Limit Over
〜チームの栄光は輝ける星の下で〜
(3)
気がついたとき、川中はピッチの中央に立っていた。
「生き返った……のか?」
辺りを見回しながら、川中は呟く。既に試合は始まっていた。黄色と緑のユニフォームが白いボールを空高く蹴り上げた。味方のディフェンスラインが下がる。
「ボーっとしてる場合じゃない。」
川中は走り出した。敵のパスは綺麗に中盤へと繋がり、ボールを受け取った選手は左サイドを上がってくる。川中も左サイドへ走り、相手の足からボールが離れた一瞬の隙をついてスライディングをした。狙いは完璧だった。川中の右足はボールの芯を捕らえて、詰めてきた味方へと繋がる……はずだった。
川中が射止めたはずのボールは決して進路を変えることなく、再び相手選手の足へ近付き、ゴール前へ綺麗な弧を描いて飛んだ。しかし、それ以上に川中を驚かせたのは、スライディングした川中の腹を相手選手が躊躇いなく踏みつけたことだ。いや、実際には踏みつけなかった。踏みつけられるはずがなかった。相手選手の右足は、川中の身体を貫通して力強く緑の芝を蹴っていた。
「ど、どうなってるんだ!?」
思わず悲鳴を上げそうになった後、川中は自分の身体の異変に気が付いた。半透明なのだ。広げた手の向こうに緑の芝が透けて見える。川中は真っ白な空間での老人との会話を思い出した。ここで頭を冷やせと言った老人の姿はなく、「ここ」と呼ばれた真っ白い空間はどこにもない。ただ「ここ」をあの世でもこの世でもない場所と呼んだ老人の言葉は、今、川中のいる場所についても確かに当てはまるのかもしれない。幽霊状態の川中の言葉は「この世」の選手たちには全く届かず、川中は選手たちに触れることさえできないのだから。見えるのに、聞こえるのに、それはまるで別の空間だ。
あの交通事故の後に意識を取り戻した時、川中は全ては夢だったのだと思った。まさか本当に条件付きで生き返ることを許されたのだとは思っていなかった。今だって、これは夢なのかもしれないと思う。白い空間も、半透明の身体も、今現在進行中のオーストラリア戦も、全て夢なのだと思いたい。そして、夢なら早く覚めてほしい。
しかし、時は流れる。頬を抓ってみても――半透明の身体も自分自身なら触れられるらしい――痛みを感じない。声を張り上げても、誰にも届かない。
現実だと認識するしかない。いや、たとえ現実ではないとしても、目の前で進行している試合が気になって仕方なかった。
幽霊状態の川中に代わって、ピッチには玉木の姿があった。しかし、いつものような活発な動きがない。電光掲示板の表示は未だ〇対〇だけれど、明らかにオーストラリアが攻め込んでいる。先ほど上がったクロスはディフェンダー陣がクリアーしたようだが、再びボールはオーストラリアへ渡り、強烈なミドルシュートが放たれる。ゴールキーパーの奈良井が飛んで何とか抑えたものの、流れは完全にオーストラリアにあると言って良い。
「何してるんだ! 早く戻れ! 攻め返せ!」
声が届かないことを知りながら、川中は叫んだ。奈良井のゴールキックでボールは再び中盤へ戻るが、そこから先へ進まない。西藤から玉木へパスが出されるが、繋がらない。西藤のタイミングに玉木が追いついていないのだ。いつもの玉木ならできたスペースに確実に滑り込んでいる。上手くパスが繋がれば、決定的なチャンスになっていただろう。
ボールを奪って飛び出したオーストラリアの選手に対して稲原がフォローに入るが、玉木の戻りが遅い。オーストラリアのディフェンスラインが上がる。オフサイドポジションでパスを待っても意味がない。
「玉木!」
川中は声を張り上げた。玉木の視線は下を向きがちだ。明らかに様子がおかしい。夢の初舞台に緊張しているのだろうか。いや、それにしたって……。玉木の動きの鈍さは、チーム全体に影響している。こちらが攻め切れない分、相手から攻められる。ディフェンダー陣の負担が大きくなっているのは間違いないだろう。まだ日没前。この暑さだと体力の消耗も気になる。攻められているという意識は精神的な消耗も激しくさせるに違いない。
川中は電光掲示板のデジタル時計を見上げた。ロスタイムに入ってから既にだいぶ経過している。川中が目覚めた時点で既にロスタイムに入っていたのかもしれない。前半の残り時間は一体あと何分なのだろう。
ロスタイムに入って、一人のスタッフが日本ベンチに駆け込んできた。
「今、病院から連絡がっ……!」
ベンチの顔が一斉に声の発生源へと向けられる。
「トシは大丈夫なのか?」
シーゴ監督の言葉を通訳が訳した。
「そ、それが……。」
スタッフはおろおろした様子で辺りの様子を窺った後、シーゴ監督の言葉を訳して詰め寄る通訳にそっと耳打ちした。
「病院で、川中の死亡が確認されたそうです。」
スタッフの言葉に、通訳ははっと息を飲んで振り向いた。シーゴ監督が怪訝そうに首を傾げ、話の内容を伝えるよう求める。シーゴ監督の母語であるポルトガル語を聞き取れる人間はシーゴ監督とその通訳以外に周囲にはいなかったはずだが、通訳はシーゴ監督の耳元で今スタッフから聞いた内容を小声で耳打ちした。すぐにシーゴ監督の表情が変わる。信じられないという表情でシーゴ監督が聞き返し、通訳はスタッフを振り返った後、頷いた。
「選手に……伝えますか?」
スタッフが通訳を介してシーゴ監督に尋ねる。シーゴ監督は考えるように俯き、腕を組んだ。
「川中は、どうなんです?」
フィジカルコーチの武里が不安そうな表情で話の輪に入って来る。
「それが……。」
第一報を伝えてきたスタッフがまたも小声で耳打ちして伝える。ベンチの控え選手も心配な様子で集まってきて、訃報を聞いた武里は反射的に手を広げて選手をベンチに戻していた。選手たちは不思議そうにしながらも大人しくベンチへ戻る。
「彼らが……選手が動揺すると思いますか?」
シーゴ監督の言葉を訳して通訳が武里に伝える。
「……どちらにしろ、動揺していると思います。特に、玉木は……。」
武里は一度ピッチに目をやった後、躊躇いがちに答えた。突然倒れた川中と交代で出した玉木は本来の力の半分も出せていない。玉木のフォローに回る他の選手にまで影響が出ている。本来なら、明らかに不調の玉木はすぐにでも他の選手と替えるべきなのだが、そもそもの玉木が交代で出した選手だ。一試合での選手交代は三回まで。最初の川中の交代も予想外だったから、更にここで貴重なカードを使うのは戦略上、大きな痛手となる。
猛暑の中で体力勝負となりそうなこの試合では、体力のある若い玉木は調子さえ戻れば戦力として大いに活躍が期待できる。だからこそ、シーゴ監督もこれまで玉木を替えずに様子を見守っていたのだろう。
玉木のサッカーセンスは武里も大いに買っていたし、技術だけなら川中以上だと感じることさえあった。ただ唯一にして最大の欠点がメンタル面の弱さだ。日本代表に招集されてしばらくは練習でも動きの硬さが取れなかったし、今も川中が倒れたことで完全に動揺している。玉木が川中を特に慕っていたことは武里も知っているし、これまで玉木をメンタル面で支えてきたのは川中だった。玉木が動揺するのも無理はない。
しかし、今の状態の責任を全て玉木に向けるのは酷な話だろう。玉木の不調がチーム全体に影響を及ぼしているとは言え、他の選手にも動揺があるのは否めない。中盤のパスも日頃に比べて正確性を欠いている。カードこそ出てはいないが、西藤のプレイも荒い。これが川中が倒れたことによるのか、玉木との連携が上手くいかない苛立ちによるのかは定かでないが、動揺があるのは確かだった。
川中の状況が分からない今と分かってしまった後とで、選手の動揺はどのように変わるだろう。シーゴ監督もそこを悩んでいるに違いない。
「もうすぐハーフタイムだ。戻って来たら全員に伝えよう。」
シーゴ監督の決断に、武里は静かに頷いた。
川中がもどかしい思いで時計を見上げていると、主審の笛が鳴った。続けて二回。前半終了の合図だった。
選手たちの動きが止まり、それからゆるゆるとそれぞれピッチサイドへ歩いて行く。一人だけ、逆方向へ歩き始めた人間がいた。西藤だ。俯きながら歩いて来る玉木に向かって真っ直ぐ進んで行く。この後何が起こるのか、川中には容易に推測できた。
「どういうつもりだ。」
俯いている玉木の前に立ちはだかり、西藤が低く抑えた声で言った。
「すみません……。」
玉木は俯いたまま声を絞り出す。前半のプレイのひどさは玉木自身が誰よりもよく分かっているに違いない。
「試合に集中できないなら、いても邪魔なだけだ。やる気がないならとっと失せろ。」
俯いたままの玉木に、西藤は容赦なく言葉を浴びせ掛ける。玉木は震える手を緩く握った。
「おいっ、話なら控え室へ戻ってからでいいだろう。」
ピッチの片隅に留まっている二人に気付き、本宮が駆けて来た。西藤は無表情に玉木に背を向け、本宮は玉木の背に腕を回して玉木を促した。本宮の顔には困り果てた表情が浮かんでいる。前半のオーストラリアの攻撃に一番消耗しているのはディフェンダーの本宮に違いない。その上、チーム内で仲間割れとなれば、キャプテンの心労は計り知れない。
勝敗は、このハーフタイムに懸かっている。
選手控え室には重たい空気が漂っていた。つい先ほどまでピッチサイドから威勢良く檄を飛ばしていたシーゴ監督も、選手たちのあまりにも明らかな沈み具合に掛ける言葉を決めかねているようだった。
俯いていた選手たちが、最後に控え室へ戻って来た玉木と本宮にすがるような視線を向けた。正確には、玉木に対する不満と、キャプテンの本宮に対しての救いを求める視線だろう。
「みんな、前半お疲れ様。」
何とか笑顔を作り、できる限り明るい口調で本宮はゆっくりと口を開いた。向けられたチームメイトの顔は疲労と不安を呈したまま微かに歪む。とにかく今は、後半に向けて気持ちを切り替えなくてはならない。
「後半は……。」
「玉木を替えろ。」
本宮の声を遮って、静かな控え室に低い声が響いた。声の主は控え室の隅で不機嫌そうに汗を拭いていた西藤だ。選手の顔が一斉に西藤へ向く。
「どう考えたって原因はこいつだろう? 前半、ろくに動いてなかった。こっちが攻め切れないから攻められる。ディフェンスで全員が不必要に消耗してる。玉木を替えるべきだ! 監督!」
西藤は激しく主張した。西藤がせっかくチャンスを作って出したパスが玉木へ繋がらないことが前半、何度もあった。西藤の苛立ちも尤もだ。他の選手も、玉木に同情する一方で、西藤の主張の正当性を感じている。誰も西藤に反論しなかった。
部屋中の視線がシーゴ監督へ向く。
「実は、みんなに話さなければならないことがある。」
ゆっくりと口を開いたシーゴ監督の言葉を、通訳が訳した。選手が緊張した表情でシーゴ監督を見つめたが、シーゴ監督は話の続きを隣の武里に任せた。通訳を介すよりも直接日本語で話す方が良いと考えたのだろう。
「さっき病院から連絡が入って、川中が……亡くなったそうだ。」
武里はシーゴ監督の言葉を引き継いで言った。一斉に息を飲む音が聞こえ、選手が皆表情を強張らせた。
「非常に残念なことだが、みんなにはトシの分も頑張ってほしい。トシのためにも試合に勝とう。」
通訳を介してシーゴ監督が言う。その時、ガタリと大きな音が室内に響いた。玉木がロッカーにもたれて震えていた。
「玉木……?」
慌てて本宮が玉木の身体を支える。
「監督! 後半、玉木は替えますよね?」
西藤がシーゴ監督に詰め寄った。シーゴ監督は西藤を宥めるようにその身体を退け、ゆっくりと玉木に近付いた。
「私は、君が試合できちんと役割を果たすことをトシも望んでいると思う。トシは君をとても評価していた。私もそうだ。君は期待に応えるべきだし、君にはそれができるはずだ。どう思う?」
シーゴ監督は通訳を介して、微笑みながら玉木に告げた。玉木は震える身体を抱き締めながら、俯きがちで視線を泳がせている。他の選手もじっと玉木を見つめてその回答を待った。