君は風のように
エピローグ
アイツが消えて、私はすとんと椅子に腰を下ろした。
何度も私の家へ遊びに来ていたアイツが幽霊だったということも衝撃的だったが、生まれて初めてしたキスのことがぐるぐると頭の中を巡っていた。ファーストキスが幽霊とだなんて笑い話にもならないけれど……。
しばらくの間、私はぼーっと椅子に座って虚空を見つめていた。そして、少しずつ冷静に頭が回るようになって来ると、アイツが幽霊だったという事実もいくつか思い当たる節が生じてきた。私が投げたクッションを巧みに避けていたのも、アイツが幽霊であれば、避けずとも当たらない。アイツは思いの強さがうんぬんと話をしていたけれど、もしかしたら、たぶんきっと、透けたいと思えば透けてしまうことぐらい出来るに違いない。何しろ相手は幽霊なのだから。二階の窓から侵入することだって容易だろうし、私が窓を開けなくてもその気になれば入ってくることはできたのだろう。ローズマリーティーを吐き出したのだって、幽霊はこの世のものを口に出来ないからなのだ。吐き出したのではなく、元々飲んでいなかった。つまり、私のローズマリーティーがまずくて飲めなかったわけではなく、単に幽霊だったから……。私は彼女のローズマリーティーと自分のローズマリーティーとの違いに頭を悩ませた自分をアホらしく思ってため息を吐き、私はふと開いたままのノートの隅に目に留めた。自分で書いた覚えのない文字がある。
――ハチミツ。
私の字よりもずっと綺麗に整った楷書体だ。どこかで見たことがある。
(まさか、アイツ……?)
急に近付いてきたアイツに私が動揺している間に、アイツは私のノートにいたずら書きを残していったのだろうか。
「だからって、なんでハチミツなのよ。最後に食べたかったとか?」
うーんと考え込んで、私は思い出した。そう、ハチミツだ。彼女はローズマリーティーにハチミツを入れていた。思考中に思わず口にした私のセリフをアイツは覚えていたのだろう。そして、その断片的なセリフから、私が何を考えているのかも完璧に見抜いていたのだ。
それならその場で教えてくれれば良いものをと思ったけれど、その場でハチミツ入りのローズマリーティーを勧められる事態を避けたかったのかもしれない。
「飲ませてあげたかったな、ハチミツ入りのローズマリーティー。」
材料が分かったところで、幽霊のアイツが私のいれたハーブティーを口にできたはずはないのだけれど、もしもアイツが幽霊になる前に再会できていたら……。私はゆっくり目を閉じる。
「夢じゃないんだよね。」
私はそっと綺麗に並んだ四文字を撫でた。この文字と、私の記憶と感覚が証拠だ。
ふと、机の上の卒業アルバムに気付いた。私が卒業アルバムに書いた将来の夢はファッションデザイナーだった。それなら、アイツは一体何と書いていたのだろう。「覚えててくれたの?」というアイツの言葉が気になった。もしかしたら、アイツはあの時、自分がこの卒業アルバムに書いたことを「覚えていてくれたの?」と言ったのではないか。そう思って、私は卒業アルバムのページを捲った。「みんなの夢」と書かれたページを開き、ランダムに配置された吹き出しの中から「笠原祐樹」の名前が記された吹き出しを探す。「笠原祐樹」と署名された吹き出しは見開きのページの一番隅にあった。
「獣医になりたい 笠原祐樹」
そう書かれていた。小学校六年生で獣医の「獣」という漢字が書けるのは何とも生意気だが、アイツが私のノートに残した四文字を同じ妙に整った楷書体も小学生らしくはなかった。
「そっか、獣医になりたかったんだ。」
私は小さく呟いた。確かに、アイツは大企業の社長なんて柄ではない。小学校の頃も、今のアイツも……。小学校以来、アイツは何一つ変わっていなかったのだ。優しい動物好きな少年に変わりはなかったのだ。
小学校の頃、他のクラスメートたちがいい加減にやっていたウサギ小屋の掃除をアイツだけはいつも熱心にやっていた。単に真面目だっただけではなく、動物が好きだったのだろう。小学校の前に置き去りにされた子犬を家まで連れて帰ると騒いでいたこともあったっけ。普段、大人しく他人の言うことを素直に聞いていたアイツが、珍しいことに泣きながら迎えに来た運転手らしきオジサンに訴えていた。どうして今まで忘れていたのか不思議なくらい、アイツの思い出が一気に脳裏に甦ってきた。
頭も良かったし、アイツならきっと獣医になれたはずだ。生きてさえいれば……。
私はふと、アイツが死んだ理由が気になった。アイツはどうして死んで幽霊なんかになってしまったのだろう。アイツは自分がどうして死んだのかを私に語らなかった。私は確かに尋ねていたはずなのに……。
私は卒業アルバムを閉じ、部屋を出た。向かいの父の書斎へ潜り込む。二ヶ月も前の新聞をそのまま放置しておくほど私の母もずぼらではないが、インターネットで検索すれば新聞社のデータベースにアクセスできるはずだった。
亡くなったのは、笠原コーポレーションの御曹司だ。大きなニュースになったという記憶はないものの、訃報欄に葬儀の知らせくらい載っているかもしれない。「笠原祐樹」のキーワードで検索すると、ヒットがあった。訃報欄ではなく、交通事故の記事だ。
――五月十四日午後四時過ぎ、**駅近くの交差点で**大学付属高等学校に通う笠原祐樹さん(17)が**運輸のトラックに撥ねられて死亡した。運転手は「突然、笠原さんが道路へ飛び出して来た」と話しており、警察は自殺を図った可能性もあると見て……。
「自殺……?」
記事中に含まれた予想外のキーワードに、私はしばらく唖然としていた。
アイツが自殺なんてするはずはない。アイツには夢があったのだ。私に向かってあんなにも夢を諦めるなとしつこく言い続けていたアイツが自ら夢を諦めて死んだなんて理解できない。
パソコンの画面を睨み付けながら、私はふと気が付いた。アイツが事故に遭った交差点はこの近くだ。小学校の学区が同じだったし、招かれて行ったアイツの家は確かにこの近くだったから、アイツが近くの交差点で交通事故に遭ってもそれ自体は不思議ではない。
しかし、この日、この時間、私もその近くにいたのだ。近くどころかまさにその現場を通っていた。園芸店でラベンダーを買った帰りの人だかり。まさにあの交通事故の現場を私は通り過ぎたのだ。私はそこでアイツと再会して……。
「そうだ、あの時……。」
私は嬉しそうに声を掛けて来たアイツの笑顔を思い出し、同時に、引っ掛かる何かに気付いて脳内映像を撒き戻した。アイツと再会する直前、私は確かな答えを聞いていた。あの時耳にした野次馬の言葉だ。
――その前に猫が飛び出したようにも見えたけど。
それで全て合点がいく。アイツは飛び出した猫を助けようとしたのだ。獣医を目指していたアイツなら、人一倍心優しいアイツなら、見殺しになんてできるはずはない。自殺じゃない。アイツは生きようとしてた。生かそうとしてた。
一体どこから「自殺」なんて言葉が出てきたのかは分からない。自ら道路へ飛び出したことをもって自殺と決め付けたのならそれはあまりにも安直だけれど、もしかしたら、明るく振舞っていたアイツにも自殺したくなるような何かがあったのかもしれない。再会してからのアイツが自分のことを何一つ話さなかったのにも、理由があるのかもしれない。
アイツは、幽霊の自分を見ることができたのは私だけだったと言っていた。私だけが特別だった。最後に会ったのは五年も前で、六年間の付き合いがあると言っても単なるクラスメートでしかなかった私だけにアイツは見えた。アイツの父親にも、アイツの姿は見えなかったのだろう。
どうして? それを考えると苦しくなる。小学校を卒業してから、アイツがどんな風にしていたのか知りたくなった。中学校、楽しかった? 高校は? もっとたくさん、アイツの話を聞きたかった。
でも、それはもう叶わない。私は探偵じゃない。今更、アイツの過去を調べたところで何の意味もない。アイツは何も語ろうとしなかった。言いたいことがあるなら言ったはずだ。
アイツと再会してからの二ヶ月間、それが全てだ。アイツは無邪気に笑っていた。偽りじゃない、儀礼じゃない、本物の笑顔だった。
もしも天国があるのなら、今頃アイツは母親と再会し、幸せにしているだろうか。天国に獣医の職業はないかもしれないけれど、アイツの大好きな動物がたくさんいれば良いと思う。
私も……頑張るから。
私はパソコンを閉じて父の書斎を出た。その時、階下からガチャリと鍵の回る音がする。
「ただいまあ。」
大好きなお喋りと甘いものを堪能して帰って来た母の機嫌は良さそうだ。私は一度、自分の部屋へ戻り、机の上に置きっぱなしになっていた進路希望調査用紙を手に取った。答えはもう決まっている。私はゆっくりと母のいるリビングへ降りて行った。
《了》