Limit Over
〜チームの栄光は輝ける星の下で〜
(2)
試合開始直後、スタジアムは騒然となった。キックオフと同時に、その最初のキッカーが倒れたのだ。
「トシ!? どうした?」
ボールを蹴り出し、そのまま後方へパタリと倒れた川中に、高沢は慌てて駆け寄った。うっかりバランスを崩したと言うような倒れ方ではなかった。受け身すら取ることなく川中は昏倒した。
キックオフされ、センターサークルの外で転がっていたボールをオーストラリアの選手がピッチの外へ蹴り出した。ボールがピッチの中にある限り、試合は続行中になる。すぐに審判の笛も鳴った。
「トシ!」
高沢は倒れた川中の頬を叩いた。反応がない。目は見開かれたまま宙を見ている。高沢はベンチに向かって両手を振った。腕を交差させてバツ印を作る。担架が必要だ。いや、救急車が、医者が要る。
主審はもちろん、他のチームメイトもオーストラリアの選手も不安な様子で駆け寄ってくる。
「トシ!」
高沢が何度呼びかけても、反応はなかった。
「どうしたんだ?」
走り寄って来て一番に声を掛けたのはキャプテンの本宮だった。
「分からない。」
高沢は首を振った。本宮は川中の脇にしゃがみ込み、その首筋に手を当てた。
「本宮……?」
「……脈がない。」
本宮が震える声で呟く。
「何があった?」
担架を抱え、救護班が駆けつけて来る。本宮は場所を空けるように立ち上がって身体を引いた。
「脈も呼吸もありません! 心肺停止状態です!」
群衆の中で誰かが叫んだ。
「そんな馬鹿な。救急車は?」
「すぐに!」
ピッチ中央で心臓マッサージと人工呼吸が試みられる。明らかな異常事態にスタジアムは揺れていた。間もなく、救急隊員が駆けつけ、川中はストレッチャーに乗せられて運ばれる。騒がしい観客席とは対照的に、恐ろしいほどの沈黙があった。
「一体、どうなってるんだ……?」
ゴールキーパーの奈良井までもがピッチ中央に集まって運ばれて行く川中を見送る。スタジアムの電光掲示板は滞りなく時を刻み続けていた。
停止したピッチ内の動きとは対照的に、ピッチサイドのベンチでは慌しく人が動き回っている。監督が、コーチが、スタッフが、控えの選手が、それぞれ喚くように声を張り上げた。声が飛び交う割りに事態の進展はなく、ただ予想外の事態に混乱している。
今大会がワールドカップ初出場となる日本代表の最年少・玉木隆志は、ピッチサイドをおろおろと行ったり来たりしていた。スタメンに入れず、ベンチで試合開始を迎えた玉木には、ピッチ中央で川中に一体何が起こったのかさっぱり分からなかった。周囲に尋ねても返ってくる答えは皆「分からない。」で、それはたとえピッチ中央で川中と並んでいた高沢に聞いても同じだったに違いない。
川中を載せたストレッチャーがピッチを出、玉木は堪りかねて駆け寄った。
「トシ!」
五つも年上の先輩を玉木はあだ名で呼び捨てる。それは川中と玉木の間での取り決めに従った慣行だった。
初めて日本代表の練習に呼ばれた日、一番最初に玉木に声を掛けて来たのが川中だった。
「よう、ちびっ子! どこから入り込んだんだ?」
突然、背後から肩に腕を回して来た川中は明るい調子で言った。玉木は日本代表としては新入りだが、それまでもJリーグではシーゴ監督の目に留まる程度の実績は残している。所属クラブこそ違えど、同じくJリーグの選手である川中と試合で戦ったことだってあるから、川中が本気で玉木を練習場に侵入した一般人だと思い込んだはずはない。それが川中の冗談であることは玉木にも理解できたものの、その冗談に素早く笑いを返せるほど玉木は器用ではなった。
「い、いえ、僕は……。」
玉木は背後からの奇襲に声を上ずらせながら答える。その日が日本代表初召集であるというプレッシャー以上に玉木の緊張を増幅させていたのは、声を掛けて来たのが他ならぬ川中俊和だったことである。玉木は誰よりこの日本のエースを尊敬していた。玉木がまだユースのチームにいた頃から、川中は玉木にとってヒーローだったのだ。同じフォワードのポジションで点取り屋。果敢に敵陣へ攻め入り、決してチャンスを逃すことなくゴールを決める川中のプレイに魅了されて、自分のサッカーの目標としてきた。まだまだ自分は川中には遠く及ばないとは思うものの、持ち前の俊足を生かしたとにかく動くプレイスタイルはシーゴ監督にも認められるほどになった。そのプレイスタイルの確立に、川中があるインタビューで漏らした「サッカーは走って走って動き回るスポーツ」という言葉が影響していることは、玉木しか知らない。
「ちっちゃいなあ。ちゃんと飯食ってるか?」
川中が玉木の頭を撫でながら笑った。玉木は決して小柄ではないのだが、百八十を越える長身の川中に比べたら、平均的な玉木の身長は確かに小さく見えるのだろう。だからと言って、今更成長を願っても仕方ない。
「早々に新人いびりか。完全無欠のエースは大変だな。」
川中の頭の後ろから聞こえて来た声は、日本代表の司令塔ミッドフィルダーを務める西藤達樹だった。
「おいおい、人聞きの悪いことを言うなよ。新人いびりはそっちの専売特許だろう? 俺は緊張している新人をリラックスさせようと頑張ってるんだぜ?」
振り返った川中はふっと笑みを零して返す。明らかに投げ返された毒に、西藤は元々不機嫌そうだった顔を更に不機嫌そうに顰めて顔を背けた。西藤と川中の不仲は以前から週刊誌で報じられており、玉木も噂としては何度か耳にしたことがあったが、こうも露骨に見せられるとは思っていなかった。川中に対して明るく人当たりの良いイメージを抱いていた玉木にとっては些かの失望だった。それ以上に、西藤の冷めた視線が怖い。
川中は立ち去った西藤へ背を向けると、玉木の肩を叩いたり、腕を持ち上げたりと玉木の身体を観察し始めた。
「あ、あの、川中さん……西藤さん、とても怒って……。」
玉木は、突然始まった川中の奇行を止めたいこともあって、恐る恐る川中に向かって口を開いた。
「ああ、いいんだよ、あいつは。いつもあんな感じなんだ。陰気臭い奴なんだよ。」
川中はけらけらっと笑って言った。その背後で、川中の言葉が耳に入ったのだろう。西藤がじろりとこちらを睨む。玉木は生きた心地がしなかった。
「それより、その川中さんってのなしだ。」
「え?」
「チームメイトにさん付けなんて面倒だろ? そもそも、試合の時に『川中さーん』とか呼ばれたら気が抜ける。『さん』をつける分の時間も無駄だ!」
川中は人差し指を玉木の目の前に突きつけて言った。
「はあ……。」
「トシでいいよ。」
川中が笑った。テレビで何度も見たヒーローの笑顔だ。
「は、はい……! えっと、じゃあトシさん?」
「ばぁか。さんを付けるなって言ったんだろうが。呼び捨てでいいんだよ。」
「はあ。」
「そうだな、呼び捨てを許す代わりにお前のあだ名を俺が決めてやろう! 短くて呼びやすい奴がいいよなあ……。」
川中はしばらく腕を組んで考え込み、ぱっと顔を上げると手を叩いた。
「玉ちゃんだ!」
「え?」
「玉木だから玉ちゃん。可愛いだろ?」
川中はにこりと笑う。
「あ、あの、でも、玉ちゃんって元より長くなってるような……。」
「いいんだよ、可愛いから。おーい、みんなー。今日から玉木は玉ちゃんだぞー。」
川中が続々とグラウンドへ出てきたチームメイトに向かって叫んだ。それを聞いた選手たちはそれぞれくすりと笑みを零す。
「相変わらずセンスが悪いな。」
ぼそりと囁いたのは西藤だ。いつの間にか側へ来ていたらしい。
「じゃあ、お前ならどうするんだよ?」
川中が振り返って尋ねる。
「タカシで良いだろう、名前で。」
「お前の方がセンスねえよ! 何の捻りもねえじゃねえか!」
「お前だって大して捻ってねえだろうが。」
「何を言うか! タマちゃんは多摩川のアイドルとお揃いなんだぞ! 可愛いんだぞ!」
「はあ? どこのアイドルだ。」
「知らないのか! タマちゃんは西タマオとして横浜市民にもなってるんだぞ!」
「あ、それ、アザラシの……。」
玉木は今となってはだいぶ昔の話題となった東京湾に注ぐ河川に迷い込んだ一匹のアザラシを思い出した。
「可愛いだろ?」
川中はにこりと玉木に微笑み、西藤は眉間に皺を寄せる。
「あほらしい。」
西藤はふいっと顔を背けてまた離れて行ってしまったけれど、その背中を見て、玉木はふっと笑みを零した。テレビで目にした勝ちに拘る西藤の強い姿勢は、人当たりの良い川中とは対照的で、言っていることがたとえ正しくても、あまり気の合うタイプではなさそうだと感じていたが、川中とのやりとりを見ていると、最初の怖そうなイメージはだいぶ和らいだ。川中との不仲の噂も、喧嘩するほど仲が良いという部類で解釈すべきなのだろう。
「玉ちゃんでいいよな?」
改めて、川中が玉木に問うた。有無を言わせぬ笑顔に、玉木はこくりと頷いて答える。
「あ、でも、ピッチではタカシな。呼びにくいし、西藤の機嫌が悪くなるからさ。」
川中は笑いながら付け足し、最後の一言はこっそり耳元で囁いた。
ピッチの外では玉ちゃん。川中はその決定を頑なに守って――玉木に対しても「トシ」と呼ぶよう頑固の主張して――試合後のインタビューでさえ、玉木の名前を出す時は「玉ちゃん」と呼んだ。おかげで玉木の愛称は広く「玉ちゃん」で定着し、西藤だけは決してその名で呼ばないものの、最近は新聞まで「玉ちゃん」と書くことがある。
「トシ!」
玉木はストレッチャーの上の川中に呼び掛けた。しかし川中はいつものように「玉ちゃん」とは返してこない。見開かれた目は虚ろで、身体はぴくりとも動かない。
救急隊員がドイツ語で何かを叫んだ。「どけ」という意味なのだろう。玉木は押し退けられ、川中を載せたストレッチャーは控え室へと続く通路を降りて行く。
玉木は立ち尽くしていた。空を見つめる川中の目が怖かった。生気のない顔。過去に一度だけ、玉木は同じ顔を見たことがあった。十年前、突如心臓発作に倒れた祖父が同じ顔をしていた。サッカー選手になりたいという玉木の夢を最も応援してくれていたのが祖父だった。公園での練習にも付き合ってくれて、その帰り……祖父は倒れた。
――あれは……死だ。
突如蘇った記憶に背筋が凍った。全身が動かなくなった。悪魔の気配が立ち込める。
「玉木!」
背後から届いた声に、玉木は我に返った。目の前には緑の芝生。慌てて振り返ると、シーゴ監督が早口に何かを言った。
「玉木、交代だ。」
シーゴ監督の言葉を通訳が訳す。普通なら、試合に出られる――ワールドカップで試合に出られるということは喜ぶべきことだ。すぐに頷いてユニフォーム姿になるべきだった。ただ、その時玉木の顔に浮かんだのは、戸惑いと不安だった。あるいはもっと得体の知れない何かだったかもしれない。
「タマキ?」
その不安な表情を読んだのだろう。シーゴ監督が怪訝そうに玉木の顔を覗き込む。夢の舞台から逃げ出すわけには行かない。チャンスは掴まなければ。
「すぐに、準備します。」
玉木はゼッケンを脱ぎ、ベンチへ戻った。脱いだゼッケンをチームメイトに手渡し、スパイクの紐を結び直す。
ピッチ中央に集まっていた選手たちが動き始めた。主審の笛が鳴る。
キックオフは問題なく済んでおり、ボールを蹴り出したのはオーストラリアの選手だったから、試合再開は日本のスローインからだ。電光掲示板の時計はだいぶ進んでいる。前半のロスタイムはかなり長くなるだろう。
チームメイトに背中を押され、玉木はベンチを離れた。主審の許可を得て、ピッチへ入る。落ち着かない。スタジアム全体が妙な空気で包まれていた。
「動揺するな! ゲームに集中するんだ!」
ピッチの外から飛んだ声が、不思議なほどに遠く聞こえた。