ここち

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うさぎとわたし


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 わたしがキッチンの窓を閉めようと立ち上がると、うさぎは部屋の中をきょろきょろと見回しながら歩き始めた。腕を組んで偉そうに、真面目な顔をしてとてとてと歩く姿はやっぱり間抜けだ。
「飯はちゃんと食ってるのか? 家事なんて母さんに任せきりでろくにできないんだろう。」
 うさぎはダイニングをぐるりと一周し、相変わらずの上から口調で私に言った。
「馬鹿にしないでください。今朝の朝ご飯だってちゃんと自分で作りました!」
 わたしはむっとしてうさぎを見下ろす。
「何を作ったんだ?」
「トーストとハムエッグ。」
 わたしの料理の腕なんて所詮はそんなものだ。それでも、これから少しずつ腕を磨こうと思って、昨日は書店で料理のレシピ集も買ってきたし、レシピを見ながらであればそれなりのものが作れるに違いないと信じている。買ってきたレシピ集のタイトルは『カンタン! はじめてお料理ブック』だ。
「それだけか? 野菜がないじゃないか、野菜が。」
 うさぎはぽふぽふと足先で床を叩きながら文句を付けた。
「野菜ジュースを飲みましたけど。」
「そんなんじゃ駄目だ、駄目だ。どうせ砂糖たっぷりの甘い奴だろう?」
 うさぎは大袈裟に首を振る。
「野菜百パーセントです。」
「……煮物だとか、せめてサラダくらい作りなさい。」
 うさぎは一瞬言葉に詰まってから、偉そうに言った。
「お昼はどうするんだ?」
「あ、そうだ。わたし、買い物に行こうと思ってたんだ。」
 わたしはぽんっと手を打った。うさぎの邪魔が入ってうっかり忘れていたのだ。ぼんやりしていたらお昼になってしまう。別にお昼が遅くなっても困ることは何一つなかったけれど、生意気なうさぎによって狂わされた予定を何とか元に戻したかった。わたしは玄関に放り出されていた鞄を拾い上げ、靴を履く。
「よし、俺が留守番をしといてやる。ちゃんと野菜を買ってくるんだぞ。人参とか玉葱とか、好き嫌いをするんじゃないぞ。」
 うさぎはとてとてとわたしの後をついて来て忠告した。余計なお世話だ。
「おい、聞いてるのか?」
「ええ、聞いてます、聞いてますよ! ピーマンでも大根でも野菜を買ってくれば良いんでしょ!?」
 私は玄関扉を開けながらうさぎに向かって叫んだ。同時にドンッと音がして、大きく開いた扉が何かにぶつかった。嫌な予感がして、私は慌てて扉の裏側を覗く。
「す、すみません。」
 案の定、扉の裏にはスーツ姿で鼻を押さえた青年が立っていた。隣の高橋さんだ。昨日、引越しの挨拶に行った時の彼はジーンズにTシャツのラフな格好で、正直、人は好さそうだけどちょっとダサいと思ったものだが、きちんとスーツに身を包むと何だか少しかっこよく見えた。きっとこれから仕事なのだろう。通勤ラッシュはとっくに終わっている時間だが、高橋さんの会社はフレックス・タイム制を採用しているのかもしれない。わたしが四月から務める大手メーカーもそうだ。
「い、いや、大丈夫。僕もぼうっとしてたから。」
 高橋さんは右手で扉に思い切りぶつかられたらしい鼻を押さえながら左手をひらひらと振る。突然開いた扉にぶつかるなんて漫画みたいな展開に素で遭遇してしまうこの人はやはり二枚目と言うよりは三枚目のポジションなんだという気がするけれど、今回のアクシデントに対して責任があるのは前方不注意の高橋さんではなくわたし――とうさぎに間違いないのだから、それを理由に三枚目と決め付けるのは失礼な気がした。
「すみません。」
 わたしはもう一度ぺこりと高橋さんに向かって頭を下げる。
「これから出掛けるの?」
 高橋さんは鼻の痛みも引いたのか、わたしが手にしている鞄を目に留めて尋ねた。
「あ、はい。ちょっと買い物に。」
「そっか……じゃあ、良かったら途中まで一緒にどう、かな。僕もこれから駅まで行くんだ。」
 躊躇いがちに言って、高橋さんははにかむ。
「はい、ぜひ。」
 わたしが二つ返事で頷くと、後ろから聞きたくない声が聞こえた。
「おい、気を付けろ。人の好さそうな顔をしていても男なんて腹の中じゃ何考えてるか……。」
 わたしは高橋さんに向かって笑顔を向けたままうさぎを部屋の奥へと蹴り飛ばし、すぐさま扉を閉めた。
「さあ、行きましょうか。」
「でも今、誰かの声が……。」
「そうですか? 気のせいですよ、気のせい。お隣のテレビの音じゃないですかね。」
 私は素早く玄関の鍵を掛けると、高橋さんの背中を押した。全く、わたしの父を名乗る以上、うさぎだって元は男だったはずなのに「男なんて」とはよく言えたものだ。死んで生前の罪滅ぼしをしようという気にでもなったと言うのだろうか。
 わたしと高橋さんは「どんなお仕事をしているんですか?」とか、「出身地はどこですか?」なんてたわいもない会話をしながら駅前まで歩いていった。高橋さんはイケメンと言うよりはどちらかと言うと体育会系の純朴そうな顔立ちをしていた。東北出身の高橋さんは、話が盛り上がると時々わたしの聞き慣れない言葉を口にして、わたしがきょとんとすると思わず方言が出てしまったことを照れくさそうに弁明した。
「じゃあ、これで。」
「お仕事頑張ってください。」
 別れ際に高橋さんの見せた照れくさそうな笑顔が可愛いくて、わたしはウキウキと駅前のスーパーに入った。が、その瞬間、わたしのウキウキした気分は店頭に積まれた本日のお買い得品「人参」によって吹き飛ばされた。すぐにうさぎの姿が脳裏に浮かぶ。
 好き嫌いをするなと言ってうさぎが例示した野菜は人参と玉葱だった。ついでに言えば、人参はうさぎの大好物と一般的には認識されている野菜だ。
「人参と玉葱。」
 わたしがそう呟きながら人参から視線を逸らすと、ご丁寧にもその先に玉葱があった。これにあとじゃがいもと肉があればカレーが作れる。うさぎの言う通りにするなんて不覚ではあったが、わたしは入り口に積み上げられていた買い物かごを手に取ると、人参、玉葱、それにじゃがいもをその中に放り込んだ。料理が得意とはお世辞にも言えないわたしだけれど、カレーだけは上手く作れる自信ある。野菜、野菜とうるさいうさぎの文句を予想して、サラダのためのレタスやきゅうり、トマトも買って帰ることにした。カレーの材料を一通り揃え、おやつを少しばかり選んでからマンションへ帰ると、玄関でうさぎがふてくされた様子で待っていた。
「遅いぞ。」
 うさぎは腕を組み、あぐらをかいてわたしを見上げる。
「これでも真っ直ぐ帰って来たんですけど。」
「一時間も掛かってるじゃないか。」
 わたしはうさぎを無視して靴を脱ぐとキッチンへ向かった。ここから駅前のスーパーまで歩いて二十分弱。往復で三十分以上掛かるから、買い物に要した時間は三十分とない。おやつを選ぶのにちょっと迷い過ぎた気はするけれど、文句を言われるほどの時間を掛けてはいないはずだ。
「あいつと何を話したんだ?」
 わたしが買って来た物を買い物袋から取り出していると、うさぎがむっとした様子で尋ねて来た。あいつと言うのはたぶん高橋さんのことなのだろう。
「別に。」
「おい、『別に』とは何だ! お前、まさかあんなどこの馬の骨とも分からん奴に言いくるめられて……。」
「どこの馬の骨とも分からん奴じゃありません。高橋さんです。お隣さんです。」
 わたしは落ち着いた口調で返しながら、引越し荷物と一緒に自宅から持って来たお米の袋を破る。近いうちに米びつを買いに出かけなくてはならない。
「駄目だぞ。隣近所だからって簡単に気を許すんじゃないぞ。間違っても部屋に入れたり向こうの部屋に行ったりするなよ?」
 うさぎは口煩く喚き立てるが、わたしは黙って米を研ぐ。本当にうるさいうさぎだ。
「邪魔。」
 わたしは足元でうろちょろしているうさぎを蹴り飛ばし、炊飯器にお釜を戻してスイッチを入れた。
「ちゃんと水は量ったのか? 多過ぎても少な過ぎても駄目なんだぞ。」
 うさぎはお節介にも甚だしい忠告をして来る。今時、小学生だって米くらい炊ける。わたしが黙って野菜を洗い始めると、うさぎは再び声を上げた。
「間違っても洗剤を付けて洗ったりなんかするんじゃないぞ。」
 するわけがない。家を出る前、家事はほとんど母に任せ切りだったけれど、わたしだってたまには母に代わって料理をしたし、それなりに母を手伝ってもいた。弟のユウだって野菜を洗剤で洗わないことくらいは分かっている。
「包丁を使う時は指を切らないように気を付けるんだぞ。」
 いい加減にして欲しい。
「それから……。」
「黙れ!」
 わたしは手にしていた包丁を振り上げてうさぎに向かって怒鳴り付けた。うさぎがびくりと身体を震わせて硬直する。さすがに包丁は怖過ぎただろうか。少しばかり反省しつつ、わたしはまな板に向き直って野菜を切り始めた。うさぎは大人しくしている。野菜を切るトントンという音だけが響いて、妙に静かだ。何だか気持ちが悪い。
 そんなことを考えていて集中力を欠いたのだろう。わたしはやってはならないミスを犯した。
「痛っ!」
 うっかり包丁で指を切ってしまったのだ。少し切っただけだけれど、指先に赤い血が滲んでいる。
「ああ、だから言ったじゃないか!」
 予想通りのうさぎの台詞。わたしはそれに応えず、指を口に咥えながら鞄の中の化粧ポーチを漁った。確かこの中に絆創膏を入れておいたはずだ。
「大丈夫か? 消毒液は? 包帯はどこだ!?」
 うさぎはわたしの周りでばたばたと謎の踊りを踊っているが、わたしはポーチの中から絆創膏を見付けると、それを傷口に貼って応急手当を済ませた。
「おい、大丈夫なのか?」
「大丈夫だから黙ってて。」
 わたしは再び野菜を切り始めるが、うさぎはわたしの周りをうろうろしながら心配そうに見上げている。邪魔だ。果てしなく邪魔だ。はっきり言えば、うざい。このうさぎはどうしてこんなに……と考えてやめた。このうさぎの言うことを信用するなら、このうさぎは私の父親なのだ。このうさぎがこんなにも迷惑な理由なんて考えなくても分かることだ。なんてうざいうさぎなんだろう。

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