ここち

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うさぎとわたし


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(4)

 度々うさぎの妨害を受けながらも、その後の作業は何とか無事に進み、ご飯が炊き上がる頃には丁度カレーも出来上がった。わたしはお皿に盛り付けたカレーライスと同時進行で用意したサラダをダイニング・テーブルへ運ぶ。我ながらなかなかの出来だ。
「いただきます。」
 わたしがカレーライスと食べ始めると、うさぎは私の目の前のダイニング・チェアをよじ登り、わたしが食べているカレーライスを物欲しそうな目で覗き込んだ。私はカレーライスを頬張りながらふと思い立って、スプーンを置いて立ち上がる。
 わたしはキッチンのシンクの片隅にまとめてあった生ごみの中から人参の皮を拾い上げた。
「食べる?」
 カウンター越しに、うさぎに向かって差し出してみる。
「それは、何だ?」
 うさぎが怪訝そうに顔を顰めた。
「人参の皮。」
「お前は父親に生ごみを食わすのか!」
 うさぎが怒ったように声を張り上げるが、見た目がうさぎだからあまり怖くはない。
「だって、うさぎだから好物かと思って。」
「ぬいぐるみだぞ?」
「じゃあ、食べないんだ。」
「食べない。」
 うさぎはむっとした表情でそっぽを向く。物欲しそうな目で見るから気を利かせてやったのに、人の行為を無碍にするとは全く失礼なうさぎだ。
「その、黒いのは何だ?」
 わたしはダイニング・テーブルに戻ると、うさぎがカレーライスを指差しながら尋ねた。
「黒いの?」
 わたしがカレーライスの皿を見下ろすと、確かに黒い点がルーに混じっている。胡麻や海苔を入れた覚えはない。たぶん、なべ底にこびり付いた焦げの欠片だろう。作業を手早く進めようと思い、サラダを同時進行で作っている間、カレーを掻き混ぜ損ねたのが原因だ。
 わたしが自分の失態を悟られたくなくて黙っていると、うさぎはにやりと笑った。
「お前、焦がしたな? だから言ったんだ。ちゃんと掻き混ぜないと焦げるぞって。」
「うるさい! あんたが食べるわけじゃないんだから、文句言わないで。」
 わたしはうさぎに向かって怒鳴り付け、スプーンいっぱいに焦げを含んだカレーライスを掬うと口に運ぶ。カレーが焦げたのは私のミスではあるけれど、半分はこのうさぎに責任がある。うさぎが周りでうろちょろしながら余計な口を挟むから、サラダを用意するだけなのに変に時間が掛かってしまったのだ。
「別に文句を付けたわけじゃない。ただ、焦げは発癌性物質が含まれていて身体に悪い……。」
「だから、食べるのはあんたじゃなくてわたしなの! 発癌性物質だろうが何だろうがわたしが食べるんだから放っといて!」
 わたしはサラダ用に用意していたフォークを高く掲げながらうさぎに向かって怒鳴り付けた。うさぎは一瞬びくりとして大人しくなったものの、まだ何か不満そうにぶつぶつと呟いている。
「お前が食べるから……。」
「何よ?」
 わたしが再び睨み付けてやっと、うさぎは黙った。わたしも黙々とカレーライスを食べ続け、昼食はあっと言う間に終了した。
 わたしが空になった食器を洗おうとキッチンへ向かうと、うさぎはダイニング・チェアから飛び降りてベランダの方へ歩いていく。なんて間抜けな後ろ姿だろう。
「洗濯物は?」
 わたしが食器を洗っていると、うさぎが呟くように言った。
「ちゃんと干したのか?」
 うさぎはこちらを振り返る。
「今日は洗っていないので干してもいません。」
「洗ってない、だって? こんなに好い天気なのに? 洗える時に洗っておきなきゃ駄目じゃないか。すぐに洗濯だ!」
 余計なお世話だ。
「今から洗うと夕方になって乾かないと思うんですが。」
「すぐに洗えば大丈夫だ。ほら、早くしろ。」
 うさぎはとてとてとこちらへ歩いて来る。わたしは食器を洗い終え、食後のコーヒーを淹れることにした。いつも通りのインスタントだが焦げたカレーでも問題なく食べられる舌の持ち主だから、細かいこだわりはない。
「おい、早くしないと日が暮れるぞ。」
 うさぎが急かすが、わたしは黙って淹れたコーヒーをダイニングへ運んだ。
「おい、聞いてるのか?」
 うさぎが足元でしつこく声を上げる。
「もう放っといて! あんたには関係ないでしょ!?」
 わたしはコーヒーをダイニング・テーブルに置きながら叫んだ。急に苛立ちが激しくなり、どすんとダイニング・チェアに腰を下ろしてから、階下の住民から苦情が来るかもしれないと反省する。
「関係なくなんかない。」
 うさぎは俯きがちに視線を落とす。いかにも可哀相なうさぎの姿に腹が立った。
「俺はお前の……。」
「父親なんだ、って言うつもり?」
 わたしは笑いながらうさぎを見下ろした。何かがおかしい。分かってはいたのに、決壊した堤防はもはや修復不可能だった。うさぎが弱々しく顔を上げる。
「とっくの昔に勝手に死んだ人が今頃出て来て父親面しないで! 今のわたしには若くてかっこいいパパがいるんだから。私の邪魔しないでよ、うさぎのくせに!」
 わたしはダイニング・チェアから立ち上がると、背中と背凭れとの間に挟んでいたクッションを掴み、うさぎに向かって投げ付けた。クッションは見事にうさぎに命中し、うさぎはフローリングの床に倒れ込む。わたしはうさぎを無視してダイニング・チェアに座り直した。
 コーヒーを飲む。苦い。いつもと同じ分量で淹れたはずなのに、余りの苦さに涙が零れそうだ。
「悪かった。」
 うさぎが言った。
「迷惑だったよな。すまん。」
 懐かしい声だった。父が心筋梗塞で倒れたあの日、わたしは父と些細なことで喧嘩して、一週間口を利いていなかった。あの朝、父はわたしの部屋に謝りに来たのだ。ドア越しに告げられた言葉はただ一言――すまん。強情な私はそれに応えず、父は会社に向かう途中で倒れ、学校へ行ったわたしが母から連絡を受けた時には父はもうこの世にいなかった。
 思い出したくない。愚かで我侭な過去の自分を呪いたい。今だって、わたしはあの時のままだ。
「お前が一人暮らしなんて、心配で……。でも、俺なんかが心配することじゃないんだよな。心配したところで俺はもうお前に何もしてやれないんだから。迷惑掛けたな。もう、行くから。」
「行く?」
 わたしは慌ててダイニング・チェアから立ち上がった。
「死んだ人間はあるべき場所へ帰るよ。だから、元気でな。母さんと新しいお父さんと弟と、仲良くするんだぞ。困ったことがあったらちゃんと相談するんだぞ。別々に暮らしていても、家族なんだから。」
 うさぎが優しい目でわたしを見上げていた。
「じゃあ、な。」
 うさぎは笑い、ぽすんとリビングに座り込んだ。
「ま、待って! 待ってよ。わたしはまだ……。わたしはまだ言いたいことがあるのに!」
 わたしはリビングにしゃがみ込んでうさぎを掴んだ。うさぎはぴくりとも動かない。
 わたしは世界一の愚か者だ。大嫌いだ。愚かな自分を変えたくて、新しいパパとはちゃんと仲良くやって行こうって決めたのに、もう間違えないって決めたのに、どうしてわたしは同じことを繰り返しているのだろう。
「わたしは……わたしはお父さんのこと好きだったよ。今だって大好きだよ!」
 わたしはうさぎを抱き締めた。
「ありがとう。」
 懐かしい声が聞こえた。
「ありがとう、エミ。」
 目の前に、笑顔の父が見えた。薄くなった頭に、今ならメタボリック症候群認定間違いなしのお腹、生前の父の姿そのままだった。
「お父さん、ごめんなさい。」
 わたしの謝罪に、父は笑顔だけ見せてすうっと溶けるように消えていった。
 残されたのはくたびれたぼろぼろのうさぎだ。
 十歳の誕生日、酔っ払った父が買って来てくれたこのうさぎのぬいぐるみは、その当時、わたしの一番のお気に入りだった。誕生日プレゼントはいつも母が用意してくれていたが、その年は誕生日よりも一日早く、酔った父がわたしが頼んでいたプレゼントとは全く違うものをを買ってきたのだ。それでも、父がプレゼントを買って来てくれたということがとても嬉しくて、わたしは母に頼んでいたプレゼントをキャンセルしてこのうさぎを受け取った。お気に入りのうさぎをこっそりリュックサックに忍ばせて遠足に連れて行き、先生に見つかって怒られたこともある。寝る時も一緒、ご飯を食べる時も一緒、外で遊ぶ時だって常に片手を掴んで連れ回し、おかげでうさぎはこんなにぼろぼろになってしまった。
 うさぎと一緒にいる時間が少なくなったのは、中学校に上がってからだろうか。中学生になってまでうさぎのぬいぐるみを連れて遊びに出掛けるほどわたしは幼くなかったし、反抗期を迎えて父に対する嫌悪感が芽生えたのもその頃だ。いつの間にか、うさぎはクローゼットの奥にしまい込まれるようになってしまった。
 父の魂を欠いたうさぎはただのうさぎのぬいぐるみだ。汚れた古いうさぎのぬいぐるみ。父から貰った当時、真っ白だったはずの身体はグレーだか茶色だか分からない微妙な色合いに変化している。
 わたしはしばらくうさぎを見つめた後、意を決してうさぎを手に立ち上がった。

 わたしはうさぎのいなくなった部屋の中で、新しく淹れ直したコーヒーを啜りながら、スーパーで買ってきたクッキーを齧る。
 開け放したベランダの窓から風が部屋の中を通り抜けて行った。揺れるカーテンの向こうには、両耳を洗濯ばさみに挟まれたうさぎが情けない姿でぶら下がっている。漂白剤入りの洗剤と共に洗濯機の中を泳ぎ回ったうさぎは、購入当初と同じとまではいかないものの、だいぶ白さを取り戻していた。きちんと乾いたら、チェストの上に飾るつもりだ。うさぎの指定席の脇には、引越し荷物の奥に紛れ込んでいたアルバムから探し出した二枚の写真も飾られている。一つはわたしと母とパパとユウの四人で撮った写真。もう一つはわたしと母と父と、それからうさぎと一緒に撮った写真。どちらも大切なわたしの家族の写真だった。
 淹れ直したコーヒーは程良い苦味と香ばしい薫りで、じんわり身体に沁みてくる。今日の夕飯は何にしよう。野菜たっぷりのメニューが良い。特売品だった人参もまだ大量に残っているから、人参スープなんて作ってみようか。わたしはレシピ集を捲りながら考える。
 美味しく出来たらお隣の高橋さんにもお裾分けしようなんて思ったら、ベランダからこちらを覗いているうさぎと目が合った。何だか少し不満そうな顔をしているのはたぶん気のせいではない。わたしは思わず笑みを零した。

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