ここち

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風紀委員の恋


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(1)

 中野要は苛立っていた。東棟の端にある「風紀委員室」と書かれた古びた看板の掛かった小さな教室の片隅で、活動日誌を捲りながら風紀委員長としての確認印を乱暴に押していく。
 不意にページを捲る手が止まった。日誌にはやや丸みを帯びた字で、丁寧に活動記録が記されている。記録者は松下晴香。一年三組の風紀委員だ。風紀委員などという古めかしい嫌われ役を真面目に務めている数少ない委員だった。
 松川晴香が高嶋卓哉にバレンタインのチョコを贈った――そんな噂を耳にした時は、質の悪い嫌がらせだろうと思っていた。真面目な彼女が学校一の不良と目される高嶋卓哉にチョコを贈るなどということはあり得ない。義理チョコとしてクラスメート全員に配ったとでもいうのならともかく、そもそも彼女と高嶋はクラスが違う。それどころか、高嶋裕二は二年生、学年さえ違うのだ。彼女と高嶋に接点はない。あるとすれば、風紀委員として高嶋の校則違反の金髪と腰パン、加えて大幅な遅刻を注意する時くらいのものだろうが、風紀委員とは言っても一年生の彼女が二年生の高嶋に注意するなどということはほとんどない。風紀委員長として要が注意したってろくに耳も傾けない筋金入りの不良なのだ。下手に声を掛ければ反撃されかねない。
「上級生は注意しづらいだろうし、言っても聞かない奴もいるだろうから、そう言う時は、無理しないで僕に報告してくれれば良いからね。」
 要も仕事熱心な彼女が無茶をしないようにきちんと指導してきた。彼女は素直に要の話を聞いていた。
「分かりました。ありがとうございます、委員長。」
 にこりと笑いかけてくれた彼女顔が脳裏に浮かび、要は乱暴に確認印を押してページを捲った。
「なーんや、相変わらず不機嫌そうやなあ、委員長。」
 不意に背後から声が聞こえた。声の主が誰かは振り返らずとも分かる。要は眼鏡のブリッジを軽く持ち上げてため息を吐き、出来るだけ嫌そうな表情を作って振り返った。
「何の用だ? 竹下。」
「何の用とは何やねん。風紀委員としてのお務めをしに来たんやないか。わざわざ南棟から遠く離れた委員会室まで来てやったんやで。もうちょい有り難そうな顔してくれたってええんちゃうか?」
 竹下裕二は笑いながら側にあった椅子を引き寄せ、腰掛けた。
「風紀委員が風紀委員としての仕事をするのは当たり前だ。俺が有り難がる理由はどこにもない。」
「相変わらずやなー。けど、いつも以上に殺気立っとるで。そんなに気に入らへんか、晴香ちゃんと高嶋卓哉が付き合うとるの。」
 裕二は何気ない風に漏らし、要が視線を向けるとにやりと笑った。明らかにこちらの反応を見て楽しんでいる。三年二組の風紀委員を務める裕二は副委員長でもあるが、要や晴香と異なり、彼は全くやる気がない方の風紀委員だった。この学校では誰もが必ず何らかの委員になる決まりだが、彼はどの委員もやりたがらず、結局、最後に残った風紀委員をやるはめになってしまったということらしい。しかも、三年連続で。
 自ら立候補して風紀委員になった要も三年連続で風紀委員を務めており、裕二とは妙な腐れ縁が続いている。要にとっては早く切れてほしい縁であるが。
「失望してるだけだよ。あんな不良と付き合うなんて、風紀委員としてどうなのかと思ってるだけだ。」
 要は言い終わらぬうちに、再び裕二に背を向けて日誌を捲り始めた。裕二のペースに乗せられるわけにはいかない。まず、目の前の仕事を片付けなければ。
「まあ、優等生の自分とは正反対の不良やもんなあ。晴香ちゃんは絶対自分のこと好きやと思ってチョコレート期待しとったのに、全く正反対のあんな不良に持ってかれたら、そら腹も立つやろなあ……。」
「裕二? 勝手に話を作るな。俺はそんなんじゃない。」
 出来るだけ平静を装って、日誌のページを捲りながら要は返した。
「さよか。まあ、その俺の作り話やと、自分、晴香ちゃんと話する時はめっちゃ楽しそうにニコニコしてたで。なんで俺と話す時はそない仏頂面やねん。」
「特に変えているつもりはない。」
 要は端的に返した。そんなに自分の態度はあからさまだっただろうか。そんなはずはない、と思う。現に、彼女は何も気付いていない。気付いていない……はずだ。
「……とっとと告白しとれば良かったんに。」
 裕二は核心を突いた。そんなことは、そんなことはとっくに分かっている。
「裕二! 邪魔をするだけなら帰れ! 仕事をする気があるなら黙ってやれ!」
 要は椅子から立ち上がると、振り返って叫んだ。これ以上は耐えられない。
「おー、こわ。そんなに怒らんたってええやん。カルシウム足りてへんのとちゃう?」
 裕二は首をすぼめて冗談めかして言う。要はどっと疲労感に襲われた。
「裕二……頼むから、もう……。」
 要はため息を吐いた。裕二が裕二なりに気を遣ってくれているのは分かる。腐れ縁とは言え、三年の付き合いがあるのだ。ここ数日、やたらと苛立っている自分を何とかしようと考えてのことに違いない。昨日、苛立ち紛れに二年生の委員をこっぴどく叱りつけてしまったから、また周囲がとばっちりを食らってはまずい、と副委員長として思ったのだろう。裕二はおおざっぱな性格だが、人付き合いは上手い。要が言うと角が立つことも裕二は上手く処理してくれる。いわゆる「憎めない奴」なのだ。
「……もっと早くに話聞いとったら良かったんやろな。やけど……。」
 ――コンコン。
 裕二の言葉を遮るように、ノックの音がした。裕二が慰めの言葉を掛けようとしていることは分かった。だからこそ、その言葉の続きを聞きたくなくて、要はすぐにノックに答えた。
「どうぞ。」
「失礼します。」
 声を聞いた瞬間、要の体は硬直した。
 入ってきたのは、松川晴香だった。飾りのないゴムで二つに結ばれた黒髪、膝丈のスカート、全て校則通りの出で立ちで、彼女は入学以来変わらない。ただ一つ、高嶋卓哉と付き合っているということを除いては。
「噂をすれば、晴香ちゃんやん。どや? 高嶋とは上手くいっとるん?」
 裕二はいつも通りの笑顔を作ると、要を差し置いて晴香に声を掛けた。あえて高嶋の話題に触れるのは、「現実を見ろ」ということなのだろう。そんなことは、分かっている。
「竹下先輩。そういうの、セクハラですよ?」
 晴香は照れたような困ったような表情で裕二に返す。
「セクハラぁ? 晴香ちゃんと高嶋が付き合うとることは今、学校中の関心事なんやで? 二人の交際が上手くいっとるかどうか、冷やかしたりからかったりするような奴がおらんかどうか、状況を把握しておくのは風紀委員としての務めやないか。どや、上手くいっとるんか? もうチューとかしたん?」
「竹下……黙れ。」
 要は言うと同時に机の上にあった日誌を手に取り、裕二の後頭部を叩いた。
「いったー! 何すんねん。暴力反対や!」
 裕二は後頭部を押さえてしゃがみ込んだ。足下からしつこく文句が聞こえて来るが、要は一瞥すらくれずに無視することにした。
「何の用?」
 要は晴香を見据えて言った。自分でも驚くほど冷たい声だった。晴香は怯えたように僅かに身体を竦ませる。
「あ、あの、梅田先生が委員長を呼んでいました。職員室に来てほしいそうです。」
 生徒指導担当の梅田は風紀委員会の顧問でもある。要が梅田に呼ばれることは特段珍しいことではない。
「そう、分かった。」
 要はそれだけ言って、職員室へ向かおうと入り口へ向かう。好都合だった。出来るだけ早く、晴香がいるこの場所から立ち去りたかった。
 晴香が高嶋と付き合い始めたという噂を耳にした後、要は晴香を問い詰めた。本気であんな奴と付き合うのか、と。
「高嶋先輩は委員長が思っているような悪い人じゃありません。」
 晴香は要の問いにきっぱりとそう返し、以来、要は晴香ととほとんど話していない。風紀委員としての仕事上のやり取りも出来るだけ回避している。それは、要の一方的な意思だった。
「それから、あの、高嶋先輩のこと……。」
 要が入り口の扉に手を掛けた時、晴香が再び口を開いたが、要はそのまま委員会室を出て後ろ手に扉を閉めた。聞きたくなかった。彼女が高嶋を好きな理由なんてどうでもいい。

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