ここち

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うさぎとわたし


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 引越しを終え、都心へ買い物に出掛けたわたしは雑誌に載っていた話題のお店で友人と夕食を済ませた後、新居へ戻って来た。まだ新しい1DKのマンションは、新入社員には少しばかり家賃が高かったけれど、「女の子が一人暮らしをするんだからセキュリティのしっかりしたところじゃないと。」と言うパパの援助で借りることができた。パパは心配性で、子供に甘い。とっくに成人しているのにいつまでも親の世話になるのは申し訳ないとさえ思いもしたけれど、せっかくの好意を無碍にするのも気が引けた。ここはパパの言葉に甘えることにして、三ヵ月後の父の日にはプレゼントを奮発しようと思っている。
 交通の便も良い新築のマンションは、内装も明るくていくつか見た中でもわたしの一番のお気に入り物件だった。今日からここで暮らすのだと思うと帰宅の足も軽くなる。
 オートロックのエントランスを通り、五階の廊下までエレベーターで上がったわたしは、自分の部屋の前に小さな影を見付けてぎょっとした。
 うさぎが玄関扉にもたれていた。野うさぎではない。ペットが逃げ出したわけでもない。目の前にあるうさぎは、紛れもなく、今朝、わたしが古着と共にごみ集積所へ放り出してきたうさぎのぬいぐるみだった。
 普通なら、この先の展開はホラーになる。捨てても捨てても戻ってくる呪われたぬいぐるみ。怪談にはありがちだ。
 ただ、わたしが背筋を凍らせた直後、事態は予想外の展開を見せた。
「お、やっと帰って来たか。危うく眠ってしまうところだった。全く、こんな遅くまで女の子が外を出歩くなんて危ないじゃないか。」
 うさぎは顔を上げて立ち上がり、わたしに向かって人差し指を振りながら言った。
「しゃ、しゃしゃしゃしゃ喋った!」
 私は防衛本能を働かせてすぐさま物陰に隠れようとしたが、不幸にも玄関先には私が身を隠せるようなものは何一つ置いていない。結局、わたしは大袈裟に手を振り回し、ファイティング・ポーズでうさぎと向き合うことになった。
「とりあえず、鍵を開けて中へ入れてくれ。ここは硬くて尻が痛くなった。」
 うさぎはお尻を摩りながらさも当然のように言うが、わたしとしては承諾し難い要求だ。そもそも何でうさぎのぬいぐるみが人語を話すのか理解できない。
「おい、早く開けてくれ。」
 うさぎは扉をぽふぽふと叩きながら命令する。再びわたしの目の前に現れたうさぎに対する不気味な感覚は既にない。代わりに、目の前で名乗りもせずに身勝手な要求を突きつけてくるこのうさぎに対してふつふつと腹立たしさが湧き始めた。
「おい、聞いてるのか?」
 うさぎはわたしの気持ちなどお構いないしに、生意気な口調でわたしを見上げる。人語を話す古ぼけたうさぎのぬいぐるみなんて、わたしが思い描いていた華やかな東京での新生活には相応しくない。
「……うるさい。」
「え?」
「うるさーい! お前なんか知るか、クソうさぎ!」
 わたしはうさぎの耳を掴むと廊下に放り投げ、素早く玄関の鍵を開けると部屋の中に滑り込むように入って扉を閉めた。
「うぎゃ!」
 足元から聞こえた悲鳴に振り返ると、うさぎが首を扉に挟まれている。ちょっと悲惨な光景だ。
「な、何なのよ、あんた。気持ち悪い、出てけ!」
 言いながら、わたしは扉を引っ張るが、うさぎを挟み込んだ扉はどうにもきちんと閉まらない。扉を閉めるためには一旦扉を開けてうさぎを排除しなくてはならないのだが、図々しいうさぎはきっとその隙を突いて部屋の中に転がり込んでくるに違いない。このまま無理矢理扉を閉めてうさぎの首をちょん切ってしまうのは残酷な気もするが、うさぎを部屋の中に入れたら負けのような気がした。
「この状態で出て行けるか! こ、こら、やめろ、千切れる、首が千切れる! お前、分かってるのか!? 俺はお前の父親だぞ!」
 うさぎの台詞に、わたしはうっかりドアハンドルを握る手を緩めてしまった。その瞬間、予想通りうさぎが部屋の中に転がり込んでくる。
「父……親?」
 わたしは首筋を摩りながら自分の身体に異常がないことを確認しているうさぎを見下ろしつつ呟いた。
「そうだ。俺はお前の父親だ。」
 うさぎは腰に両手を当て、ふんぞり返ってわたしを見上げる。わたしはうさぎを見下ろしながらしばし考え込み、それから冷静に一呼吸した。
「ええと、大変申し訳ございませんが、人違いではないかと存じます。私、うさぎのぬいぐるみを父親に持った覚えはございません。どうぞお引取りください。」
 わたしは内定後の事前研修で習得した敬語を使い、うさぎに向かって丁寧にお辞儀をした。
「いや、俺が言いたいのは……。」
 うさぎはまだ何か言い訳をしようとしたが、私はうさぎの両耳を右手で握り、扉を開けて外へ放り出した。不当要求には毅然とした態度で応じない。マニュアルの片隅にはそんなことも書いてあったような気がする。
「問答無用!」
 すぐさま扉を閉めて鍵を掛け、ドアロックもきちんと掛ける。これでもう妙なうさぎに煩わされる心配はない。わたしはほっとして穿き慣れないハイヒールを脱ぎ、キッチンへ向かった。水でも飲んで落ち着こう。捨てたはずのうさぎのぬいぐるみが現れたり、それが喋ったり、更には自分の父親だと名乗るなんて、そんな馬鹿げた話があるはずもない。都心の人混みを歩き回って少し疲れているのだ。そう自分に言い聞かせるわたしの耳に、玄関扉の向こうからうさぎの声が響いてきたけれど、わたしはそれを幻聴と思うことにした。すると声は次第に小さくなり、お風呂から上がった頃には全く聞こえなくなっていた。わたしは安心してその夜、ゆっくりと休むことができた……のだが。
 翌日、朝食を済ませ、冷蔵庫が空っぽであることを思い出した私は昼食の材料を買いに行くついでに近所を散歩でもしようと部屋を出た私は、玄関先に見たくはないものを見付けてしまった。昨夜のうさぎが、あの薄汚れたうさぎのぬいぐるみが、玄関先で眠っていた。倒れていたのでも落ちていたのでもなく、それは確かに眠っていた。
「ん、もう、朝か? あ、ああ、おはよう。」
 わたしがそれを発見した直後、うさぎが起き上がってこう言ったのだから、眠っていたと言う表現で正しいことは間違いない。わたしはじっとうさぎを見つめた一秒後、世界記録にも迫る速さで扉を閉めた。
「おい、こら、待て! 俺の話を聞け!」
 扉の向こうでうさぎが叫んでいる。
「幻聴だ。これは夢だ、幻だ。」
 わたしは玄関の鍵を掛け、キッチンへ向かった。水道水をコップに注ぎ、ぐびっと一気に飲み干した。ふうっと大きく息を吐き、ついでに外の新鮮な空気を吸おうと廊下に面した窓を開けた時、私は思わず叫び声を上げた。鉄格子の隙間から、うさぎが顔を覗かせていた。
「ちゃんと話を聞け。」
 うさぎは真面目な顔でわたしを見る。
「嫌だ、嫌だ、嫌だ。お化けうさぎの話なんか聞きたくなーい。」
 わたしは頭を振りながら両耳を押さえてしゃがみ込んだ。夢なら早く覚めてほしい。わたしはお化けなんて好きじゃない。ホラー映画なんて誰が見るものか。眠れなくなるじゃないか。
「ちゃん、と、話、を、聞け!」
 ぽすんと頭に柔らかいものが落ちてきた。うさぎは鉄格子をすり抜けて部屋に入り込んでしまったらしい。直ちに窓を閉めなかったわたしのミスだ。
「もう一度はっきり言うが、俺はお前の父親だ。」
 うさぎは腰に手を当て、偉そうにわたしを見る。
「もう一度はっきり言いますが、わたしはうさぎのぬいぐるみを父親に持った覚えは……。」
「黙れ。」
 うさぎはわたしの台詞を無理矢理遮って、こほんと咳払いをした。
「確かに姿はうさぎのぬいぐるみだが、ここは紛れもなく八年前に死んだお前の父親だ。」
 うさぎは自分の胸を叩きながら言う。「ここは」と言うのは「心は」か「魂は」を意味するのだろう。
「信じられません。」
 わたしは冷静に返した。騒いだところで目の前の怪奇現象が消えてくれないということは既に理解している。ここはいかにして被害を拡大させることなく話を進め、一刻も早く終わらせるかと言うことに力を注ぐべきなのだ。
「気持ちは分かるが、これが真実だ。」
 薄汚れたうさぎのぬいぐるみに「真実だ」などと言われても全く説得力がない。真面目そうな顔――ぬいぐるみでも表情が変わるのだと私はその時初めて知った――で語るうさぎは何だか間抜けだ。
「その証拠に、俺はお前が幼い頃の秘密を知っている。」
「秘密?」
 わたしは首を傾げた。幼い頃の秘密と言われても、咄嗟には思い当たるものがない。
「あれはひどい雷雨の夜だった。」
 うさぎは腕を組み、虚空を見上げながら語り出した。何だかすごく退屈な話を聞かされそうな予感がする。
「その時お前はまだ小学校に上がったばかりで、雷の音を怖がったお前は俺と一緒に寝ようと枕を持ってやって来た。俺が布団に入れてやるとお前はすぐに安心して眠り、翌朝……。」
 懐かしそうに語っていたうさぎがそこで表情を歪める。ここまでの話は何となくそんなことがあったかもしれないとは思うものの、子供の頃のことだけにはっきりとした記憶はない。それに、その程度の話ならどこの家にだってありそうなことだ。問題は、その後に告げられた衝撃の事実だった。
「お前はお漏らしをして俺の布団をびしょびしょにしたんだ!」
 うさぎはわたしを指差して大声を上げ、わたしは思わず仰け反った。同時に、鮮明な記憶が蘇る。恥ずかしい話だが、確かにそんなことがあった。わたしは恥ずかしさと悔しさで朝から大泣きし、挙句の果てには泣き腫らした顔を見られるのが嫌で学校を休むと駄々をこね、わたしを着替えさせてびしょ濡れの布団を片付けなければならなかった母を大いに困らせた。お弁当が出来上がらずに電車に乗り遅れた父は会社に遅刻さえしたのだ。はっきりと思い出した。思い出してしまった。確かにこれは秘密にしたい過去だし、母と父とわたししか知り得ないことだ。
「もっと言ってやろうか?」
 うさぎの言葉に、わたしはあわててうさぎに手を伸ばすと、その口を塞いだ。
「分かりました。分かりましたから、静かにしてください。」
 窓を開け放したまま、うさぎに大声で過去を暴露されたら、わたしはこのお気に入りの新居から再び引っ越さなくてはならなくなる。死んだ父親の魂がうさぎのぬいぐるみに入って目の前に現れたなんて、映画であれば感動の物語に仕上がるのだろうが、現実にそんな事態に直面したらあまりの馬鹿馬鹿しさに呆れるしかない。せめてもう少し感動的な登場ができなかったのだろうか。よりによってどうしてうさぎのぬいぐるみなのだろう。生前からそうだったといってしまえば元も子もないが、父親の威厳なんて欠片もありはしない。
 わたしは大きなため息を吐きつつ、大人しくなったうさぎをそっと解放した。

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