うさぎとわたし
(1)
わたしは四年間の大学生活で試験前の数日しかまともに開くことのなかった分厚い教科書を段ボール箱に詰め込んでいた。専門書の慣例に従って庶民からすれば法外な価格を設定された本だから廃棄するには惜しいけれど、これらの本が開かれることは二度とないのだろう。仮に十六離れた弟が同じ分野を専攻することになり、運良く同じ本を使うことになったとしても、その頃には新しい判が出ているに違いないのだ。わたしは段ボール箱をガムテープで封印し、部屋の片隅にまとめてあった古い衣類を半透明のポリ袋に放り込む。
四年間の大学生活を終え、団塊の世代の離職に備えて一気に採用を増やした東京の大手メーカーに転がり込むことに成功したわたしは、実家を離れることになった。自宅から勤務先までは通えない距離ではないものの、小学校に就学した弟のために広い子供部屋を空けてあげたかった。というのは建前で、わたしはずっと前から東京での一人暮らしに憧れていたのだ。
引越しを明日に控え、今まで準備を後回しにしていた私は朝から部屋中の荷物を整理するのに大忙しだった。とはいえ、大学時代に使用していた本やノートなどは全て段ボール箱に詰めてクローゼットの奥に置いて行く予定だったから、結局、引越しの荷物はお気に入りの本――と言ってもほとんどが漫画なのだけれど――とCD、洋服とそう多くはない。机やベッドはそのまま弟に譲ることになっていて、新居の家具は先に見繕ってお店から直接運び込んで貰っている。
わたしは着古した流行遅れの洋服をポリ袋に放り込んでいった。もったいないとも思うけれどそう思って増えていった不用品がこの部屋の中には多過ぎる。社会人になれば洋服だって学生時代とは変わってくる。ジーンズにTシャツでオフィスを歩き回る度胸はわたしにはない。
不用品と引越し先へ持って行くものとの分類は既に済んでいたから、あとは片っ端から詰め込んでいくだけだ。わたしはほとんど物を見ずに脇の洋服の山から一つずつ掴んで自動的にポリ袋の中に押し込んでいったが、不意にわたしは掴んだ洋服に違和感を覚えた。随分と弾力のある洋服だ。去年買ったばかりのダウンジャケットはまだまだ着るつもりで引越し先へ持って行く荷物の中に入れたつもりだったが、紛れ込んでしまったのだろうか。
わたしは右手に掴んだ服を目の前に持って来て、わたしは思わず顔を顰めた。
わたしが掴んでいたのは洋服ではなかった。薄汚れた埃まみれのうさぎのぬいぐるみだ。
今にも千切れそうな首をわたしに掴まれたうさぎは、長い耳を疲れたように垂れ下げてぐったりとしていた。小学生の頃、誕生日プレゼントとして買ってもらったぬいぐるみのはずだが、ここしばらく存在すら忘れていた。懐かしいと言いたいところだか、さすがにもうぬいぐるみで遊ぶ年ではない。部屋に飾るにも汚過ぎる。
わたしがじっとうさぎのぬいぐるみを睨み付けていると、部屋の扉が軽やかにノックされた。
「エミちゃん、いいかな?」
パパの声だ。
「どうぞ。」
わたしが掴んでいたうさぎを膝の上に載せて応えると、扉の陰から柔和な笑顔が覗いた。
「引越しの準備、終わった?」
パパはわたしの目の前に腰を下ろしながら尋ねる。
「うん、あと少し。」
わたしが頷くと、パパはだいぶすっきりした部屋の中を眺めた。
「エミちゃんがいなくなると寂しくなるなあ。」
パパは首を傾げてわたしを見、少年のようにはにかんだ。今年三十二歳になるわたしのパパは、若くてかっこいいわたしの自慢のパパだけれど、もちろん私の実父ではない。わたしの実父は私が中学生の頃に日頃の不摂生が祟って亡くなり、母はその一年後に再婚した。わたしに弟が生まれたのは更にその一年後のことだ。
「でもパパ、ユウちゃんが暴れ回るだけで頭が痛くなるくらい賑やかだって前に言ってなかったっけ?」
わたしが返すと、パパは困った顔をして頭を掻いた。
「そういうことじゃなくて、さ。」
「休みの日にはちゃんと帰ってくるよ。電車で一時間だし、すぐ近くなんだから。」
わたしが笑うと、パパは少しだけ渋い顔になる。
「本当に、近いんだからここから通っても良かったのに。」
そう呟いたパパはむくれた少年のような顔をしていて、ユウによく似ていた。
「だって、ユウちゃんも小学生になるんだから一人部屋を欲しがるでしょう?」
「僕の給料がもう少し多ければ大きな家に引っ越せたんだけど。」
パパは両膝に手を置きながらがっくりと肩を落としてため息を吐いた。母が再婚する時、わたしと母はまだローンが残っている一軒家を売って、3LDKのマンションへ引っ越した。わたしが当時の自宅から遠い私立高校へ進学することになったせいもあるが、父が亡くなって一年程度で再婚することに対する近所の目を憚ったからかもしれない。
「やめてよ、パパは充分稼いでるじゃない。家族四人で不自由なく暮らしていけるし、わたしは大学まで出して貰ったし。」
わたしが笑顔で言うと、パパは慌てて顔を上げた。
「そんなの当たり前じゃないか。だって僕は君の……。」
「自慢のパパだもんね。」
躊躇ったパパの言葉を私は引き継いだ。パパは驚いた目で私を見、それから優しく微笑んだ。
わたしは決してパパを「お父さん」とは呼ばない。パパを父親として認めていないわけではない。父親としては少々若過ぎるけれど、母と結婚したパパは確かにわたしの父親だ。パパには「パパ」という呼び名が一番似合っているような気がしたし、弟のユウも両親をそれぞれ「パパ」「ママ」と呼ぶ。もう一つ理由があるとすれば、それは「パパ」と「お父さん」が別人だと言う区別に対するわたしの拘りだ。差別ではない。
「ありがとう。」
パパが静かに言った。
「それはわたしの台詞。ありがとう、パパ。お世話になりました。」
私がぺこりと頭を下げると、パパは慌てた様子で手を動かした。
「いや、そういう台詞はその……お嫁に行く時とかで充分だし。僕はまだまだエミちゃんのお世話をするつもりだから……うん、そういうのはなしだ。」
パパは慌てながら早口で言い、徐に立ち上がる。そして部屋を出ようとわたしに背を向け掛けてドアノブに手を掛け、はっとした様子で動きを止めるとゆっくりと振り返った。
「あ……もしかしてその、もう、そういう人がいる、のかな?」
「え?」
「だからその、お嫁に行っちゃったり……。」
「まさか。残念ながら、まだ彼氏はいません。」
パパの焦った表情がおかしくて、わたしはけらけらと笑いながら応える。
「そ、そうか、まだ、いないか。」
パパは顔を引きつらせながら再びわたしに背を向け、部屋を出て行った。
「あ、そうだ。ナオコさんがもうすぐお昼ご飯ができるからって。」
一度扉の陰に姿を消したパパは顔だけ覗かせて、当初の要件らしい母からの伝言を告げた。
「うん、すぐに行く。」
「待ってるよ。」
パパの笑顔が扉の陰に消えた。
父が亡くなった当時、思春期の微妙なお年頃真っ只中だったわたしに、父の死と母の再婚は大した影響を及ぼしはしなかった。というのも、父が亡くなった当時、受験生だった私は目前に迫った受験のことで頭がいっぱいだったし、母の再婚が決まった時も、私は高校での新しい生活に慣れるのに精一杯だったからだ。加えて、反抗期のわたしは頭の薄くなり始めたダサい父親に対してほとんど関心を抱いていなかった。亡くなった人を悪く言うのもどうかとは思うけれど、父が亡くなったのはお酒に煙草、運動不足と身体に悪そうなことを一通りやっていたせいに違いなく、言うなれば自業自得だ。ダサくてお世辞にも自慢できない父親が、若くてかっこいい父親に代わるのなら、それは私にとって悪くないことだった。もちろん、わたしだって人並みに父の死を悲しんだ。実父に対して微塵も愛情を感じていないほど親不孝な薄情者ではない。ただ、いつまでも悲しんでいたって仕方ないと思ったのだ。目の前に受験は迫っているし、父の死を悲しんだからと言って高校に合格するわけではない。わたしは人一倍リアリストだった。
母の再婚相手であるパパは父の元部下であり、父の生前から家族ぐるみでの付き合いがあったから、彼が家族になるということに違和感はなかった。父はよく彼を家に連れてきては延々と退屈な話をし、勧められるままに酒を飲んだ彼はあっという間に酔い潰れて度々わたしの家に泊まっていた。父の退屈な話を笑顔で聞き、心から父を慕っていたらしい彼はわたしのことも妹のように可愛がってくれていた。わたしも彼のことを兄のように慕っていたし、まさか彼が自分の父親になるとは思っていなかったものの、彼が家族になることを素直に喜ぶことができた。どうせなら私の彼氏になって欲しかったなんて思わないでもないけれど、当時のわたしは恋愛どころではなかったし、若くてかっこいい自慢のパパができるのは嬉しかった。
彼は私の母よりも十歳も年下だけれど、父の死後、未亡人になってしまった母を支え続けてくれたのは紛れもなく彼だった。父の突然の死に混乱していた母に代わって葬儀の手配をしてくれたのも彼だったし、その後も父の月命日には忙しい仕事の合間を縫って度々わたしの家を訪ねてくれた。それも全ては彼が母を愛していたからだ。
母から再婚の話を聞かされた後、わたしは思い切って彼に尋ねた。いつから母のことを好きだったの、と。彼は馬鹿正直に「初めて会った時から。」と答えた。だから私は彼を信じることにした。母を本気で愛している人なら、きっと母を幸せにしてくれると思った。再婚の話をした時の母の困ったような恥ずかしそうな表情を見れば、母が彼を愛していることも疑いようがなかった。それだけで、わたしが母と彼との再婚に反対する理由は何一つない。
わたしは、父の生前に母と彼の関係を疑ったことは一度もない。今だってわたしは微塵も二人を疑ってはいない。わたしは愚鈍な子供ではない。ただ、過去を疑ったところで何の得もないことは知っていた。少なくとも、私は今、パパと母と弟のユウと一緒に幸せに暮らしている。それは紛れもない事実だ。仮に二人が父の生前から不倫の関係にあったとしても、だから何だと言うのだろう。
わたしは膝の上に載せたままのうさぎを見た。古ぼけたぬいぐるみに生気はない。わたしはうさぎを掴むとポリ袋に押し込んで、その口をきつく結んだ。これで荷物とごみは全て片付いた。あとは明日の朝、ごみを集積所へ運び、荷物を引っ越し業者のトラックに積み込んでもらうだけだ。私はポリ袋を部屋の隅に放り、ダイニングへ向かった。甘酸っぱいトマトソースの香りがする。お昼のメニューは母特製のトマトオムレツに違いない。オムレツは母の得意料理で、わたしの大好物でもあったから。