君は風のように
2
「また、来るからな。」の言葉通り、アイツはその翌日も私の家に通って来た。その次も、そのまた次の日も……。
一体どうしてこうも毎日毎日やって来るのか分からない。五年ぶりに再会したあの日、アイツを成り行きで家に招待して以来、アイツは呼んでもいないのに連日、私の家にやって来るようになってしまったのだ。
あの日、私がやっとアイツを思い出すと、
「今日は買い物?」
と、アイツは私が手にしていたハーブの苗の入ったビニール袋を見下ろして訊いて来た。
「うん。もう、帰るとこだけど……。」
五年ぶりに会って、小学校の時は私の方が少し高かった身長もすっかりアイツに追い越され、何よりも、アイツがまとう雰囲気の違いに私は妙に緊張しながら答えた。
「そっか。じゃあさ、途中まで一緒して良いかな? 久しぶりに会ったから、少し話とかしたいし……。」
そう言ってアイツは笑った。
「え? あ、ああ……。」
私が予想外の展開に驚いていると、
「……迷惑かな?」
とアイツが少し悲しそうな顔をした。その表情に慌てて、私は、
「ううん、全然平気。」
と大きく首を振ったのである。
それから、私とアイツは並んで歩いた。私は突然の出来事に驚いて、ほとんど自分から話をすることはなかった。あいつの話に肯くか、アイツの質問に一言二言で答えていただけである。そして、アイツは「途中まで」と言っていたにも関わらず、結局、私の家の前までついて来てしまった。
「少し寄ってく? お茶ぐらい出すよ。」
仕方なしに私がそう言うと、
「良いよ。もうすぐ夕飯の時間だろうし。また今度来るよ、梨菜ちゃん。」
そう言って、アイツはふと気付いたように、
「やっぱり、高校生になったのに『梨菜ちゃん』は変かな? 何て呼んだら良い?」
と笑顔で言った。
「え? 別に何でも良いけど……。」
私が言うと、
「梨菜……。」
「へ?」
「あ、やっぱり呼び捨てはダメかな?」
と、アイツは照れくさそうに頭を掻いた。
「別に良いよ、何でも良いって言ったんだから。」
私がそう言うと、アイツは嬉しそうに、
「じゃあ、梨菜、だな。オレのことは祐樹で良いよ。」
そう言われて私はこくんと肯いた。
思い返してみると、そこがターニングポイントだったのかもしれない。そもそも、小学校時代のアイツは自分のことを「オレ」とは言わずに「ぼく」と言っていた。高校生にもなれば、「オレ」の方が自然なのは確かなのだけれど……。
とにかく、その辺りから、私は「笠原祐樹」が変わったように感じたのである。
「じゃあ、またな、梨菜。」
アイツはそう言って片手を上げると、走って帰って行った。
そして、その翌日から、アイツは毎日、私の家へやって来るようになったのだ。
他に遊び友達がいないんじゃないかと心配もしたが、毎日楽しそうに私の家へやって来るアイツを見ていると、そう心配することもなさそうだった。それに、毎日とは言っても、三十分も経たずに帰って行くことが多く、また、高校生にもなって私がそこまで心配してやる必要もないのである。たとえアイツが勉強不足で受験に失敗したとしても――名門私立中学へ進学したアイツなら、エスカレーターで大学まで行ってしまうのだろうけれど――、私の責任ではない。尤も、アイツが毎日私の家へやって来るために、私の勉強時間が減ってしまうというのはいささか問題だったけれど……。
アイツは小学校の時とはまるで変わっていた。もちろん、私だって小学校を卒業して五年、大分変わったに違いない。ハーブに凝り出したこともその一つだし、それを契機に料理をするようになったのもまたその一つだ。小学校の頃、調理実習で得体の知れない物体を作り出していたことを思えば、随分な変化――進歩である。
しかし、アイツの変化はその比ではない。
小学校時代のアイツは、良く言えば大人しく、悪く言えば弱々しかった。今考えれば、あの頃のアイツは、学校の中で、教室の中で、ずっと萎縮していたようにさえ思う。
それが今は、良く言えばのびのびとしていて、悪く言えば我がまま放題だ。アイツの辞書から「遠慮」の項目が消えたのは一体いつのことだろう。再会の時にまだ微かに控えめな態度が見て取れて、だからこそ、私は何とかしてそれが笠原祐樹であることを思い出せた。しかし、私の家へ度々押しかけるようになってからのアイツは小学校時代の笠原祐樹とは全く完全にどう考えても別人である。小学校卒業後にどこかで頭を打っておかしくなってしまったのではないかと思うくらい、かつて感じた育ちの良さや頭の良さがほとんど跡形もなく消え失せている。唯一悪化しなかったがその整った顔立ちで、むしろ成長してより魅力的になったとも言える。
だからどうということもないけれど、毎日現れるアイツの顔を見ている限り、アイツはとても楽しそうで、生き生きとしている。小学校の時よりも、ずっと……。
「ちょっとぉ、聞こえてるぅ? 梨菜ぁ、梨菜ってばぁ!」
ぶんぶんと肩を揺さぶられ、私は我に返った。
高校の教室。目の前にはクラスメートの由美の顔があった。由美とは高校に入ってからの知り合いだけれど、今では私の一番の親友になっている。
「え? あ、ごめん。ちょっとぼーっとしてて……。」
私が言うと、由美はぷーっと顔を膨らませた。
「もう、何考えてたのよぉ。すっごく幸せそうな顔してたよぉ。」
語尾を伸ばす癖のある言葉遣いで由美が言う。左右で結ったおさげの髪に、下手をすれば小学生と間違われてしまうような幼顔の彼女には、子供っぽい仕草や口調も自然と似合っていて、不愉快には感じたことはなかった。作ったような可愛さは同性の反感を買ってもおかしくないのだけれど、由美はむしろ同性に気に入られることの方が多い。クラスの女子のほとんどは「相変わらずだねえ。」と笑いながら、由美を可愛がっていて、裏表がなく純粋すぎるほどに正直な彼女の性格に予想外の損害を被ったのは、彼女に告白して三秒で振られた隣のクラスの男子生徒くらいに違いない。
「べ、別に何にも考えてないよ。ちょっとぼーっとしてただけ。」
私が慌てて言うと、由美は私の言葉を遮って、私の机を力強く両手で叩いた。
「嘘! 梨菜、ちゃんと顔に出てたよぉ。『私、今すごく幸せなのぉ。』って感じだったぁ。まさかとは思うけどぉ、由美に内緒で彼氏作ったりなんかしてないよねぇ?」
じーっと由美が私を睨みつける。
「な、何言ってるのよ、そんなわけないでしょ。」
私は即座に否定したが、それが由美には逆効果だったようだ。早口のセリフに私の動揺を見抜いたらしい。
「でもぉ、むきになって否定するところが怪しんだよねぇ。例え彼氏じゃなくても、絶対に男の子のこと考えてたよぉ。恋する乙女モードだったもん。」
一体どこからそんな勘違いが出て来るのか、由美は全く引き下がらない。確かに「男の子」のことを考えていたのは事実だが――その点で彼女の鋭さを怖いと思うのだけれど、実際に私が考えていたのはアイツ――笠原祐樹のことである。あんな迷惑な奴に対して、一体どうすれば「恋する乙女モード」になれるのだろう。
「それにぃ、先週の日曜日、梨菜、留守にしてたでしょぉ?」
ぎくり、と思わず身体が硬直する。アイツと再会したその日が、丁度先週の日曜日だった。
「一緒にお買い物に行こうと思ってメールしたのに返事がないから、由美、梨菜のお家にまで電話したんだよ。それなのに誰も出なくて、由美、一人でお買い物行ったんだから。」
由美は頬を膨らませて言う。その日はうっかり携帯電話を家に置き忘れたまま出掛けてしまい、帰宅してから携帯電話に残された着信履歴とメールに気がついた。すぐに由美へ電話を掛け直し、一応の謝罪の後、ひたすら他愛もないお喋りに興じていたような気がする。今更になって文句を言われる理由はないはずだ、そもそもこのことが「恋する乙女モード」とどう繋がるのかさっぱり分からなかった。
「その日はハーブの苗を買いに出掛けてて……。」
私はできる限り落ち着いた口調で口を開いた。
「嘘! 梨菜は男の子とデートしてた! 由美はこの目でちゃぁんと見たんだよぉ? 梨菜が男の子と並んで歩いてるとこ!」
由美は両手を机の上についてぐぐぐと身を乗り出し、顔を近付けてきた。私と並んで歩いていたという男の子は間違いなくアイツのことである。
「う、嘘……見てたの?」
動揺した私が思わず漏らすと、由美はにこりと笑った。
「掛かったね、梨菜。」
「え?」
「梨菜が男の子と並んで歩いてるとこを見たっていうのは嘘だよぉ。でも、日曜日に梨菜を見たのは本当だからねぇ。誰かと楽しそうに話しながら歩いてるのは分かったんだけどぉ、人が多くて相手が誰かは分からなかったんだぁ。でもぉ、由美の推理は大当たり! やっぱり男の子だったぁ。」
由美は嬉しそうに言った。私は完全に由美にしてやられたのである。
「さあ、相手は誰なの? 白状しろ。ネタはもう上がってんだ! 吐いて楽になっちまえ。」
一体いつの時代の刑事ドラマを見たのか、由美は私の肩に腕を回し、低く抑えた声で迫った。先ほどまでの甘ったるい声はどこへ行ったのか、妙に迫力がある。
「いや、だから、あれはその……。」
私がもごもごとまごついていると、由美は小さなため息と共に私から離れた。
「そっか、由美には話したくないんだね。うん、分かった。」
思いの外簡単に由美が引き下がって、拍子抜けしてしまう。ほっとしたと言うよりも妙な予感が脳裏を過ぎって、その予感の通り、由美は続けた。
「由美、梨菜のこと親友だと思ってたのに……。由美は梨菜に隠し事したことなんかないのに……。」
そう言いながら、由美は円らな瞳に涙を浮かべ始めた。演劇部所属の由美が演技派なのはよく知っていたが、例え嘘泣きでも涙まで流されては敵わない。由美の大きな声とオーバーリアクションのせいでいつの間にか集まり始めた教室内の視線が痛い。
「ご、ごめん。分かった、ちゃんと話す。」
私は両手を挙げて降参した。
「うん、しっかり話してね。」
由美はぴたりと涙を止めて笑い、私は本当に由美には敵わないのだと思う。
私はアイツが小学校の頃のクラスメートであり、先週の日曜日に久しぶりに会って、少し話しをしたのだということかいつまんで由美に話した。しかし、その後、アイツが毎日のように私の家にやって来ているということは伏せておいた。本当はアイツの迷惑っぷりを誰かに話したかったのだが、由美に話せば余計な誤解をされかねない。
アイツが毎日私の家へやって来る理由だって、由美ならきっと、
「きっとぉ、その子は久しぶりに会った梨菜に惚れちゃったんだよぉ。」
と言って片付けてしまうに違いない。由美には何でも恋愛沙汰にしたがる困った癖があった。
「じゃあ、今度、祐樹君、紹介してねぇ。梨菜が興味ないんなら、由美の恋人候補にするからぁ。」
由美は嬉しそうに言い、私が「イエス」とも「ノー」とも答えないうちに、メルヘンの世界へ旅立ってしまった。
「カッコイイんだろうなあ、祐樹君……。」
両手を組み合わせて天井を見上げ、きらきらと瞳を輝かせている。私よりも由美の方がずっと「恋する乙女モード」だ。尤も、顔はともかく、実際に会って話しをしたら、きっと由美は幻滅してしまうだろう。何しろ、相手はあの我がまま坊やである。由美が理想とする白馬の王子様には程遠い。
でも……もしかしたら、騒がしい者同士、この二人は案外お似合いなのかもしれない。一瞬そんなことを考えて、私は即座に否定した。
(ダメよ。絶対にダメ。)
心の中でそう呟き、私は大きく肯いた。