ここち

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君は風のように

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プロローグ

 園芸店を出て見上げた空は、灰色の雲に覆われていた。天気予報は曇りだったけれど、雲の色は家を出た時よりも一層濃くなっていて、今すぐ雨が降り始めてもおかしくない。私は購入した苗の入ったビニール袋を片手に、足早に自宅へ向かうことを決めた。購入した苗はできれば今日中に植え替えたい。このためにわざわざ午前中から庭の片隅で土を掘り返し、肥料を撒いて、ハーブ園の拡張に勤しんでいたのだし、小さなビニールポットで窮屈そうにしている苗の根を早く自由にしてやりたかった。
 新しく購入した苗はラベンダーだ。北海道の富良野のラベンダー畑を作りたくて、思い切って庭にスペースを用意したのだ。芝生の庭が段々と私のハーブ園で侵食されて行くことは多少申し訳ないとも思うけれど、ずぼらな両親に代わって庭の手入れをしているのは私なのだから、多少の我がままは許してほしい。
 私は庭の片隅で揺れる紫の一群を脳裏に描きながら、陰鬱な空の下で少しばかり足取りを軽くした。
 購入したラベンダーの苗に視線を落としながら微笑んだ後、ふと顔を上げると、目の前の交差点付近に人だかりができていた。パトカーが赤色灯を回しながら止まっている。そう言えば、園芸店の中で苗を選んでいる時、けたたましいサイレンの音が近くを通り過ぎるのを聞いた気がする。交通事故だろうか。
「信号待ちしてたら、突然、男の子が車道に飛び出したのよ。」
「その前に猫が飛び出したようにも見えたけど。」
 人だかりの中から、いかにもおしゃべりが好きそうなおばさんたちの声が聞こえて来た。多少気にはなるものの、人だかりに首を突っ込んでまで事故現場を見たいとは思わない。私は、事故に遭った人が無事であればいいと願いながら、自宅へ向かう足を更に速めた。突然名前を呼ばれたのは、人だかりを通り過ぎた時だ。
「梨菜ちゃん!」
 反射的に振り返ると、男の子が一人立っていた。見慣れない顔に「誰だっけ?」と慌てて脳内の記憶を探る。見たところ高校生くらいの少年だが、クラスメートの中に心当たりはない。別のクラスの誰かだろうかと思うものの、そもそも私は馴れ馴れしく自分を「梨菜ちゃん」と呼ぶ男子の存在に心当たりがなかった。
「片瀬梨菜さん……ですよね?」
 少年は私の側へ歩み寄ると、窺うように尋ねた。
「そ、そうですけど……。」
 私はアイドル並みに整った顔立ちに戸惑いながら警戒して答えた。頭をフル回転させるけれど、脳内の人物事典に該当項目はない。これだけ整った顔立ちをしていればそう簡単には忘れないはずなのだが、一向に思い出せそうにない。
「覚えてる? 笠原祐樹、小学校で一緒だった……。」
 私の警戒を察したのか、少年は首を傾げながら砕けた口調で言った。全く覚えていません! と言うのが本心だったけれど、それはいくらなんでも相手に失礼だ。加えて、笠原祐樹という名前を聞いて少しばかり脳内に引っ掛かるものが生じた。何かを思い出せそうな気がした。
「あ、ああ……。」
 私が曖昧に答えたのを「イエス」の返事と取ったのだろう。
「良かった。」
 少年は嬉しそうに笑った。人懐こそうな、子犬のような笑顔。
 そこで私はやっと記憶の中の「笠原祐樹」を思い出した。同時に、今まで「笠原祐樹」を思い出せなかった理由にも合点がいく。
 そう、笠原祐樹。それがアイツの名前だった。


 小学校の入学式、私はとてつもなく緊張していた。特別人見知りをするタイプではなかったものの、入学式の堅い雰囲気に慣れなかったのだ。入学式が終わった後も私の緊張は続いていて、クラスごとに教室へ案内された時、私は自分でもはっきりと分かるぎこちなさで席に着いた。わいわいと楽しそうなクラスメートの様子が視界に入るものの、私はピンと背筋を伸ばして椅子に座り、真っ直ぐ正面を見つめていた。
「片瀬梨菜ちゃん……だよね?」
 ふと声を掛けられ、私は横を向いた。隣の席の男の子がにこりと微笑んでいた。
「どうして、私の名前……。」
 こくりと頷いてから、私は尋ねた。
「名札に書いてあるから。」
 男の子は自分の名札を指差しながら言った。私も慌てて胸元に視線を落とす。確かに、黄色い名札には私の名前が書かれている。名札だけではない。私が今着いている席、机の片隅にも私の名前が書かれたシールが貼ってある。
「あ……。」
 私は自分の間抜けな質問を恥らいながら、視線を落とした。
「ぼくは笠原祐樹。よろしくね。」
 顔を上げると、その男の子はにこりと笑って右手を差し出していた。握手をしようということなのだろう。私が恐る恐る右手を差し出すと、その男の子――笠原祐樹は優しく私の手を握り、私もその手を握り返した。同時に、すっと肩の力が抜けて、私はやっと微笑む余裕を得たのだった。
 これが私とアイツ――笠原祐樹との最初の出会い。

 一度緊張が解ければ、クラスに馴染むことは私にとって特段難しいことではなかった。すぐに仲の良い友達ができ、私は毎日大きなランドセルを背負って小学校へ通うのが楽しみで仕方がなかった。ただ一つだけ気になったのが、アイツのことだ。
 クラスの中で、いや学校の中で、アイツの存在だけが異質だった。他のクラスメートがみんな徒歩で学校へ通うのに、アイツだけは毎朝校門の前まで車で送られていたのだ。もちろん、帰りも迎えの車がやってくる。おかげでアイツの登下校は人一倍目を引くものになり、アイツが校内を歩いていると「ほら、あの子。」と上級生が囁き合うほどにアイツは有名人になってしまった。
 間もなくして、私はアイツが国内でも有数の巨大企業グループである笠原グループの御曹司であることを知ったのだが、アイツの存在自体はその肩書きに比して決して目立つものではなかった。勉強は良くできたようだけれど、体が弱いのか体育はほとんど見学。昼休みも他のクラスメートが校庭で駆け回っている間、教室の片隅で静かに本を読んでいた。それはそれで特徴的な存在だったのだけれど、決してクラスの中心になるようなタイプではなかった。どちらかと言えばクラスの中心からは敢て距離を置いているようだった。
 私が他のクラスメートと共に校庭で遊んでいると、時々、窓際の席からこちらを見ているアイツの姿が目に入った。何度か一緒に遊ぼうと誘ってみたものの、アイツは小さく首を横に振って、ただ私たちが遊んでいるのを眺めていた。
 アイツは私にとって小学校に入って一番最初にできた友達と呼んでも差し支えない存在だったけれど、特別仲が良かったわけではない。最初に声を掛けられたきっかけだって、単に席が隣同士だったからというだけで、どちらかと言うと私は女友達と一緒にいることの方が多かった。特に学年が上がってからはそうだ。一方で、アイツが男友達と一緒にいることが多かったかと言うと、そうとは言えなかったのだけれど……。
 アイツと私の間に特別なことは何もなかった。ただ、なぜか毎年同じクラスになって、新学期には名前の順で指定された席が隣同士になってしまうという偶然が続いていただけだ。たった一度、ちょっとした事件が起きたことを除いたら……。
 それは、小学三年生の時だった。クラスの男子の一人が、アイツをからかったのだ。大人しいアイツがからかいの格好の標的になることはそれまでにも何度かあったけれど、一番ひどかったのがその頃だったと思う。毎朝車で学校まで送ってもらうのはずるいだとか、体育を見学してばかりなのはずる休みじゃないのかとか、社長の息子だからって偉そうにするなだとか……実際、アイツは決して偉そうにはしていなかったのだけれど――むしろその発言をした男子の方が偉そうだった――どこか独特なアイツが気に入らないというクラスメートは少なくなかった。
 アイツはどんな理不尽な言動に対しても丁寧に応じていた。決して怒らず、自分のせいではないにも拘らず、謝ることさえあった。クラスの男子がアイツをからかったその時も、アイツは黙って耐えていた。アイツはずっと耐えていて……耐えられなくなったのは私だった。膝の上でアイツの手がぎゅっと握られるのを目にした時、私は思わず席を立ち上がって叫んだのだ。
「いい加減にしなさいよ! 祐樹君があんたに何したって言うのよ!」
 アイツをからかっていた男子――市井――が驚いた様子で私を振り返った。
「何だよ、片瀬。こいつの肩持つのかよ? もしかして、こいつのこと好きとか?」
 市井は、どうやら一向に反論しないアイツを攻撃するのを諦めて、標的を私に切り替えたようだった。
「あ、あんたがいい加減なことばかり言ってるからでしょ!」
 私は拳を握り締めて精一杯反論しようとした。
「あー、赤くなってる。何、片瀬、まじでこいつのこと好きなわけ? きゃー。」
「きゃーじゃない! あんたが悪いよ、市井。梨菜は間違ってない。」
 突如、助け舟を出してくれたのは学級委員長を務めるクラスの女子の中心的存在である由衣だった。
「そうよ。あんたらいっつも祐樹君につっかかって、自分が勉強できないから妬んでるんでしょ?」
 由衣に続いて、周囲の女子が次々と加勢に入った。
「な、なんで俺が……。」
「祐樹君に謝りなさいよ!」
「梨菜ちゃんにもだよ!」
 団結した女子は強烈に市井を初めとする男子連中を責め立て、男子連中は瞬く間に降参の白旗を揚げた。丁度その頃からだろうか、女子の間でアイツの人気が高くなり始めたのは。市井のような足が速いだけの運動馬鹿から、優しくて知的な男の子に人気がシフトする時期だったのだ。
 この一件を機に、アイツに対するからかいはなくなった。男子のリーダー格だった市井が完全に手のひらを返したせいだ。その頃から由衣に密かな思いを寄せていたらしい市井は、自分の愚行を心から後悔したらしい。アイツが他のクラスメートと一緒に馬鹿騒ぎをするというようなことはなかったものの、その後のアイツはクラスメートの一人として他の男子と普通に会話を交わしていた。アイツに宿題のノートを見せてくれと頭を下げている男子の姿を目撃したことも一度や二度ではない。
 それでも、私とアイツとの関係は相変わらずで、新学期に席が隣同士になると会話の量が増えるものの、席替えで席が離れれば「クラスの男子」以上のやりとりは特にない。だから、その後の授業参観で初めてアイツの母親に紹介され、彼女から「いつも仲良くしてくれてありがとう。」と言われた時は驚いた。とても綺麗な人だったことははっきりと覚えている。アイツの外見も母親の遺伝子によるのだろう。アイツの父親もテレビや新聞で見たことがあったけれど、決して不細工ではないものの、彼女やアイツが持つ優しさや柔らかさは微塵も感じられなかった。見た目の点より性格の点で、美女と野獣程の違いがあると私はその当時から思っていた。
 小学校を卒業して、私とアイツの接点はなくなった。そもそも笠原グループの御曹司であるアイツが庶民に混じって公立の小学校に通っていたこと自体が驚きなのだ。アイツは名門私立大学付属の中高一貫校に進学して、私は地元の公立中学校、公立高校と進んで、今はその高校の三年生だ。アイツも、バカをして退学処分を食らっていなければ――小学校時代のアイツを思えばあり得ないことだけれど――その学校の高等部へ進学しているはずだ。
 卒業後は特に連絡を取り合うこともなく、五年経った今、私はアイツのことなどほとんど忘れかけていた。アイツだって、私のことなんか忘れていると思っていた。
 だから、その再会はあまりにも予想外で、とにかく予想外だった。

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●Novegle対応ページ ◎作者:桐生愛子(きりゅうあいこ)◎カテゴリ:現代/恋愛◎長さ:中短編◎状況:完結済◎あらすじ:高三の春、片瀬梨菜は五年ぶりに笠原祐樹と再会する。小学校時代の大人しい印象とは打って変わって活発な少年となった祐樹は、度々梨菜のもとを訪れては余計なお世話を残していくのだが……。

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