Limit Over
〜チームの栄光は輝ける星の下で〜
(1)
――ワールドカップアジア予選最終試合。
両チーム無得点のまま均衡を保っていた試合は、ロスタイム終了間際に動きを見せた。
「ゴォールッ!」
ゴールネットが揺れ、スタジアムは一気に歓声に包まれる。観客席の青は波打ち、緑の芝生に散っていた青い点は、真っ直ぐなミドルシュートを決めた川中俊和を中心に一気に収縮した。川中はピッチで大きくガッツポーズを見せる。雪崩のように集まってきたチームメイトが次々に川中へ飛び掛かって声を掛けた。数多の声が重なり合って何を言っているのかほとんど内容は聞き取れない。それでも、夢のワールドカップ出場を賭けた貴重な一点の喜びを分かち合うには十分だった。
再びピッチへ選手が散り、試合再開のゴールキック。空高く蹴り上げられたボールが着地すると同時に、試合終了のホイッスルは鳴った。
この瞬間、日本はワールドカップドイツ大会への切符を手に入れた。
「さすがトシ。これがトシ。日本代表をドイツへと導く若きエースがロスタイム三分で日本に勝利の女神を引き寄せました!」
実況のアナウンサーは興奮した様子でまくし立て、その晩は日本中が湧いていた。
――九ヵ月後。
ワールドカップ日本代表メンバーが発表された。二十三人の代表選手についてマスコミはそれぞれに論じたものの、シーゴ監督の選択は大体にして順当で、ワールドカップ行きの決勝点を決めた川中俊和も当然に含まれていた。
川中のもとへは発表前から大勢のマスコミが詰め掛けていた。
「川中選手、代表に選ばれた感想は?」
「とても、嬉しいです。」
「今回、川中選手の代表入りは確実だと言われていましたが、自信はありましたか?」
それぞれマイクやレコーダーを手に、記者は次々と質問を浴びせる。
「百パーセント確実なものはないと思います。ワールドカップは子供の頃からの夢だったので、日本代表のメンバーとして本大会に出場したいとただ願っていました。」
川中は穏やかな口調で答えた。シーゴ監督の発表会見を、川中はクラブの宿舎の自室でチームメイトと共に小さなテレビを囲みながら見守っていた。自分の名前が呼ばれた瞬間、力が抜けた。チームメイトに肩を叩かれ、激励の言葉を掛けられてやっと、川中は拳を握り締め、目の前に輝く夢を見た。
しつこいほどの取材に笑顔で応じた後、川中は張り切ってご馳走を用意し、赤飯を炊いているであろう母のもとへ帰るはずった。今時、祝い事に赤飯という習慣も珍しいが、Jリーグのトップクラブとのプロ契約が決まった時も、Jリーグで初のゴールを決めた時も、母は赤飯を炊いて川中の帰りを待っていた。川中は特に赤飯を好物をしていたわけではないが、恒例になったその儀式は一種の縁起担ぎでもあり、母の心遣いは嬉しかった。
高校を卒業して、Jリーグに入って、それから日本代表に選ばれ、これまでの川中のサッカー人生は一転の曇りもないほどに順調だった。チームメイトはもちろん、サッカーファンから「トシ」の愛称で呼ばれ、Jリーグでも国際マッチでも十分な活躍とそれに見合う評価を得ている。
そして今回、幼い頃からの夢だったワールドカップ出場がついに叶う。もちろん、二十三人の代表枠に入ったからと言って、必ずしも試合に出場できるわけではない。代表メンバーに選ばれても一試合も出場することなく帰国する選手だっているのだ。しかし、川中は確信していた。予選での働きを考えれば、スタメンを外されることはまずないだろう。これは自惚れではない。確かな自信だった。
川中は実家の最寄り駅の改札を出た。都内でありながら中心部から離れたそのエリアは近年ベッドタウンとしての地位を獲得し、新しいマンションや住宅も増えつつあるが、所々に田舎の雰囲気を残している。川中の家はどちらかと言うと新興住宅ではなく古くからの田舎の一軒家に属していた。
最近新しくできたマンションに隣接する公園で、小学生くらいの少年が独りサッカーボールと戯れていた。小さい身体の割になかなかのテクニックの持ち主らしく、リズミカルにリフティングを続けている。川中はかつての自分を思い出し、ふっと笑みを零してその場を通り過ぎようとした。その時だった。
少年は少しばかりボールを高く蹴り上げすぎてしまったらしい。ボールは落下地点を少しばかり外れ、少年が慌てて伸ばした足先に触れて更に遠くへ弾んだ。少年はボールを追い掛け、ボールは公園の入り口を過ぎて道路へと転がってきた。振り向いた川中はボールを拾ってやろうと車道へ出たが、路肩に止まっていた運送会社のトラックの陰に別の車の影があるとこに気付いたのは、ボールを拾い上げようと腰を屈めた時だった。
川中は車のスピードが実は大したことがないということをその時初めて知った。一流選手のシュートの方がよっぽど速いスピードで向かってくる。十分に反応できる速さだった。川中の目は車の動きをしっかりと捉えていた。それなのに……身体が動かなかった。
気が付いた時、辺りは真っ白だった。地面と空の境目も知れず、音のない空間で、身体は不思議なほどに軽い。川中はゆっくりと辺りを見回した。
「よく来ましたね。」
ふっと背後から声が掛かり、川中は振り向いた。先ほどまでは気配さえ感じることなく、一切人影の見当たらなかったその場所に、一人の老人が立っていた。長い白髪とやはり長く白い髭、柔和な笑みを浮かべた老人は白装束を纏っている。
「あんた……誰だ? ここ、どこだよ?」
川中は眉を顰めながら尋ねた。自分がどうしてこんな真っ白な空間にいるのか分からない。ワールドカップの日本代表メンバーに選ばれて、取材を受けて、それから……。ゆっくりと記憶を辿るが、老人は川中の回想を遮るように答えを出した。
「私は神。ここは天国の入り口です。」
老人は微笑みを崩さなかった。
「は? あんた、何ふざけたこと言ってんだ。神に天国って……。」
「あなたは亡くなったのです。不幸にも交通事故で命を落としました。しかし、私はあなたの生前の行いを評価しています。これからあなたは天国へ行くのです。地獄ではなく、楽園へ招かれたのです。」
川上の耳に届いたのは、神を自称する老人の言葉の前半のみだった。「交通事故」の言葉で川上の回想は素早く早送りされ、記憶の途切れる直前でゆっくりゆっくり再生される。
――車が真っ直ぐ自分へ向かってくるその瞬間。
川中は頭を抱えてしゃがみ込んだ。
「怯えることはありません。天国にはあなたを悩ます苦しみは何一つありません。俗世の穢れから解き放たれ、心穏やかに過ごすことができるでしょう。」
川中は老人の微笑みを見上げた。真っ白な空間で、川中は柔らかな光に包まれているような感覚を覚える。気持ちは次第に落ち着いてきた。
「さあ、いきましょう。」
老人が右手を差し出し、川中はほとんど無意識に手を伸ばし掛け、慌てて引っ込めた。
「どうしました?」
老人が怪訝そうに首を傾げる。
「俺は……まだ死ねない。」
呟くように声を漏らしながら、川中はゆっくりと立ち上がった。
「あなたは死んだのです。」
「嫌だ!」
川中は老人を睨み付けて叫ぶ。
「やっと、やっと夢が叶うところだったんだ。ワールドカップに出るのがずっと夢で、目標だったんだ。せっかくメンバーに選ばれたのに、交通事故なんかで死ねるかよ! 俺は天国なんか行かない。ドイツへ行くんだ!」
川中は何かを振り払うような大きなジェスチャーを交え、老人に向かって一気にまくし立てた。
「困りましたね。」
老人はため息を吐くかのように短く息を吐いて呟く。川中はじっと老人を睨み付けるように観察した後、ゆっくりと口を開いた。
「あんた、本当に神様なのか?」
「ええ、そうですよ。」
老人は事も無げに答える。
「だったら……あんたが本当に神様だってんなら、何だってできるはずだよな? 俺を生き返らせることも。」
川中の言葉に老人がふっと笑みを零した。それまでの柔和な微笑みとは異なる、子供っぽい笑みだ。
「できないことではありませんが……あなたの寿命は尽きたのです。運命をねじ曲げることはルールに反します。」
「頼む!」
老人が言い終わるか否かのうちに、川中は地面に両手をついていた。
「ずっと夢だったんだ。ワールドカップに出場するのが。ワールドカップまででいい。夢が叶うなら、その後死んでもどうなっても構わない! 地獄行きだっていい! 頼む、俺を生き返らせてくれ!」
川中は頭を地につけて叫んだ。こんな風にして誰かに何かを頼むのはこれが初めてだ。大概のことは、誰に頼むでもなく自分で道を切り開いてきた。それが川中のポリシーだったからだ。
「アジア予選での決勝ゴールはとても見事でしたね。私はずっとあなたのプレイを見ていたのですよ。さあ、顔を上げなさい。」
老人の声が少しばかり近付いたけれど、川中は額を上げなかった。
「お願いします! ワールドカップに出たいんです!」
「ワールドカップまで……そういう条件でいいんですね?」
すぐ側で聞こえた声に、川中ははっとして顔を上げた。
「ワールドカップまで、あなたの命、私が保証しましょう。」
間近に迫った顔は、深い皺を刻んで微笑んだ。
「あ、ありがとう……ございます!」
笑顔でそう返すと同時に、世界は暗転した。
――そして一ヵ月後。ワールドカップドイツ大会予選リーグ・グループF第一試合。
「ワールドカップドイツ大会、日本の初戦の相手はオーストラリア。日本ボールでのキックオフとなるようです。ピッチ中央に立つのは代表メンバー発表直後の交通事故から奇跡の復活を果たした日本代表の若きエース、川中俊和です!」
スタジアムは満員御礼。センターラインにボールを置き、川中はゆっくり深呼吸した。
ついに夢の舞台へやって来た。一ヶ月前の事故で頭を打ち、代表入り決定の喜びをのんびり味わうこともできぬまま丸一日眠るはめになったが、出血の割に大した怪我ではなく、手足の怪我も打撲程度で三日の入院で退院できた。それをマスコミは奇跡と騒ぎ立て、「幸運を呼ぶ男」と言う新たなあだ名まで付けられた。特別嬉しいあだ名ではないものの、どうせならその幸運、この初戦で勝利を得ることに使いたい。
試合開始のホイッスルが鳴った。川中は振り向いて見方が全員ポジションについていることを確認し、隣の高沢としっかり頷き合って、ボールを軽く前へと蹴り出す……はずだった。
川中の足がボールに触れたその瞬間、全ての感覚が断絶した。
意識が戻った時、川中は見覚えのある真っ白い空間に立っていた。一瞬にして、嫌な感覚が甦る。
「約束の時間です。」
また背後から声がした。振り返ると、交通事故に遭ったあの時、夢現の中で出会ったのと同じ老人が柔和な微笑を浮かべて立っている。
「約束の時間だって? 俺はまだ何もしてない。ワールドカップまでの命は保証するんじゃなかったのかよ!?」
川中は老人に向かって叫んだ。
「ええ、だからワールドカップまでの命は保証しました。あなたは望み通り、ワールドカップに出場できたではありませんか。まあ、零コンマ一秒といったところですが。」
「ふざけんな! そんな詐欺みたいな話があるか! ワールドカップまでっつったら普通はワールドカップが終わるまでだろうが!」
「そうですか? でも、あなたは出場できれば良いとおっしゃったのですよ?」
「元に戻せ! 試合が終わるまで、いや、今大会が全部終わるまで俺を生き返らせろ!」
「それは致しかねます。そう何度もルールを破っていては神として面目が立ちません。」
「そういう問題じゃないだろう! この詐欺師! 騙しやがって、この悪魔! それが神様のすることか!」
川中は老人を思いつくままに罵倒した。
「神は運命と同じ、無情なものなのですよ。」
「俺は天国なんか行かない! お前みたいな悪魔の言うことなんか絶対に聞くもんか!」
思いつくことを一通り叫び終え、川中はどしりと腰を下ろしてその場にあぐらを掻いた。
「困りましたね。」
老人は相変わらず穏やかな口調で漏らす。
「あなたのように頑固な人をこのまま天国へ連れて行くと、天国の秩序が乱れそうです。」
「だったら俺を生き返らせろ!」
「それはできません。」
「一度できたことがなんでもう一度できないんだよ!? 一度あることは二度あるだろ!」
「それを言うなら二度あることは三度あるです。奇跡というのはそう何度も起こるものではありませんよ。」
「俺は……死なない。」
川中は口を一文字に結んだままじっと老人を睨んだ。
「あなたはもう死んでいるのです。」
「ああ、そうかよっ! でも俺は天国なんか行かないからな。お前なんかのとこにだけは絶対行かない。ワールドカップに出られないなら天国だろうが地獄だろうが同じだ。」
「私も、できることならあなたのような問題児を引き取りたくはないのですが、一度引き取ってしまった以上、今更悪魔へ突き返すわけにもいかないのですよ。仕方ありませんね。しばらくここで少し頭を冷やしなさい。」
老人は大きく肩を落としてため息を吐いた。
「ここで?」
「ええ。ここは狭間の空間。この世でもあの世でもない場所です。あなたの気持ちが落ち着いたら、また迎えに来ることとしましょう。」
そう言って老人はにこりと微笑み、すうっと溶けるように消えた。
「ちょっと待て! ここで待てって一人置いていくのか!? 俺はこれからどうしたらいいんだよ?」
真っ白な空間に一人残され、川中はすがるように声を上げた。返事はない。誰もいない。辺りは真っ白で……川中は再び意識が遠のくのを感じた。