえぞ。」
斧を持った男が前に進み出て、修次郎に向かって大きく斧を振り上げた。修次郎は最初の一撃をひらりとかわし、同時に手首を反して刀の切先を男の左腕に当てた。男は手にしていた斧を取り落とし、右手で左腕を押さえると地面にしゃがみ込んだ。
「手刀で倒れてくれるようには見えなかったんでね。さっさと手当てしてやるんだな。」
修次郎は刀に付いた血を袖口で拭いながら言った。
「で、お前ら、まだやるのか?」
銀色の輝きを取り戻した刀の先を山賊たちに向け、余裕を含んだ口調で修次郎は言った。山賊たちはお互いに顔を見合わせ、地面に突っ伏している男と腕を押さえてしゃがみ込んでいる斧男の様子を窺う。
「くそっ。撤退だ!」
誰かがそう言ったかと思うと、山賊たちは皆、修次郎に背を向けて山の方へ逃げ帰って行った。
「てめえ、覚えてろよ!」
斧男もよろよろと立ち上がり、慌てて仲間を追いかけて行く。
「最近の山賊はずいぶんと情けなくなったもんだな。」
修次郎はそう言って逃げ帰る山賊たちを見送り、刀を鞘に戻しながら勝太と千代を振り返った。
「大丈夫か?」
修次郎の問い掛けに答えず、勝太は、ぼんやりと修次郎を見上げた。初手の卑怯な目くらましは確かに修次郎らしかったが、その後の手刀や斧男の攻撃をかわした時の動きは、今朝桜の木から飛び降りた時以上に軽やかだった。
「助けてやったってのに、礼の一つもなしか。」
修次郎は、勝太の頭を手のひらで包み込み、ぐいと押した。
「ありがとう。」
先に口を開いたのは千代の方だった。修次郎は満足そうな笑みを浮かべて千代の頭を撫でる。
「で、お前は?」
修次郎は勝太を見詰めて答えを待った。
「あ、あり……。」
ありがとうと続けようと思いながらも言葉が出ず、勝太は修次郎を見上げたまま黙り込んだ。目の前にした恐怖のために口が利けなくなったというわけではなかった。ただ、素直にお礼を言うには混乱し過ぎていた。
「一体何時間待たせるつもりだ?」
修次郎は笑いながら勝太の額に軽く拳を押し当てた。
「あ、ありが……あ。」
やっと決意を持って言い掛けた時、勝太は修次郎の背後に影を見つけて短い悲鳴を上げた。
「あ?」
急に変化した勝太の表情に、修次郎は不審そうに振り向いたが遅かった。
最初に倒したはずの男が修次郎に向かって刀を振り下ろしたのだ。修次郎の手刀を食らって気を失っていた男は、他の山賊と一緒に逃げてはいなかったのである。修次郎は左肩に太刀を受け、男の刀から修次郎の赤い血が滴った。勝太はぎゅっと千代の身体を抱き寄せた。
「背後から不意打ちなんて卑怯だぞ。」
修次郎は絞り出すような声で言い、腕を押さえながら地面に片膝をついて男を見上げた。
「卑怯で何が悪い。俺は誇りも人の心も捨ててんだよ!」
男は刀を振り上げると、しゃがみ込んだままの修次郎に向かって躊躇いなくそれを振り下ろす。
なす術もなく、勝太はぎゅっと目を閉じて千代を抱き締め、その頭を自分の胸に埋めた。
暗闇の中で、勝太はどさりと何かが地面に倒れ込む音を聞いた。それだけでは、修次郎が倒れたのか、修次郎が男に反撃をして倒したのかは分からない。しかし、次に聞こえた声で、勝太は事態を察した。
「馬鹿な男だ。さっきは油断したが、卑怯は俺の得意技なんだよ。」
勝太は千代を抱き締めたまま恐る恐る目を開け、息を呑んだ。修次郎が倒れていた。羽織の左袖が切られ、赤い染みが周囲に滲んでいる。
「さて、邪魔者は消えた。けりをつけようか。」
男は刀から滴る赤い液体を舐め、勝太を見下ろした。勝太は千代を抱き締めたまま後ずさろうとするが、立ち上がれない。助けを求めようにも声が出ない。今度は混乱のせいではなかった。目の前の恐怖に、勝太はより強く千代を抱き締めた。
「二人仲良くあの世へ行くんだな。この役立たずの用心棒にも会えるだろうよ。」
男はそう言って地面に倒れている修次郎を横に蹴り飛ばし、勝太の目の前に立った。
「俺に逆らったことをあの世で後悔するんだな。」
そう言って男は刀を振り上げ、勝太は目を閉じることさえ忘れてただ呆然と男を見上げていた。
「後悔するのはお前の方だよ。」
突然、男は脈絡を無視した台詞を吐き、低く唸ってその場に崩れ落ちた。男の背後に、刀を手にした修次郎が立っていた。その表情は硬く、勝太は初めて修次郎に対して恐怖を覚えた。修次郎の刀から滴る赤い液体が地面にゆっくりと広がっていく。
「修次郎。」
勝太が声を掛けると、修次郎は笑顔を見せたが、すぐに苦痛に顔を歪めて地面に膝をついた。袖を破られた着物は脇腹部分にも切り込みと赤い染みが広がり、傷が深いことは明らかだった。
「修次郎!」
勝太は抱き締めていた千代を放し、慌てて修次郎に駆け寄った。
「修次郎、死ぬなよ。史上最強の武士が山賊なんかにやられるなんて情けないぞ。」
勝太は仰向けに倒れた修次郎の顔を覗き込みながら叫んだ。修次郎はゆっくりと呼吸し、途切れ途切れに口を開く。
「だから何度も言っただろう。俺は史上最強の武士なんかじゃねえんだよ。殿様どころか親からも必要とされてない出来の悪い次男。命が惜しくて戦いの場から逃げ出して、家にも戻れず当てもなく歩き回っていた流れ者だ。たまたまあの桜の木の上で寝てたらお前の木刀が俺の頭を直撃して、俺は枝から落っこちた。ただの馬鹿で情けない男なんだよ。」
そこまで言って、修次郎は左手の甲を額に当てると空を仰ぎ見た。
「修次郎さん。」
千代が倒れている修次郎にそっと近づき、地面に投げ出されていた修次郎の右手を取った。修次郎は千代に向かって微かな笑みを見せた後、勝太に言った。
「ちゃんと守ってやれよ、千代のこと。勝太の太は太郎の太だろう? 家を守る長男の証だ。俺みたいになるんじゃねえぞ。俺は少し疲れた。しばらくここで寝てるから。」
修次郎は再び真っ直ぐ空を見上げ、静かに目を閉じた。
「何言ってんだよ。俺、まだお前に何も教えてもらってないんだ。寝る前に俺に剣術を教えろよ。俺を武士にしてくれよ!」
勝太は地面についた拳に力を込め叫んだ。視界が歪み、声が震える。
「大丈夫だ。俺なんかが教えなくたって、お前はもう立派な武士だよ。俺と違って、お前はちゃんと武士の誇りを持ってるんだからな。」
修次郎は瞳を閉じたまま穏やかな声で言った。同時に、額に乗せられていた左手が静かに地面へ落ちる。七年前に母が亡くなった時と同じだった。眠るように静かに……。
「修次郎。」
呟く勝太の目の前を白いものが横切り、ふわりと修次郎の胸に着地した。白い花弁は僅かに紅色を帯び、切り込みの入った形は間違いなく桜の花弁だった。
村の周辺に桜の木はたった一本しかない。それもこことは正反対の村の外れだ。桜の花弁がここまで風に乗って飛んで来るなんてことは滅多にない。それでも桜は飛んで来た。たった一枚の花弁は修次郎の胸の上でそよ風に揺られながらその場に留まり続けた。
風が涙に濡れた勝太の頬を撫でたが、涙は乾くことなく流れ続けた。